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汀より  作者: 天海 悠
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第三十九話 最終章


 一瞬、死神のお迎えかと思う。黒沼の前に、いつものなじみの銀行マンが立っていた。


「何や、またあんたかいな」

「お久しぶりです。ひどいですね相変わらず」


 彼は勝手に椅子を引き寄せてきて、勝手に黒沼の席の横に座りながら言う。


「黒沼さん、いい後継者を育てられているじゃないですか」

「ちょっと待ちや。あれは違う。もののわかっとらん、若い甥姪が、あほなこと言ってるだけなんや。わいはもう、覚悟はできとる、知り合いの弁護士と不動産屋を頼もうとしてるとこなんや」

「愛されてますね、黒沼さん」銀行マンは、黒カバンを開いて書類を取り出しながら言った。

「あなたの所は、格付システム入れてるんだから、自分の事業性評価ぐらいわかるでしょう。まだいけますよ。もうひと頑張りしましょうよ。むしろここでよくなってくるって、並大抵のことじゃないですよ。ねえ、一緒に乗り越えましょうよ」


 脳裏に真弓子の顔が浮かんだ。伊野木のねえちゃんと同じこと言うんやな。


「保証人の件、そんなに怒ったらだめでしょう。そりゃNにもう一度融資してもらうのも悪くはないかもしれませんがね。でもせっかく言ってくれてるのに、ありがたく、すまんと頭を下げて、後を継いでもらいましょうよ」


 彼は、書類を探す手をとめて、真面目な顔をして言う。


「中小企業や個人事業主で一族経営、商売をやるのに、保証人は避けては通れません。協会は保証料が高いしね。保証人は、一緒に頑張るっていう、同じ船に乗るっていう覚悟の血判なんです。古い考え方ではありますが」

「銀行はんやから、そないな事軽く言えるんや」

「でも、甥御さんも姪御さんも、覚悟を決めたんです。お話しましたけど、特に姪御さんはとてもしっかりした考え方で、資格もきちんと持ってらっしゃる。ビジネスの仕組みも観点も理解して実行力もある。これなら大丈夫と思いましたよ。しかも、白砂さんの一人娘でしょう。彼女なら、マンションの一つや二つの根抵当、どうってことありませんよ。そう心配しないで。ベテランの僕が言うんだから、長い付き合いで嘘なんてつきませんよ」


 彼の頬に、昔はなかった皺が寄って、銀行マン特有の冷静さが和らぎ、人間本来の持つ表情がのぞいた。


「こういう商売だから、融資やって実行した先が、担当も離れて随分経った時に、巡り巡って自分で幕引きをやるなんてざらなんですよ。雨の日に傘なんて言われますけど、こういうケースは応援したいと思うんです。酒を少なくしてるんでしょう。えらいですね」


