第七話 セミナーと女子会
伊野木さーん、と長く伸ばした声がして、ニットワンピースの娘が、セミナー会場の黒い頭の海の向こうで手を振った。真弓子もほっとして、詩子ちゃん、と手を伸ばす。白くて柔らかな、きれいに爪先まで整えられた指が、真弓子の手を取った。
「あなたの顔見ると、ほっとするわ」
詩子も晴れやかに微笑む。
「わたしも、伊野木さんと会えるの久し振りなんで、とっても嬉しい」
日報を、指示をと言ったくせに、御船からはまだ何の連絡もない。会場の人混みを伺い、真弓子は桂木部長の姿を探す。
土曜日に新年会を控え、金曜日には月報ついでに、顔を見せてと言われていたので訪れた本社では、マネーサポート部の小林隼人に迎えられた。無理矢理に作成したキャッシュフロー表を渡し、ひととおりの報告を終えると、メディア部長は、今日は出張でいないけど、明日はセミナー会場にいるよと言われ、新年会ついでに会いに行こうかと思う。小林が聞いた。
「黒沼先生、あのザクみたいな色のフィアット、まだ大事にしてる?」
「ぼろぼろですよ。随分昔に買って、大切に使っているんだろうなって感じです」
「セミナー会場、ベルサールだから」
「わかりました」
「明日は新年会だろ?場所はどこ?」
「六本木です」
今回の講師は、久しぶりにあいつがやってたのか、と真弓子は目を細めて遠くを見る目付きをする。壇上の上に午前の部を終えた御船の姿があった。スーツを着こなし、髪には、きっちりなりすぎない程度にムースをつけて立っている。真弓子はトレンチコートの腕を組んだまま、横に書き込まれたホワイトボードでセミナー内容を眼でざっと追う。
一、ビジネス啓発本はすべて捨てよう
一、啓発本を読むより、街に出る
一、具体例で学ぶ、自分のことより人のこと
一、想像は自由、腹の中で コンサルティングしてみよう
一、世界を広げる、マクロの視点
一、世界を縮める ミクロの視点
一、変わる視点、変える世界
即売会の本には、人だかりが出来ていた。
うわぁ売れてる。いつ見ても信じられない。あれ、一冊千八百円とかよ。しかも、捨てろって言ってるのに購入するってどういうこと。セミナー参加料金三千円払ってさらに交通費に時間をかけて一体いくらに……。
「何をブツブツ言ってるの?真弓子ちゃん」
真弓子は振り返った。「部長!」ぱっと跳び寄ったから、笑顔で腕を広げた桂木部長に、真弓子はくってかかって文句をつけた。
「何てとこに配属してくれたんですか!」
「黒沼先生に、セクハラはされてないわね?」
「クスリやってないのがギリギリセーフのアル中じゃないですか」
お喋りがはじける。いったい、あそこはうちの会社とどういう関係?そうね昔は子会社、今は関連会社とでも呼ぶべきかしら、でもうちのこと本社って相変わらず呼んでるでしょ。
「とにもかくにも、真弓子ちゃんは黒沼先生には、あたりは悪くなかったみたいだから、第一関門、難なく突破よ。さっすが真弓子ちゃん!イェイ!」
明るく背中をパンとやられて、苦笑だけとも言えない笑顔になるが、ふっと視界の前、ホワイトボードの言葉がにじみ、影のように広がって真弓子を包んだ。
──死に体──
この明るい会場と雑踏に、唐突に暗い影がよぎる。内容が前向きで希望に満ちているだけに、余計に濃くなる足元に伸びる何かは、この雑踏の何名かの上にも今日か明日かに降りかかる、死の影なのかもしれなかった。
桂木部長と別れた後に、お待たせ、と背中から肩を叩いたのはキリエで、真弓子は振り替えると、彼女が手にしたパンフレットや資料を驚いたように見た。
「午前の部、まさか見たの?」
「私個人の意見との相違はともかく、なかなか面白かったよ」
既婚のキリエが土曜日の一日を、わざわざセミナーまで見てつぶそうとしている。その意味を真弓子は聞くことが出来なかった。キリエは明るく笑って、行こう、と真弓子が着ているネイビーのトレンチコートの腕を取る。
もう影は通りすぎていた。
新年会まで時間があるから、マンダリンオリエンタルに行こう、予約は取ってあるからと、キリエに引っ張られる。新橋から銀座線で三越前まで移動する。キリエの行動力は、常に行き当たりばったりの真弓子とは違って、いつも正確で、合理的だった。
