第五話 繁忙期
「来たんか?」
奥の方から声があがって、事務所の中を区切るパーティションのスクリーンから、初老の男がひょっこりと顔を出した。白髪交じりのソフトリーゼントだった。髭は綺麗にそってあり、思ったよりまともそう、と安心するのもつかの間、「本社から来たねーちゃんやな、頼むで」とだみ声がかかった。なんで関西弁なんだろう?と疑問に思う。
「確定申告の時期で、今、みな忙しいんや」
一見、普通の街並みなのだが、一歩路地に入ってみると、あまり治安のよくなさそうな川崎駅の東口、路地を抜けた先に事務所はひっそり立っていた。寄りがたい店も多い場所だが、まともそうなビルで風俗店の隣という訳でもなく安堵する。三階建てのビルの一階は駐車場、二階が事務所だ。机と本棚が所狭しと並び、会計ソフトらしきものへの入力を、四、五人の男女取り混ぜた事務員が一心不乱にやっている。御船が言ったような、コンサルティングやセミナーをしている気配はまるでなさそうだと、疑問に思う。ごく普通の税理士事務所のようだった。真弓子の勝手な税理士のイメージでは、ソフトリーゼントはそのままに、ちょび髭、レイバンの眼鏡、数字に強そうないかめしい顔つきだ。黒沼の白髪の混じり始めた眉毛の下は、親しみやすいぎょろ目だった。
「では、私もこの入力を手伝えばいいんでしょうね?」
真弓子はジャケットを脱ぎ、袖をまくりあげようとした。
「やる気やな」
初老の男、税理士の黒沼隆一郎が、からかうように言う。事務員たちは、目もあげないでパソコンに向かっているようでありながら、真弓子がぐるっと見渡すと、さっと視線をはずしてまた画面に集中しているように見せかけようとしているのがわかった。
「残念ながら、ソフトの数が足りんのや」
昨夜、横浜のバルで、出向は結局どうするのとキリエに聞かれ、とりあえず行くだけ行ってみるわ、と真弓子は言った。溜め息をつき、ほっそりした腕を前に出して、ねこの仕草で思い切り伸ばす。
「これね、うちの会社は断ったら、たぶんクビ」
「それはそうかもね、例外はあるけど」
「いや、多分じゃない。間違いない」真弓子はキリエの顔を見て、クビだから私、と繰り返す。「そういう風土なの。あそこはそういうとこなの。労基法とか関係ないの。空気」
三代目が厳しい社長だって言ってたかしら、外資並みだったっけ、とキリエはさっきの話を思い出した。それに真弓子を呼んだ部長たちの、こちらを伺い試すような仕掛けるような、巧妙な質問の仕方を思い出す。真弓子はとっくに空っぽになったサングリアの器を前に、次を頼もうとする気配もない。そして左手の手のひらで顎を支えた。
「そしてね。あの会社が、あいつの言う通り、『死に体』で、ダメになったとしたら、私の帰る場所もない」
「クビってこと?」
そう、とうなずく。
キリエは思わず、真弓子の右手の指を掴んだ。
「真弓子!」
「絶体絶命、崖っぷちよ」
「あんたな、おれに付き合って運転してもらうわ。クライアントまわりやね。パソコン使えるんやろ?あまり使えへんから、頼むわ」
パソコンの一つから、無表情の女性事務員が立ち上がった。若くて、かなりの美人だった。でも、その表情は研ぎ澄まされた錐のようにとがっている。ブラウンカラーの髪を一振り、ひどく細く描いた眉をあげて、にこりともせずにこちらにカバンを差し出してきた。
「資料はここに、入ってます」
私のことを皆に紹介とか、皆を私に紹介とかないんでしょうか、と聞きたかったが、真弓子はここは黙ってカバンを受け取った。
すいませーん。高い声が上がった。こちらを見もしないで走るように横をすり抜けて、微風が真弓子の後れ毛をかすめる。彼女はさらに若く長い黒髪で、ふっと真弓子は目を止めた。やはり自分が女であるだけに、まずは社内の女性に目が行くものだ。事務所の女性は、この二人だけのようだった。
タイプは違うけどどっちも美人、このセンセイは完全に顔で選んでるね、と考えながら真弓子は背中を向けて黒沼の後に従った。と、黒沼がまたくるりと回ってこちらを向いた。
