第八話 プレゼント事件
「業績アップって言ってもなあ」長谷川は椅子の背に体を伸ばした。「三年ほど前にはスーパー営業マンがいたんだがな。体弱くないやつね」
「おれ知らなーい。そいつ。見たことなーい」宇野が長谷川チーフの揶揄をしらっと受け流す。
陽介が懐かしげに言った。
「あの頃はここも、活気があふれてましたね」
「やっぱり出向?」
「そう、じいさんも元気で、本社からはよく研修や修行を兼ねてたくさん若手が来てた。そいつも出向で入ってきて、じいさんと特に仲が良かったんだ。でもさっさと出ていっちまって、このざまだよ。最近の若い奴はドライだから」
「みんな生き生きしてました」
何を突然、回顧主義で昔を懐かしんでるの、とイライラした時、奥の扉から黒沼が背中をかきかき、出てきた。伊野木のねえちゃん、と真弓子を呼ぶ。
「あのな、もうすぐ姪っ子の誕生日なんや。なんぞ洒落たもんを送って喜ばせてやりたいんやが、ちょいと買うてきてくれんかな?」
「しませんよ」
真弓子は言下に切って捨てた。「公私混同もはなはだしいでしょ」
黒沼と真弓子の口論が始まると、皆、肩をすくめてパソコンに顔を隠す。小さな個人事務所では社長が絶対で機嫌を損ねるのがタブーなのはわかっているが、真弓子といえど、排水の陣だから容赦はない。
佐藤かずみ――バツイチと紹介された険のある美人は、非難と関西弁の応酬に耐えかねたように、あたしがしますからいいですよ、と横から口を出す。
「ダメ」
切り裂く断定で真弓子に言われ、出した手を打たれたように、佐藤はひるんだ。
「そんな風に、ずっとなあなあでやってるから、こんなグダグダした空気になるんでしょう。顔も年も知らない好みもわからない、プレゼント?ふざけんなっての」
「だからあたしが行くからって、言ってます。ほっといてくれますか。姪御さんのことは知ってるし」
最初はなだめ顔だった佐藤も、細い眉をあげて、金属質の声を上げた。入ってきて一か月の新人にこれだけズケズケ言われたら、腹に据えかねるのも無理はない。
「知ってても、ダメよ」真弓子は一歩も譲らなかった。「それをやっちゃダメ」
女二人は、机をはさんでにらみ合った。
黒沼相手とはわけが違う。真弓子の持ち込んだ不協和音とトラブルが、従業員にまで派生した。皆、息を詰めて成り行きを見守っている。コトリとも音がしない。全員敵に回したって、と真弓子は覚悟を決めた。子供みたいなお使いを断ったからってどうだというの。こっちは退路なんてない。腹かっさばくつもりで来てるのに。
気迫負けの佐藤は目を逸らし、真弓子を無視して黒沼の方を向いた。
「先生、私がやりますから。大丈夫です」
黒沼の耳元に、安心させるように囁いてるのを尻目に、真弓子は大声で叩きつけた。
「センセイ、仕事が引けたらちょっと付き合ってもらいますよ」
「ええよ伊野木くん、付き合うわ」
黒沼の顔には笑みがあった。やさしく佐藤の背に手を置いてぽんと叩き、佐藤君は気にせんでええ、自分で買うよと声をかける。
仕事が引けると、真弓子は事務所の前で黒沼が出てくるのを待っていた。腕を組んだ様子がえらそうに、アップにして前髪もクリップで留めた姿は変わらないが、今日はスカート姿にハイヒールなので、黒沼はしげしげと眺める。
「何や」
「何って、買いに行くんでしょ、プレゼント」つんととがらせた唇がグロスで濡れて光る。
「酒のことで説教するちゅうて、デートしてくれるんやないんかい、期待はずれやな」
「仕事が終わってんだから、買い物に付き合うぐらい、これは私の自由意志です」すまして言う。「アドバイスくらいならしてあげるわ。ラゾーナとかなんでしょ?」
「そないな大げさやなくていい、アトレとかでもええんや」
黒沼の事務所は、川崎駅の南側にあった。結局二人はラゾーナの方へ向かい、広場がすでにライトアップされているのを見た。黒沼はエレベーターをひょこひょこ歩いて上っていく。真弓子も仕方なく、ヒールで追った。
「佐藤君はいっつも、チョコレートを送っとるようやった」
「せっかくのプレゼントなら、本人が選んだ方がもらう方も嬉しいわよ。姪ごさんは、いくつなの?陽介君の妹か何か?」
「いや、別口や。ハタチ、いやもう二十二くらいにはなるか?思い出せん」
「あきれた、覚えてないの」
いかにも娘と父親、といった風情で二人はラゾーナを一通り歩いて回った。
「決め手がないわね」真弓子は言う。「姪ごさんは、紅茶は好き?」