視覚に訴える美しいアフタヌーンティーを予約していてくれたキリエは、明るい色のスプリングコートを置いて、真弓子の方に顔を傾けて耳打ちした。
「で、なんで私をその新年会に呼んだわけ?」
「人材を掘り起こしたいんだって。主婦やってるけど才能埋もれさせてる存在。キリエは働いているし、大きなお世話だって言ってやっていいのよ。飲みに誘いたかっただけなんだから」
言いながら、真弓子のアップスタイルはいつもより緩やかで、サイドに髪の毛の房がかかっているのが、普段とは少し様子が違っていた。トレンチコートの下も、それほど値は張らないが華やかなワンピースだ。片方だけ開けているピアスをいじりながら、真弓子は別れ際の詩子のことを思い出す。
午後の部のセミナー室から御船の声が小さく漏れていて、遅れてきた参加者か開いたドアの間から、顎に手を置き目を見開いて無心に聞き入る詩子の姿が見えた。
──農地であれば、この広大なヘクタール数を有効に扱う手段……農地法及び農地に対する税制を理解すること……足枷になっている……都市伝説に惑わされないことです…… 。
午前は本を売るための啓発セミナーで、不特定多数へ向けて一時間、午後は少人数向けで、事前アンケートに質問を書いてもらい個別解答方式で、二時間もかけてやっている。午後の部の方が密度が濃いから、講師はかなりの体力を使う。御船のパワーは底無しで、そこだけは真弓子も感心する。
御船のやりたいのは午後、メディア部がやりたいのは午前の方だ。本が売れれば出版しているメディア部に利鞘がある。午後の部は、御船が自分の顧客を開拓できるチャンスだから、御船の利鞘になる。ネームバリューと実利、二本立てでこなしていた。
──目を輝かせていたわ、詩子ちゃん。
あんな風に見つめられたら、さぞ気持ちよく講演も進むことだろう。午前の参加者には、午後の部のことを少人数制に付加価値をつけて喧伝する。希望があふれたら、本社の中堅マネージャーへ……、そんなビジネスの話ばかりをキリエ相手にして過ごした土曜日の昼だった。窓の外では、霧雨が降り始めていた。
六本木では、木目調の店内にビアバーがついている、イタリアンダイニングの外で、トレンチコートのまま、真弓子は電話に追われていた。
「また職場が変わったのって、だから何度説明すればいいの、お母さん。また、じゃない、転職はまだ、一度だけだよ。だめよ、こっちに来ないでよ。これからも仕事あるから切るね、切るよ!忙しいから!じゃあね」
やっと電話を切って店に入り直すと、幹事の若手アナリストの鈴木一平が、キリエを紹介している。
「今日は女性が多いから、こじゃれた感じの店にしてみました。こちらが伊野木さんの連れてきたメンバーです。伊野木さん、やっと来た!」
この会社で若手育成をうたう社外勉強会、運営はN社独立組のすらっとした女社長が会長をやっている。副会長は御船、新人アナリストが常に五~六名在籍していた。月一で定例会が設けられていて、その他にも、在籍メンバーには女社長および御船の案件をフォローする義務がある。キリエの横に嬉々として座った、若い鈴木一平が、素っ頓狂な声を立てて、注目を浴びる。
「ええっ、不良債権処理が専門なんですか、すごいですね。どんな仕事なんですか?」
「知りたい?あなたたちの案件が不首尾に終わった先の、さらにその後に分け前をもらう商売です」
「おれたちがやりそこなったら、お客さんの運命はこの人の手に行くかもしれないってことだよ」
真弓子の横には、今年いっぱいで勉強会を卒業することになっているコンサルタントの高橋順也が座った。お調子者の一平に比べて、いつも静かで落ち着いている高橋は、真弓子に向かって今日はなんだか雰囲気が違いますね、とはにかんでみせる。コンサルティング業界は、アナリストからコンサルタント、それからマネージャー、最高位のパートナーとランクが分かれている。
