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汀より  作者: 天海 悠
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第四話 キリエ

「面白い部長さん。楽しそう。わたし、その人好きになりそう」


 キリエの優しい笑顔が、真弓子の気持ちをほぐしてくれた。もう一度ちゃんと話して、とせがまれ、さっき御船にしたばかりの、部長の話を繰り返していた。台詞を真似ると、声をたてて笑う。いい人なのよと笑う真弓子の頬も赤く、高揚していた。女が二人(そろ)えば、悲壮感は感じない。若くて血も燃えていた。


「で、出向をいきなり言われてね」

「待って待って」


 きりっと目尻の上がった大きな目の真弓子に比べて、柔らかく下げた眉といつも笑顔のような優しい目を持つキリエは、まろやかな声もゆったりとした話し方も、きびきびとした真弓子とは対照的だった。ショートの髪を前下がりのボブに切り揃え、今日は真弓子より女性らしいフェミニンなスーツだった。


「真弓子の“彼”の話を聞きたいわ」


 彼なんかじゃない、そんなのじゃないからやめてって、あの時も今も、真弓子はそう言うね。ほらまたそっぽを向いている。

 横浜駅の地下でキリエに招かれ、なんて久しぶりなの、全然変わってないわねと手を取り合った。彼女は馴れた足取りで西口に出ると、モアーズとは逆のジョイナスを抜けて行く。華やかなショッピングセンターを通り抜けると、帷子(かたびら)川と新田間(あらたま)川の水路が張り巡らされた橋を越えようとした。川沿いには無数の屋台が立ち並び、赤提灯の下を人がごった返していて、真弓子は目を見張る。キリエはあれがハマの屋台よ、不法占拠の、と笑った。


「行政と喧嘩してるの。そのうち見られなくなっちゃうわね」

「入ってみたいけど、今は辛いアジアン料理でお腹いっぱいだわ」

「そう?じゃあ今度、一緒に行こう。私も食事すませちゃったし、今はバルにでもと思ったの」


 迷路のような小道をいくつか抜けると、狭い階段を上がって、そこがキリエの行きつけのバルだった。キリエはソルティ・ドッグを、真弓子はサングリアを頼んだ。


「御船次郎君、私も一度だけ会ったわ。ほら、真弓子が転職した直後、新宿で夜、おめでとうよかったねって一緒に食事をしたじゃない。あの時にこの二人はお似合いだなって思ったのよ」


 真弓子はサングリアのネーブルを器用に細い指でつまみながらキリエに言った。


「あいつ、彼女いるよ」

「ええ、ほんと?」

「超、美人だよ」


 キリエは、彼って既婚者よと聞かされるより驚いた顔をしていた。真弓子は真面目な顔をしている。


「キリエと一緒に会った時、あのときは、私も存在を知らなくて」

「何よそれ」


 それより、出向なのよと話を戻し、別れ際の御船の台詞を繰り返した。



 駅西口の隅からモアーズの裏へ向かう路地の前に佇んだまま、御船は言った。


「あそこはもう、だめなんだ」

「だめって、それは経営が危ない状態ということなの?部長は確かに、融資が残っているって言ったけど」

「死にたいってこと」


 低い声で断固として遮られ、真弓子は黙る。よくわからなかった。そんな彼女に、御船は同じ調子で言葉を続けた。


「指示はおれがする。日報で報告しろ。以上」


 真弓子は見上げて、はっきりと答えた。


「そう。わかった。連絡するわ」


 そして、身を翻してその場を去った。




 キリエは眉をひそめて、その話を聞いていた。彼女には、御船の言う意味が、真弓子よりもよくわかったようだった。


「業績アップなんて、最初から無駄ってことじゃないの」

「そこなんだけど、『死にたい』って何?誰の自殺願望?」

「死んだ体って書くのよ。もうつぶれるってこと」


 ゆっくり、グラスを口へ運ぶ。縁の塩を少し舐めた。


「これは真弓子じゃなくて、わたしの専門ね。それで私を呼んだんだ」


 キリエが見せたのは何とも形容しがたい表情で、優しい笑顔がその時だけ一瞬、恐ろしく見えた。

 それから、女二人でつるし上げが始まった。


「次郎君の事務所は何?独立したコンサルタントで、講演会や出版やってるだったら、本社と競合するのに、そこをあえて個人事業主としてやってる意味は?その彼女とかのアシと二人でやっていけるの?」

「うん、今まで私があの勉強会に出入りしてる中で知ったのはね」


 本社は、大企業が相手で、チームを組んでやる。御船はベンチャーや中小企業が相手で単独行動、御船が認めたベンチャーは、本社に話を通して出資の対象になったりする。御船のセミナーは人気で、本部のキャリアセミナーの目玉になっている。


 話しながら、キリエは真弓子の姿をしげしげと眺めた。ゆるくウェーブかけてるのに、仕事中も飲む時も、どうしていつも変わらないアップスタイルばかりやってるのかと、おかしくなる。二年経っても彼女は全然変わらない。相変わらずの、口が悪くて負けず嫌いの真弓子さん、のままだった。最後に彼女を見たのが御船と一緒だったから、キリエの記憶には“彼”と真弓子の姿がはっきり映っている。夜の新宿で仲良くよりそい、待っていたキリエに笑顔を向けた。真弓子は恥ずかしそうに、小さい声で彼を紹介してくれた。


 二年前、突然真弓子が塾講師を辞めたと言ったとき、キリエはとても驚いた。真弓子は付き合っていた男と別れたばかりで、キリエは夫の浮気が発覚したばかり、メールのやりとりはしていたが、仕事に対して不満な気配はみじんもなく、天職と思うと常々聞いていたからだった。前の男と同じオフィスにいるのは耐え難かったのだろうかと思うが、そんなのは真弓子らしくない。男がらみの生徒が一人亡くなっていて、落ち込んだように見えているのはわかっていた。


 何かあったのか根掘り葉掘り聞いても、真弓子は答えない。そして一ヶ月後に、就職決まったの、お祝いしてよと誘われたのだ。新宿での待ち合わせ直前で入ったメッセージにはこうあった。


『職場の人と一緒なんだけど、いい?』


 御船はエリート臭こそないものの、キリエの周囲にいる、長年必死で働いてへとへとになっている男たちからすれば、周囲を圧する空気に一歩引いて、なんだよあいつはと卑屈になってしまう、そんなタイプではあったかもしれない。そんな男たちの中で働くキリエも、胸のどこかでかすかな反感が動くのを覚えた。でも親友の恋人になるかもしれないなら、むしろそれはよいことだ。キリエにはうまく表現できない。御船の真弓子を見る目つき、二人の距離感、ほんとに職場で会ったばかりの人なの?と疑問に思いながらも、真弓子のために祝福をした。


「次郎君のことは、全然納得いかないけど、まあ横に置いておくとして」


 キリエは、穏やかに促した。


「どうするの?出向。あっさり断って、様子見る?」


 質問を向けられた方はしばらく考えていた。キリエが二杯目のグラスを開けるまで。それから、キリエが見る所、かなり無理をして微笑んで、あきらめが半分入り混じった声で、とりあえず行くだけ行ってみるわと真弓子は言った。



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