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汀より  作者: 天海 悠
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第六話 二日目

 しかし覇気(はき)の無い会社ね。それなりに活気はあるのに。

 カタカタなるパソコン、伝票をめくるカサカサ言う音が無機質に漂う事務所の中で、真弓子はじっと周囲を眺め渡していた。


──まずは、お前が見た通りをそっくりそのまま、気がついたことはなんでも報告してこい。従業員の雑談でも何でもいい。日報を待っているからな。


 あれからまた電話で、御船にはそう言われたが、初日からいきなり税理士先生と口論になりました、酒を作るのを拒否しました、なんて、どう日報にすればいいのかわからない。詩子が日記のようにしてくれればいいですよ、私が日報形式にしてあげますから、と言ってくれてはいた。

 説明を思い起こして確認する。年金、淫乱、ヒッキー、バツイチ。この四人を引くと、黒沼以外の事務員はあと二人いた。チーフと呼ばれる壮年の男と、真弓子と同年代ぐらい、つまり三十代ぐらいと思われる、顎までのウェーブのかかった長髪が顔を半分隠している男だった。


 黒沼が奥のパーティションに引っ込むのを待って、さて、とチーフが声を出す。センセイがいようがいまいが、かまいはしないのに、何をもったいつけてるのかしらと真弓子は思う。みな、黒沼を腫れ物にさわるようにしていた。酒乱で暴れだすとか、実は気難しいとか、地雷ポイントが何かあるのかしら。あのパーティションに入るのが何かの合図か何かなのかしら。チーフは事務員たちを集めると、円形になるように事務所の真ん中のスペースに皆を立たせ、一応、それらしき紹介をはじめた。


「みなさん、昨日からうちに来てくれることになった、伊野木真弓子さんです。N総合商事からの出向です。よろしくお願いしまーす」


 一通りの自己紹介が終わると、残りの二人がチーフは長谷川、若い方は宇野という名前であることがわかった。おそらくこの二人が主力であるのだろう、さすがの黒沼も、彼らのプライバシーを、本人たちの前で言う気にはなれなかったようだった。


 長谷川チーフは、中肉中背で心持ち小太り、短めに髪を刈り上げていて、いかにもどこにもいそうな男だったが、宇野の方は長髪が顔を半ば隠しているので、得体のしれなさがあった。しかしよろしくぅと、語尾が間延びした挨拶をしながら、髪をかき分けてこちらを見た目には光があって、どことなく人を引き付ける力があった。御船ほどではないが、どことなく思い起こさせる雰囲気がある。この業界、やっぱり似たような奴が集まるのかしらと、真弓子は思う。


 あのときの御船の指示を、桂木部長と人事部長に伝えたら、当然のように後は従ってねと完全に丸投げだった。御船はいつも社長室にも平気で出入りしているし、部長クラスとは友達口をたたく。副社長は嫌な顔をしているが、あの傍若無人ぶり、いったい何者よと思っても、今更、こっちのこの口の聞き方を変えるわけにもいかない。それに意図的に情報を入れるのを避けていたかもしれない。



 問題はこのあとに起きた。いつまでものんびり椅子でくつろいでいる税理士にしびれを切らして、真弓子はたずねる。


「今日は一緒に行かなくていいんですか?」

「今日はまわる先あらへんからいいんや」

「じゃあ、入力の手伝い?」

「ソフトが足りないんや。そのへんをちょちょっと見といてえな」


 仕方なく、真弓子は長谷川チーフの方を向いた。


「チーフ、私のやることは?」長谷川は手の動きを止めずに答える。

「伝票処理のやり方教えられる余裕がないんだ。いきなりは出来ないでしょ、専門的だしねえ」


 何人かが、パソコンのうらで忍び笑いをした、感じのいい笑いではなかった、


「冗談じゃないわ」


 真弓子はガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。


「訪問先がないって、じゃあ顧客名簿を見せて下さいな、確認したいことがあるの」


 しかし黒沼は、椅子にひっくり返って寝ているようで、チャーチの靴先が衝立の端から突き出していた。


「センセイ、聞こえてる?」

「疲れとるんや」


 靴先と同様に少しだけ覗いている机の隅にあるジュースボトルを、真弓子は胡散臭そうにつまみあげる。何よこれ、ソーダ水じゃないの?まさかその机の端にあるコップの中身はハイボール?