 銀行マンと黒沼が話している後ろでは、久しぶりに川崎を訪れた高橋が、事務所の皆を背にして、パソコンからシンガポールの一平とビデオ通話で会話していた。


「陽介、大学に行くんだって言ってるんですか?」

「それまでは、黒沼先生が石にかじりついてでも維持するらしいよ」

「詩子さんは?」


 詩子は高橋の横でディスプレイをのぞきこみ、笑う。


「行かないわ大学なんて。世の中、こんなに面白いのに、行ってる時間がもったいない」



 詩子が手を伸ばして、真弓子がその指を取る。黒沼は少し離れた場所でその絵のような情景を見守っていた。

 三人は、横浜の山下公園で落ち合っていた。歩きながら詩子が聞く。


「あれから、先生から連絡ありますか?」

「全然ないよ。どこかでのたれ死んじゃったんじゃないの?」


 海岸沿いの少女の像の前で立ち止まり、詩子が言った。


「叔父様ね、先生に私と結婚しろって言ったんですって。無理なのに」明るく笑う。

「ずっとそばにいて、ずっと見てきたんですよ。無理なことぐらいとっくに知ってます。それでも好きだったから離れられませんでした」


 過去が詩子に暗い影を落とすことはなく、彼女の目は澄んでいた。


「でもね、浮いていた気持ちかふっと大地に降りたのを感じました。先生は、沢山のことを教えてくれていたんです。私がばかで、気付いていなかっただけ」


 つなぎとめられた風船が、若木に姿を変えて根を張りはじめた。


「わたしのなかで生きているあのひとと、その気持ちを強く感じるの。先生のもとで学んで、勉強して、資格を取って、手伝ってきたすべてが、ああ、こういうことだったのかって、突然、わかったの。腑に落ちたんです。この世界のこと、自分のこと、世の中の仕組み、働くことの意味、生きていく意味も」


 詩子は立ち止まり、海のさざ波を目で追った。


「あの人はずっと待ってくれました。わたしの気がすむまで、最後までつきあってくれました。感謝しかありません」


 自分の後ろを歩いている二人の会話を聞きながら、黒沼も過去をたどる。

 先日、クライアントを回りながら黒沼は、ふと武蔵小杉に目を止めた。眺めた時、少し見ないうちにどれだけ、と驚くほどあちこちに立ち並ぶ工事のシートと、うなる重機が土地を食み、再開発の槌音が響き渡る。次郎の故郷が倒れ崩れて消えていく、と黒沼は思う。とうに実家はとっとと売って引っ越したと言うとったが、あいつ。


「詩子は大丈夫だよ」


 詩子が、御船の事務所を退職してきて、本気で抵当を引き受けると譲らなかったその日、黒沼は血相変えて彼の出発まで泊まるホテルに怒鳴り込んだ。御船は荷造りの手も止めないままで、いけしゃあしゃあと言い放つ。


──詩子は大丈夫だよ。全部あいつが決めたことで、俺もまあ一応止めたよ。けどな、詩子はもう決めたんだ。自分の意志で。

──お前は約束したやろうが、あの子を、と怒鳴りかけたのを御船は遮った。

──あのさあ、おっさん。そういうのが既に死んでる価値観なんだってわかんねえの?自分でセミナーで言ってたんじゃねえのかよ。詩子は詩子で、黒沼の魂とかそんなものじゃねえんだよ。おれの町は、再開発されて、見る影もなくなってても、ふと路地の中に一つ二つ、懐かしい赤看板が浮いていたりもするんだよ。震災で崩れても、またその上に人は何か建てるだろ?ほったて小屋でも、ビルでも。会社も人と同じ、生まれて死んで、いつか必ず終焉を迎えるが、それは、個人とは関係ない。勝手に押し付けられて心にされて、詩子に失礼で、迷惑だろ。


 御船はキャリーバッグの蓋をしめ、ジッパーをあげて立てて、自分も立ち上がった。


──悪いけど俺はごめんだわ。詩子はしっかり自分で何とかするだろ。三%なんかどうだっていいよ。知らねえし。おっさんがもう、あの頃のおっさんじゃなくて、おれも違う、あいつも高校生の詩子じゃないんだよ。おれはおれで、行かせてくれよ。なあ、おっさん。


 ほんまはワイもわかっとる。あのとき、伊野木のねえちゃんが、詩子は御船と行くやろうと言ってくれた時に、思うたんや。あんたは、身を引く言うてくれるんか。この黒沼の最後の夢を、残り少ない命の光を奮い立たせるために、次郎は諦めるとそう言うんか。

 それがあんたの心を墓場に永遠に眠らせることになってもか。

 涙が出るわ。ようわかった。次郎はこの女がええんや。こいつでのうてはあかんのや。長い付き合い、ワイにもわかる。あいつはワイを振り切って社長を選んだように、詩子を振り切っても、この女でなければならないと思うとるんや。


