第三十八話 電話
「国際電話でかけてるの?」
「ああ」
真弓子は詩子にメールを書いている所だったから、電話の着信に思わず画面を押していた。慌てて耳に当てると、男の声が流れ込んだ。
「国際電話、高いんじゃないの?いくら支社長だからって大丈夫?」
「支社長つっても、三、四名の小さい所だ、おっさんの事務所とほとんど何も変わらないよ。それより用があったから電話した」
応援してるから、と言いたかったが、まるでうるさいとでも言わんばかりにさえぎられる。
「バタバタしちまってこっちに来たから遅くなったが、お前にもそろそろ、きちんと言っておかないと、と思ったからかけたんだ。今から言うぞ、いいか」
冷たくて静かな、厳しい口調だった。真弓子が一度も聞いたことがない声で、いつもの御船のからかうような様子はまるでなかった。
どうして今更、別れを言おうとして来るのだろう。一人で行くことを決めたことぐらい、わからないとでも思っているのだろうか、真弓子は痛みを体に直接味わった。彼がはっきり自分からさよならをいい、自分との曖昧な関係を終わりにすることを宣言することなんてないだろうと、どこかでたかをくくっていたのかもしれなかった。今、真弓子は胸にぽっかり開いた穴に、吸い込まれて行きそうだった。
真弓子の背筋は凍りついたまま、遮ろうとしても舌はしびれて動かず、御船は話し続け、携帯を押し付けた耳が痛くて、手が震えていた。
「おれがお前にどう見えてるのか知らないが、俺は理性と同じくらい、感情も大切にしているつもりだ」
おい、と御船は通話口に向かって問う。
「聞いてるのか?」
聞いてる、と答えた真弓子の声は、小さくて蚊の泣くようだった。
「あのな、お前にこれだけははっきり言っておくぞ。お前が俺に対して本音を見せない間は、おれだって、おれたちのこれからのことなんて、話す気はない。絶対に」
真弓子は、手から滑り落ちそうな携帯を、震える両手で握りしめていた。うっかり終了ボタンを押してしまいそうだった。私の本音を?一体、何を言っているの?
俺たちのこれからのこと、と御船が言った。
「心を開けって言いたいの?よりによって、あんたが、わたしに?」
それはすべて明け渡すこと、白旗を広げること、降参、負けを意味している。こういうことに勝ち負けなんてないとわかってはいても。この手のひらの上の掟を手放すことは、真弓子にとってこの世を生きていく術を手放すのと同じことだった。そして、これが精一杯なんだと、真弓子と同じ意地っ張りの男の精一杯なんだと言いたいこと、それは真弓子にもわかった。痛いほどわかった。
「おれは一度もお前から、どんな言葉も聞いてない」
喜びはなく、ただただ、苦しくて、つらくて、怖かった。
「あんたはきっと、気がすんだだろうから、さよならでいい、と思ったの。明日がないなら、あなたの全部、今だけもらって取っておこう、と思ったの」
御船は、黙って聞いていた。
「そんなわたしに、あんたを信じろって言うの?」
「信じてくれなきゃ、何を言っても無駄だからだよ」
「わたしにとって、あなたを信じるということは、本音をさらけ出すということは、安らぎと安定を手放すことよ。不安や嫉妬は、疲れてしまう。振り回されて、消耗するの。あなたと会ったとき、過去のすべてに疲れていたの」
──なのにあなたは、わたしに未来を言うの?
真弓子が過去を閉じて未来を諦め、明日も男も、何も信じなくなった日があった。信じないことを誇りにしていた。信じなければ、裏切られず、裏切られなければ失意のあまりの絶望もない。平静でいられる、なんとかなると、次の一歩を踏み出す力になる。
そんな真弓子に御船は心を開けと、二人の未来をと、言ってくる。それを受け入れることが、どれほどの痛みで、どれほどの苦しみか、当の今まで真弓子本人にさえわかっていなかった。
携帯からは、御船の厳しい声が続いていた。
「おれは完全な人間じゃない。わがままで、気分屋で、移り気だ。そしておれはお前に、そんなおれに対して、怒って、不安がって、泣いて本音でぶつかって欲しいんだ。そうでなきゃ、本当の関係にはなれない。おれはお前ともう一歩、上の段階に行きたいんだ。楽しいことばかりじゃない。負の感情だって大切で、そういうのが生きてるってことだろう。おれはそう思っているし、お前にもそうして欲しい」
ひつぎに釘を打たれた少女は埋葬された過去の真弓子だ。生きるよすがを失っていた彼女を、よみがえらせた手があった。淵から手を取って、強い力で引き上げた手があった。詩子の曇りのない笑顔が青木の顔をついに波に沈め、御船の詩子への愛を感じたとき、すべての呪縛から解き放たれたと思ったのに。
その時、手に入れられたと思った安らぎが今、この手から砂のように消えていく。
キリエがささやく。あなたは言ってくれたわね。
『つらくても、悩みや苦しみがなくて安らかなのは死んだ人だけ』
わたしは生きたい。安らぎを手放してもまだ生きたい、泣いて笑って抱き合い、ぶつかりあって、これからを作りたい。ほかでもないこのあなたと。わたしにそうしろって、嘆きや怒りを感じるのこそ人間だって、言ってくれるこのあなたと。
例え水圧の急激な変化に耐えきれず、肺が破れる痛みを伴っても、その手を取りたいと、はじめて思う。
真弓子は言葉につまり、むせび泣いた。御船がじっと待っている中、やっと声を絞り出した。
「いつから、そんな風に思っていたの?」
不機嫌な沈黙の後に、彼らしからぬ、すねるような声が聞こえた。
「だってお前、じらすから」
「怒ってた、やっぱり」
「やらせないし。横浜でも」
「横浜?」
「モアーズ」
あの、ネオンの下のスターバックス?