「昼間っから飲んだくれて恥ずかしくないの?」

「失敬な。これは二日酔いや、昨日の酒が残ってるんや」


 断固としてパーティションの中に脚を踏み入れた真弓子は、唖然とした。壁一面は、ニッチと呼ばれるくり抜き型の棚になっており、専門書や文庫と共に酒瓶が所狭しと並んでいて、さらに上部にはグラスホルダーがしつらえてあり、大小さまざまのグラスが釣り下がっている様子は完全に夜の店だった。


「こんな自分の面倒も見れないような奴が、他社の面倒なんて見れるの?ここはコンサルティングで食ってるんじゃなかったの?」

「うるっさいわあ姉ちゃん、本社もなんでこんなガミガミ女よこしたんや?」

「センセイが、こんなんだからなんじゃないの?」


 ええか。上体を起こして、黒沼が真顔で真弓子を見た。


「この業界は、ハッタリなんぼなんや。わいが飲んで騒いで、明るうしとるので、客も安心する。特に傾いとる先はカネの話は嫌やから、口軽くして、ええ気持ちにさせて、親身になって聞いてやらな。黒沼さん、実はね言うて、借金の話が出よる。家庭の問題も抱えとる。わしはここで、チャージせなあかんのや。頼むから休ませてぇな」


 黒沼の顔が真顔になったのは初めてだった。すると空気が変わった。ざっと風が吹いた気配が外から、ガタガタと窓枠を揺らす音までがはっきりと聞こえた。事務員たちは、突然影になって床に張り付いたように、存在がなくなった。

 パーティションの中で、真弓子は後退あとずさりをしたくなる。足を動かそうとしてとまどい、なぜか脳裏に御船の顔が浮かんだ。低く囁く声が聞こえた。

 あそこはもう、だめなんだ。

 踏みとどまった。昔はやり手だったって聞いたし、そこはさすがね。でも、わたしは引かない。こちとら、いつどんな人間相手にだって真っ向勝負、タイマン張ってやってきたんだ。


「そんなハッタリ私に通じないんだから、世間様にも通じるわけない」


 黒沼の眉を寄せた目は、真弓子のテーブルに付いた手にぶつかって跳ね返された。真弓子はもう片方の手をゆっくりさし出す。


「顧客名簿をちょうだい」


 黒沼は沈黙した。その表情は、こんな小娘ひとりを退散させられんとは、わいも落ちたもんやとはっきり語っていた。不承不承、バーのような戸棚の下を鍵を使って開き、投げ捨てるようにノート何冊かを机の上にほうり出した。

 真弓子は、その分厚い、汚れたノートに指を触れたとき、少しだけ後悔した。このノートは黒沼のいのちの糧そのものであるはずで、そこにぎっしりと書き込まれた数字やコメントには、沢山の小さな会社で働いている人々の汗が含まれているのだった。


「ありがとう」


 (きびす)を返す。すぐに返すわ、と言い残して、真弓子は無言のままの黒沼を後に、パーティションを区切る衝立から出た。


「年金さん……じゃなかった、経理さん」


 呼びかけると、また、そんな所にスペースがあったのかと驚くような一番隅のまた隅から、影になるまでもなく、最初から影である幽霊のようなしわくちゃの爺さんが顔をみせた。


「ここの事務所の帳簿を見せてちょうだい」


 また爺さんだわと真弓子は思う。こちらはあっさり出てきたが、真弓子は絶句する。手書き!