「どうやろ、コーヒーと紅茶いうたら、紅茶を飲んどったと思うがなあ」
「じゃあ、神田にいい紅茶屋さんがあったわ、そこで買ってあげる」
なんや、結局買ってくれるんかいな、と黒沼はきょとんとし、それから腹を抱えて笑い出した。
「何やったんや、昼間の騒ぎは?佐藤君とケンカまでして」
馴れ合いのぬるま湯に混じる気はない、経営者であろうとも媚びたり言いなりになったりはしない、という自分の覚悟と気合を、従業員たちにも示したかった。黙っている真弓子に、黒沼はしみじみと言う。
「姪っ子は、ねえちゃんの娘でなぁ。死んだかあちゃんにそっくりやねん。あんたみたいな可愛げのないタイプとは大違いでな、素直で、美人で、頭ええてな」
妻が死んで、子供もいないと陽介が言っていたのを思い出す。
「それでもやっぱり女なんやなあ。男がええて、ついていってしもてなあ」
「駆け落ちしちゃったの?」
二人はライトに照らされたグランドステージ前に出た。生暖かい夜の風がさっと吹きよせ、急に黒沼の顔は沈んで暗く、表情が固くなった。空気が変わり、低く言う。
「でもあの男はアカン。あいつはアカン」
よどんだ、物狂おしい響きだった。
「はよ別れさせなあかんねん」
「お父さんの気持ちなんだ」
真弓子もふと、故郷へ思いを馳せる。
「私の父は頑固一徹。九州の男だから、箸の上げ下ろしから食器の片付けまで、何一つしない。できないの。だから、自分で出来ることを人にやらせようとする男性を見ると、つい思い出してイライラしちゃうみたいなの。佐藤さんには、とばっちりで悪かったわ」
「かまへんがな。あの子、根に持つタイプやから、ずーっと腐っとって、内にこもってひとりきりや。世界は終わった思うとる。そろそろ人間らしい刺激もええころや」
黒沼は、鳥の巣そっくりな髪の毛に指を突っ込んでかき回した。真弓子の方を見ずに、空を見上げて穏やかに言う。
「あんたは、本社に報告義務言われて来たのやろ。言いにくかったら言わんでもええけど。確かにうちは傾いとるからな」
真弓子は正直に答える。「報告義務は言われてます」
「ギャーギャーやらなあかんのやったら、やったらええ。軋轢が生まれるのは承知の上で来てるのやろ」
「それは覚悟の上よ。あなたとも」
「ええ根性や」
雇い主なんだから、一応、形だけでも尊敬はしろなんて形式主義を一言も口に出さない。この初老の男を、真由子も気に入った。娘に反発されるとすぐに、殻に深くこもってしまう父とは違う。この潔さがあれば、何とかなるのでは?と希望さえ抱いた。
真弓子の感じた好意を、黒沼も敏感に感じたようだった。
生暖かい春の風は、春の雨を運んでこようとしているようだった。小さな雨の粒が、鋪石に黒い痕を付けていく。それ以上は強くはならない霧雨に、二人ともかまわず、ステージ前に立っていた。
「あないなちっぽけな事務所やが、わしの城やった。でももう、ええんや。ねえちゃんが壊す言うなら思い切りやれ。草も生えんぐらいきれいにぶっ壊したれや。この商売はな、ものを売ってるのと違うから、人がいなくなったらそこで終わるんや。つまりワイで終わりいうこと」
「何言ってるの」
ステージの方へ向けてニ、三歩、歩いていた黒沼は立ち止まり、真弓子を振り返った。
「城なんだったら誇るべき文化なんだから改修して後世に残さなきゃ」
言い方は優しかったが語気強く、口先だけの励ましかと思ったら、真弓子は本気だった。
「小さくても記憶に残る城だってあるでしょう。センセイ、ものも人も同じだよ。ものがないなら、人を育てて、人を売らなきゃ。昔の話なんて言わないで。ぶっ壊して作り直したっていいじゃない。礎石だか土性骨だかが残ってるなら、何とでもなるでしょう。ほら宮大工って技術そのものが文化財だったっけ。定期的に新しく作り変えるからこそ、長く残るとかさ。私に何がやれるかわからないし、ぶっ壊すだけしかしないかもしれないけど」
正直、ぶっ壊すのはそうとうに得意だわ、と笑う唇を、黒沼は横から見つめた。真弓子は微笑してみせ、黒沼の方に体を向けて真面目に言った。
「でも、そんな風に言ってくれたのは、とてもありがたいわ。わたしを受け入れてくれて、ありがとう」
川崎駅の改札で、二人は別れの手を振った。気紛れな霧雨はもうやんでいる。真弓子が、プレゼントはまかせて、とウィンクしてみせる。先日のお返しとでも言わんばかりに。
「ほんまに生きの良いねえちゃんやがな」
次郎が送り込んで来ただけのことはあるわ、黒沼は、真弓子の後ろ姿につぶやいた。