頭の中で、いきなり声が鳴り響く。
──モアーズなのかって何度も聞いてるのに、一人で話し続けてる、しょうがねえ。
「最初の日から、あれがはじめての二人きりだったんじゃねえか、なのにお前は」
モアーズの前に立つ、パイプを咥えて帽子を目深にかぶった少年の像が笑った気がした。横浜の最も華やかな界隈を何とはなしに避けて、たどりついた片隅で彼が来るのを待っていた。
深い淵から水面下へ、光が見えて強い衝撃が来た。いきなり空気と光が真弓子の口に肺に目のなかに奔流のように飛び込んだ。
シンガポールのこちら側では、御船がまた、膨れっ面を見せて受話器に耳をあてていた。彼の心もまた、あの横浜西口に飛んでいた。
寸止めもいい所だったんだ。
おれはあの夜やる気満々、途中まではいけると思ってた。ここなら誰にも邪魔されない。あいつもいつもと違って口数少なに、突っかかる言葉も物憂い感じ、意味深な目付きでこっちを見てくる、これからの夜を想像、ぞくぞくする。こいつの髪をほどいて可愛い顔を思う存分堪能、この腕に思いきり抱きしめたい。
ホテルに行くぞって試しにズバッと言ってみたら、なんて悲しげな、ぐっとくる目付きで、この気の強い女が涙を流しそうだった。
あのもの言う大きな瞳が語っている。その目に写るおれの姿も、かすかに震えているようだ。
──あなた、私をどうするつもりなの?私には、周囲の皆が笑ってる声が聞こえるわ。わたしはこれから、あの会の中であなたが手を出した女たちの一人になるの?その行く末はどこにあるの?私のここまで懸命に保ってきた自尊心、気を張って辛うじて依って生きてきた心意気を、あなたは気まぐれでポキンと折って踏みにじるの?このまま素直について行けば、きっとただの女に戻る。嫉妬、憎しみ、迷い、揺らぎに責めさいなまれて落ちていくだけ。
無理に腕を取ったら明日の朝は大粒の涙がこぼれそうだ。それでなくともいきなり知らない場所へやられる、こいつだって不安なんだ。
ついかわいそうになって、見逃した。
こんな風に、その気にさせるだけさせて腕からするりと逃げた女を、おれは忘れられないって、わかっているのか天然なのか、それとも、そんなの投げ捨てて欲しかった曲げられない信念があってのことか、あいつが去るのをただ見ていた。何も出来ずに。
あの横浜西口のネオンの中で一人きり。まだ新年の空気をまとったままの人々が、我先にすれ違う。
おれの欲望だけが先回り、空回り、この直接的な欲求が、すっかり満たされて気がすんでしまわないと、誰が保証出来るだろう。お前はそんな女じゃなかった。中途半端に手を出せる奴じゃなかった。いつだって、どこでも、この俺の生半可な部分を貫いてまっすぐにこの心臓を一突き、ここだって所をえぐって来る。お前をものにするには他の女なんて見えないぐらい、おれの全部を投げ出さなきゃ駄目なんだって気にさせる。
手が届くか届かないか、ぎりぎりで許さない癖に、扉の向こうではあんな優しい細い綺麗な声でよくも、部屋に入れちゃいそうだから、なんて言いやがる。俺たちのこれからなんて、こんな言葉をこの俺から引き出しておいて。
電話越しに、信じるわ、信じてる──と声を聞いた。やっとかよ、と苦笑する。
こうやって、今度こそと身体全部を使って引き留めたなら、あとはどのようにでもお好みで、だ。自由自在にひねり出せる俺お得意の、口説く言葉でがんじがらめに、口先三寸、いくらでも言ってやれる。
お前と出会えて良かった。幸せだ。生きていると感じる。誰よりも、お前を──。
男の意地でどうしても出せなかった一言を、耐えきれずに切った受信口へ向けて、身を裂かれるように絞り出す。