「また手書き!よその会社の財務入力してる事務所が自社分を手書き?」


 経理の爺さんはとぼけた顔で、「どうぞ、三年分ぐらいでいいかな?」と首をかしげる。

 真弓子はかろうじて威厳を保ち、「二年でいいわ」と言うのがやっとだった。気を取り直して、さらに注文をつける。


「だけど、財務諸表ぐらいは、あるはずよね?(データで)」

「どんなのですかな」

「BSとかPLとか、そういうやつよ」


 実はまだよくわかっていない。本社の勉強会で、その重要性と読み方を論議していたからこっそり調べてどんなものか把握していた程度なのだ。その時までには、影から人の姿に戻っていた事務員たちは、真弓子の叫びを聞いた。


「これも手書き?どうなってんのこの事務所は。私が欲しいのはデジタルデータなのよ。どいつもこいつも、よこすのは紙ばっかり!」

「うるっさいわぁ、ねえちゃん。ワイも爺さんも、パソコン苦手なんや。しゃあないやん」

「じゃあ、別の人が入力やればいいじゃないの」

「そうもいかへん。うちはこれでまわしてきたんや。今更他のもんがやろうとしても、わからへんし、混乱するだけや」


 ニーナは、宇野の長髪の耳元に口をよせて、人の悪い笑顔を浮かべささやいた。


「思ったより早くいなくなりそうだね、あの人」

「聞いてるぶんには面白いよ。こわいから、入りたくないけど」宇野はのんびりと答え、長谷川が鼻で笑った。



 いつの間にか昼になっていた。ランチは数名を残して他は皆外へ行くことになっているらしい。この界隈は、飲食店には事欠かない。おのおの好きな方向へと散っていき、真弓子は見向きもせずに、書類と取り組んでいた。一人出ていくたびに、扉から二月の冷たい空気が吹き込んでくる。それも最後に閉じた後は、暖房のきいた室内が唐突に静かになった。時計の音も聞こえてくる静けさが続くうちに、真弓子の頭が下へと引っ張られた。忍び寄る浅い眠りの中でどこからともなく、誰かが呼んだか、触れたかしたような気がした。

 よりそい、匂い立つ男の気配、二の腕を取って引き寄せられる。混んでいるエレベーターの中で触れあうからだが近い。これ以上先を見ないように、防ぐように、ただゆっくりとてのひらを上げて、視界をふさいだ。


 あのう、とまた小さな声がした。ここ数日の緊張続きの生活に、どうやら眠ってしまっていたらしい。まだランチからは、誰も帰ってきていなかった。おどおどした眼鏡の青年がひょろりとした体の背中を曲げて、真弓子の前に立っていた。ごめんねと目をこすり、肩をゆっくりと後ろへ回しながら、誰だったかしらと記憶を探った。


「陽介君、だったかな?」


 あのこれ、よかったら、と言いながら、青年はそっと真弓子の手の中にSDカードをすべりこませた。


「顧客名簿です」


 真弓子は、半分まどろみの中だったから、驚く余裕がまだなかった。SDカードをつまみあげ、片目を眇めてひっくり返してまた見た。それから、ありがとう、助かる、と微笑む。それから、立ち上がると、キリエがよく真弓子のねこの仕草と呼ぶ、細い体をぐうっと伸ばしたストレッチをした。


「そうだきみ、さっき自己紹介の時、気になってたんけど、黒沼陽介くんていうのよね?あのセンセイの息子くん?親戚?」

「先生には、こどもいないんです。ぼくは甥です」

「先生に奥さんは?」

「おばさんは、亡くなったんです。五年前くらい前に」

「そうだったの」


 さっきの騒動にまた罪悪感がわいてきて、やっと真弓子はいつもの調子を取り戻してきた。SDカードをパソコンに差し込みながら尋ねる。


「君がこのノートの名簿をデータ化したの?」

「はい、お客さんの財務諸表を作ったりしないといけなかった時に。不便なので、リスト化してプリントアウトして、チェックしていたんです。こっそり、自分用に」

「君、わかってるわ」真弓子は青年の背中をぽんと叩いたので、青年はびくっとして体を震わせた。「そうよね、不便よね。よかった、やっと言葉が通じる人がいて。ここは遠い昔のはるかかなたの銀河系かと思ったわ」