 黒沼は左右を見た。右に詩子が、左に真弓子がいる。美人に囲まれて幸せや。

 ねえちゃん、わいは支えられて踊ってるんやな。一人やない。詩子が帰ってきた。陽介が燃えておる。本社の勉強会も再会や。フロアで脚は絡まったが、なんとか躍り続けられてるようや。


「ほな、いこか。今日は中華街で飲ましてや」

「この前のセミナー、評判がよくて、ユーチューブも動画が評判になっています。本が再販が決まったらしいですよ」

「ほんだら、もう一頑張りしてみるか」


 海風にほどいた髪をなびかせ歩きながら、真弓子は思う。

 今までなんとなく向けられる彼の好意と、あの日の甘い思い出と、周囲の空気をいいことにして、体は許さず、甘えられるところは甘え、勢いだけて突っ走って、回りを巻き込んで来た。彼女がどんな気持ちでいたか考えるのもつらい。ねえ、でもあんたは、結局ずっとそばにいてくれて、こんなわたしを求めてくれて、わがままを許してくれて、本音でぶつかれって……ごめんありがとう。この気持ちだけは。


──うそ。


 感謝の気持ちとか、申し訳無さ、罪悪感、ぜんぶうそ。嘘ばかり。

 嬉しい、気持ちいい、嬉しい。それだけ。

 早く来て、この女心を吸い取って。


   *   *   *


 一か月後、羽田空港の国際線のターミナルに、スーツケース一つのビジネスマンが降り立った。キャリーバッグも持たず旅慣れた格好で、髭は綺麗に剃られている。カジュアルなPコートのポケットに手を突っ込んで携帯を取り出すと、慣れた手で画面を動く指が言葉を象る。メールを送信した。


『羽田に着いた』


 少し考えてもう一通、同じ相手に文字を打つ。後を追って、紙飛行機が飛び立った。


『今からそっちに行く』


 携帯の通知ランプが青く光る。さっと開いて確認するもすぐ消して、隠しようのない喜びをにじませ、御船は携帯を握った手を下ろそうとして、少し待った。


『そう、わかった』


 ぶっきらぼうに吐き捨てられた言葉は、ぴしりと的を当てる矢のように、二人の間の空間を越えて男の胸にまっすぐ届いた。御船はゆっくりと腕が伸びるにまかせ、一度はポケットに突っ込もうとした携帯をもう一度取り出した。はるか向こうの携帯で、今度は着信の赤いランプがともり、細い指が着信欄に浮かび上がった名前を確かめる。空港の扉を後にして、首をかしげ肩との間にはさんだ携帯を耳に当てながら足を踏みしめて歩いていく御船のコートの襟で、呼び出し音が歌っている。すぐに、今すぐに、と。








終わり。









汀より どうでもいい裏設定



いかにいい加減に書いたかという裏設定(というほどでもない上、内容も微妙)。



・テーマは平家物語の扇の的。那須与一の弓合戦。

・マネサポのガンダマー小林隼人はハヤト・コバヤシ。

・桂木みーちゃんのフルネームはカツラギ・ミサト。

・社長の飯尾リョウジは、親が離婚していて旧姓はカジ・リョウジ。

・一平はミク派、陽介はルカ派。

・高橋君のモデル実在。

・この話を思いついたきっかけはドラゴン桜の桜木と井野。

・相棒の武藤は、野球狂の詩から。

・名前は拝借したが、キャラはそれほどかぶせてないつもり。

・キリエ(=主よ)、キリエ・エレイソン=主よあわれみたまえ、ギリシャ語。

・次郎と真弓子はお互いに作中で一度しか名前を呼ばない。

・あちこちに出てくる場所はすべて、グーグルマップ&ビューで調査。職業はキャリアガーデンで調査。なのでかなりテキトー。どこか、根本的に間違ってるか矛盾が多い気がしてる。特に法律系。

・汀よりは社長EDバージョン、パラレル設定で相談役EDバージョンあり。


おそまつさまでした。


※この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。




ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。


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