「それから、川崎の人間は気が荒い。最近はタワーマンションをバンバン建てとるが、腐っても工業地帯や。駐車場でモタモタしとったら怒鳴られるで」
まくし立てるように関西弁で言い募ると、長谷川君あとは頼むでと言い残し、足早に外へ向かった。
黒船と真弓子が出て行った後で、黒髪の女は長谷川と呼ばれた男にかがんでささやいた。小太りでがっしりした男だった。
「ねえチーフ、あれどういう人?」
「本社のお目付け役」
長谷川は口を曲げて、どうでも良さそうに、また気に食わなさそうに笑う。
「あの子、酒に強けりゃいいけどね」長谷川チーフの隣、肩までの長髪を後ろで結んだ男が慣れたように言う。「いきなりつぶれて帰って来てもいいように、洗面器用意しておけよ、ニーナ」
四時間後、二人は事務所に戻って来たが、真弓子はつぶれて帰ってなど来なかった。それどころか、疲れてはいたが二倍も元気で、音を立てて鞄を机に立てたまま置く。切り口上でとがめだてした。
「センセイ、これってわたしがいる意味あったのかしら?」
「下戸やったんかいな、しらけるわぁ」
聞いてや。この姉ちゃん、一口も飲まへんし。酒作るのも拒否や。接待やのに参るわぁホンマ、と口をとがらせるのに、真弓子はむっとして、運転するのに飲んだりできないでしょ、と負けずに言い返す。
「顔つなぎにしたって、雑談の間にパシリやってただけじゃない。今日何をしていたか?食事して、酒飲んで、ものの五分?ちょろっと説明してまた食べて、挙げ句のはてにこの昼日中から居酒屋に行って、準備中なのに中に入って飲みながら雑談して、それで終わりじゃないの。途中で置いて帰ろうかと思ったわ。これのどこが繁忙期なんですか」
置いたバッグをバンと叩く。眼鏡のひょろっとした若い男が、慌てて鞄を引き取りに来た。大事そうに抱いて避難させる。
「タダで飲み食いしたんやから、ありがたく得した思うてればええのに」
「あれを経費で落としてたらそりゃ身代傾くわ。アシスタントって、都合のいい肩書きよね。でもそれは、何でも屋じゃないです。接待要員で酒を作りに来たわけじゃない」
普通の人なら若干引いちゃう──、桂木部長の言葉がちらっと浮かび上がったが、今さら止まれなかった。黒沼はのんびり言う。
「ここで本社のやり方振りかざすと、皆に嫌われるで」
「本社関係ないです。私のやり方だから。どこに勤めても、しないわ」
「本社の前は何しとったんや、転職組や聞いてるで」
真弓子は若干、とまどった。ここで逃げたくなかったので、短く、切り上げるように答える。
「塾講師」
黒沼税理士は大げさな身振りで手をたたいてのけぞり、椅子から身を乗り出してみせる。
「どおりでか、客への説明、見せ方、本社に転職二年のぺーぺーにしては、こなれとる思うてたわ。先生やっとったんかぁ。なるほどな」
わざとらしい大声に、注目が一気に真弓子に集まり、顔が赤くなるのを感じた。
「ちょっと、人のプライベートですよ!」
「プライベートも糞もあるかいな、こんな狭い中で」黒沼は振り向いて、ぞんざいに従業員たちに向かって手を振った。皆、一様にさっと下を向く。
「こいつらは家族や。何でも知っとるでぇ。経理のじいさんは合併時に放出された銀行マンで、かあちゃんに逃げられた年金ぐらし、ニーナ君はかなりの淫乱やで。本社の出向が男やったら逃がさへんかったわなあ。陽介は引きこもりで高校も出てへん。佐藤君はバツイチや。それも惜しいことに、相手はけっこうなこの界隈ではやり手の建設会社の御曹司やったんやで」
ちょっと、ちょっと、と途中から、黒沼の長台詞をさえぎって真弓子は大声を上げた。
「人のプライベートには興味ないって、言ってるでしょ」
さもおかしげに、黒沼はくすくす笑う。まともに受け取りよるわ、といいながら、パーティションの奥に引っ込もうとして、あ、そうや、ともう一度のぞく。
「夕方からもあと一件あるんや。あともよろしく頼むで」