 優しく触れたぐらいのものなのに、この子は人に触れられるのに慣れていないようだった。そういえばひきこもり君だったのよね、オタクとかなのかしらと真弓子は思う。それでも、職場でも生活の上でも、使えない意地悪な一般人より、使える優しいオタクの方が千倍もありがたい。


「このノートのコメントまで、じっくり読み込むのは今は無理ね。大体の名簿と、大体の粗利あらりが分かれば今は充分だったのよ。ありがとう、これジジイ…じゃなくて先生に返してくる。大事なものみたいだしね」



 季節はまだ春の前で、陽が落ちるのも早く、空の色も鉛色だった。飲食店に加えて風俗店も多い川崎の東口では、昼からくすんだ身なりの男たちも多数うろつく。コンビニでサンドイッチでも買うかと外に出ると、昨日乗り回していた黒沼の車が目についた。黒沼の車はライトグリーンの古いフィアットで、あちこちにへこみがあるものの、よく手入れされていて車内はきれいに清掃されていた。その座席で運転しながら、昨日の午後に交わした会話を思い出した。


「うちは銀行が使っとる格付システムとほとんど同じものを持っとってな。ワイのアニキの会社の開発したシステムなんやけどな。銀行の格付が、早うに知れるっちゅうわけで、決算の前に客が皆、知りがっとるんや。仮決算で出してやると喜ぶわけや」

「聞いてもいいですか。どうして関西弁なんです?関西出身なの?」


 それには答えず、まあ聞きや、と黒沼は先を続ける。


「さっきの続きやが、うちの二本柱は、長谷川君と宇野君や。長谷川君はな、主夫をやっとる。子供三人抱えててリストラなって、奥さんが働いとってな、早よ帰って子供の面倒見なあかん。よって四時には上がってまう」


 それはもういいって、と真弓子がさえぎると、知っといた方がええんや、と今度は逆にたしなめられた。


「見んふりして探り入れたり横目で伺うたりしながら付き合うのはしんどい。ここは家族やいうたやろ。知っとかな向こうもやりづらいがな」


 そう言われて、真弓子も黙るしかない。


「長谷川君は外に出んで、うちうちを取りしきっとる。宇野君は外周りなんやが、病をわずらっとってな、二時までちゅう契約や。稼ぎ頭なんやが、バイトちゅうことになっとる。だましだましの操業や」


──問題のある人しかいない事務所だな。でもそれを受け入れて放り出さず、家族と言ってまとめてる。意外と苦労人なのね。細やかに気を使う。わたしに負けず劣らずぽんぽん放言するようで、見るところはおさえてるのね。


「なんで関西弁かちゅうたな」黒沼はニヤリと笑う。「キャラや」

「関西人じゃないっていうの?」

「これは、キャラづくりや。関西弁を嫌がる連中がおるのも承知の上でな、これはつかみなんや。強烈やろ?あとは中身で勝負やからな」


 黒沼は、中身、と言いながらこめかみをさしてみせる。


「飲み屋で仲良うなった工場勤務のじいさんがコテコテでなあ。習ったんや。せやから、本場仕込みやあらへん。ほんまもんの前では、あ、さようでございますか、なんて言うたりな」


 つられた真弓子を、黒沼は愛嬌のある顔つきで見た。


「ねえちゃんは笑った方が可愛いで」


 ウィンクをしてみせる、あきれたジジイね。憎めない、と真弓子はまた噴き出した。




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