御船がキリエを見つけてこちらへやってきた。お辞儀ではなく手を握って握手するやり方に、キリエの応対は堂々と手慣れた様子でびくともしない。
「久しぶりだね、キリエさん」
「次郎君は相変わらず自信たっぷりね」
「鼻持ちならないって言いたいんでしょ、わかってますよ」
「味方も多いけど、敵も多いでしょうね。褒め言葉ですよ」
さすが私のキリエ、悠然と余裕の態度だわと、真弓子はひそかに自慢に思う。
「詩子ちゃんは今、いくつなの?」
水割りのロックを手に、キリエは今度は詩子に水を向ける。図々しさも柔らかな口調にかかると、自然なのだ。詩子は微笑んで、二十四ですよ、と答えた。
「じゃあ、次郎君はいくつなの?」これも詩子が答える。先生は、三十四になるはずです。
ちょっとやめてよ、と真弓子はキリエを脚で小突いた。どうして?ただ聞いただけじゃない?詮索しないでよ。女同士の秘密めいたささやきと、くすくす笑いが、酒と蒸し暑い空気に混じり合い、よけい酔ったように宴は続いていく。
料理も一通り出終わって、飲みながらの会話も静かな落ち着きを見せるようになった頃、会長の秋社長が真弓子の肩に手をふれた。
「伊野木さん、関連会社に出向を命じられたんですって?」
本名は秋山てふ子というのだが、その名前を誰もちょうこさんなどと、まともに使いこなせず、秋山社長は華がなくてつまらないので、いつ誰ともなくアキさん、とか秋社長、などと呼びならわされていた。
「仕事にも、職場の人間関係にも慣れてきた所でした」
秋社長は面長ですらりと背が高い。しかも背筋が伸びているから、上から見下ろされているような気分になる。
「まあね、でも新しい職場には新しい出会いが待っているかもよ、出向は力を試すチャンスですから」
「くじけたりはしませんが、あまりにも突然だったのでさすがに、ちょっとショックを受けてます」
言葉にしてみると、自分がかなりショックを受けていたのに今更ながらに気が付いて、ふっと肩が重くなった。御船が横から茶々を入れる。
「バリキャリ女子が出向言われたらショックだろうけど、最初から期待されてないんだから、崖っぷち女が崖っぷちに移動しただけじゃねえか」
馴れたはずの憎まれ口に、今日はチューハイを頭からぶっかけてやりたかった。
「こいつうるさいから、私もう帰る」
「帰れ帰れ」
御船が手をひらひら振るのと同時に、椅子が鳴って、ワインもまだグラスに半分残ったまま、詩子がゆっくり、おっとりと、彼女なりに精一杯、決然と立ち上がった。いつもよりはるかにきつく、眉根を寄せて御船を見咎めた。
「行きましょ、伊野木さん。今日は絶対、ゆっくり話をしたかったの、あんな人は置いていきましょ」
キリエさんも、とうながして、小さな顎をつんとそらして歩き出す。自然と若手の頭が割れて道を作った。詩子は秋社長に軽く挨拶をする。彼女は面長の顔をわずかに傾けて、眉の動きで答えただけだった。真弓子には、目で微笑んで指を上げ、声を出さずに、また、とくちびるだけ動かして合図をする。
いつも、御船に真弓子がひどいことを言われると、肩を持たずにはいられない詩子だった。さっきの御船が、わざとのようにぶっきらぼうで意地悪だったというわけではない。普段から、からかっては突っかかり、下に見てはすぐにケンカをふっかけてくる。
あの横浜が異常だったのだ。
詩子は、キリエの方を向いて、困ったようになだめるようにすまなさそうに、言い訳をする。
「先生を悪く思わないでくださいね。いつも、伊野木さんにはああなんです」
「態度が小学生みたいだったわ。あれで下への示しがつく?真弓子が付け上がらせてるんじゃないの」
もう、やめてキリエ今日は悪乗り、と真弓子は顔をしかめてみせる。早くそのジントニックでも飲みなさいよ。
「あの女社長は誘わなくてよかったの?」
「きっと今頃、配下にかしずかれる女王様みたいに飲んでるわよ」
詩子もなるほど、そうかもしれませんねと笑う。
あの人はいくつなの?確か四十二歳だったかな。女ざかりね。少し冷たいように見えちゃうけど、とてもいい人よ。おしゃべりに花が咲く。詩子が思い出したように言う。
「そうだ、出向先は川崎でしょう。うちのマンションが多摩川駅よりのすぐそばにあるんです。東横線の」
「多摩川駅って、田園調布の?」
彼女、マンションのオーナーなのよと聞かされて、キリエは目を丸くした。お家が資産家なのね、すごい。
「道理で、なんとなく浮世離れしてるわ、あなた。お嬢さんらしさが身体中から立ち昇ってる。男がほっとかないでしょ」
詩子はにっこりしただけだった。
「広尾にいる母方の伯母がずっと独身で、生前贈与してくれたんです。わたし、落ちこぼれの不良少女だったから、心配してくれたんでしょう」
化粧っ気のないナチュラルメイクに、エルメスのカーディガン無造作にひっかけて、カルティエの指輪にヴィトンのバッグ、ダイヤのピアスはともかく、ヒールはフェラガモ。キリエは口の中で、ざっと見える場所だけで羅列した。その全てが嫌味すらない、とんだしょうじょもいたもんだ。詩子は目を輝かせて、真弓子の腕にそっと触れた。
「ねえ、伊野木さんどこに住んでるんでしたか」
「東京ドームのすぐ近くよ」
真弓子が漠然と言葉を濁したことに、キリエは目ざとく気が付いた。
「うちのマンションに来たらどうですか。家賃まけますよ」
川崎に通うのも楽でしょ、ねえ。はずんだ声だった。落ち着いた子だと思っていたが、真弓子の前ではこんな表情も見せるのか、とキリエは思った。
「伊野木さんが近くだと、楽しいわ。武蔵小杉にも近いから、先生も喜びます」
そうね、と真弓子は苦笑する。
「やめておきなさいよ」
だしぬけに、キリエは言った。いつもの彼女らしく穏やかに優しく、だが長い付き合いの真弓子しかわからない険が、柔らかな笑顔の下にあった。
「真弓子も断りにくいでしょ。彼女、今住んでる所に愛着があるの。引っ越しなんて面倒だし」
詩子の前のカンパリオレンジのグラス、その氷が小さな音を立て、砕けて沈んだ。
「家賃をまけるってことは、利害関係が生まれるってことよ。あなた、真弓子に恩を売りたいの?」
大人の女の余裕で先輩としてさとすように、それとわからないほどの言葉で放つ平手打ちは、本当ならここではない別の場所にいる誰かが受けるはずだったものかもしれない。
「仲のいい友達でいたかったら、真弓子が断るのに困るような提案はやめなさいよ」
「そこまで考えてないわ、わたし」真弓子が割って入る。「今の家、気に入ってるから。ご近所付き合いもあるしさ」でもありがとう、詩子ちゃん、と笑顔で慰めた。真弓子は、詩子にはいつも優しかった。
東横線で田園調布の自宅へ帰る詩子のために渋谷へ向かい、駅の中で別れて山手線口へ向かいながら、ぽつんと真弓子は言った。
「ありがとう、キリエ」
「生前贈与されるオーナー嬢のマンションなんて、家賃まけてくれたって二十万越えとかでしょ。管理費だってばかにならない上に、疲れるわ」
真弓子が顔を見ないうちに、キリエは二度繰り返した。
「あの子、疲れるでしょ」
「キリエ、嫌いなのね?」
キリエは答えない。真弓子はほの白い息を通して、ぼんやりとかすむ構内の先の塀と大きな看板に浮かぶ笑顔とを見つめた。
「あの子、うちの会社の役員の親族か何かなんだってさ。私立女子校に、途中から行かなくなって、中卒。御船はあの子が十九の頃からの付き合いで、ずっと面倒見てるんだって」
背を伸ばして、キリエは笑顔になる。
「でも、彼女じゃあないでしょ、あれは。どう見ても」
「そうだと思うよ、どう見ても」
「最低」
「なんでよ」
音を立てて電車が二人の前を通過していった。激しい轟音の中で、無言の女たちは、目の前に横線の塊となった車体の列に、大学生の時から現在に到るまで、あっという間に通りすぎていく時の流れを見ていた。静けさが戻ってきて、真弓子はしっかりとした声で言った。
「ねえわかるでしょ。あたしは何も気にしちゃいないのよ。何度も言ってるでしょ、あいつとはなんでもないって」
キリエは答えず、表情には暗い影があった。それは今日、セミナー会場をつかの間よぎったのと同じものだったかもしれなくて、彼女の前にこれから待つ、冷たく冷えたリビングの床にもやはり落ちているのだった。