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汀より  作者: 天海 悠
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第三十七話 空へ


 いよいよ旅立つという前日に、御船は長いこと社長室にいた。明日どうしてもスケジュールの都合がつかず、見送ってはやれないから、ここでお前を見送らせてもらう、と社長は言った。そんなのいいっすよ、と笑う御船に、彼は穏和な表情を引き締め、真面目なまなざしを御船に向けて何かを言おうとした。


「お前はうちの……」


 社長は言い淀んだ。少しだけ下を向き、照れくさそうな顔をして、でもすぐにもう一度、今度はためらいなく目をしっかりと見て言った。


「お前は、俺の翼だ。どこまでも大きく、羽ばたいて欲しい」


 無限の信頼と愛、感謝と希望がそこに籠っていた。

 相談役に、後は譲るから他を追い落としてのし上がれと言われた時とはまるで違う、曇りない喜びが御船のまだ若い胸を満たす。この人がいてくれたから、自分はここにいると、再確認をした。気持ちがあふれて頬に流れ落ちそうだった。


 これまで、等々力の黒沼一族の信頼を引き出すためについた千の嘘など、社長に言う必要はないことで、言いたくもなかった。その中に一部の真実もあったからだ。その嘘と真実を胸の中でふるいに分けて混じらないようにするのは難しいことで、なまじの精神力では出来なかった。いつしか嘘が体と魂を黒い染みのように蝕み、区別がつかなくなって飲まれてしまうかもしれない危険が常に隣り合わせにあり、御船も理解してこの一年、神経をすり減らしてきた。だが社長のこちらをじっと見る目は全てを、十分にわかってくれているようだった。


 あの相談役の中にも一時はあったはずの若い血が撒いた種が、芽吹いて今こうして樹になっているように、結果はどうあれ、聡一郎の全てが悪な訳もなく、ただ悲しいだけだった。老木の幹に斧を入れるような真似をして、今のこの樹を選んだ自分がいた。

 御船に最後の握手をした社長の手は大きくて肉厚で、御船の全てを包み込む暖かさだった。二人で必死になって走り回って働いていた二十代、失敗もあり、失望もたくさん積み重ねながら足を踏ん張って堪え忍び、共に乗り越えてきた様々な記憶がよみがえり、御船の胸もこみ上げて、また思わず目頭が熱くなる。


 手をこちらからも握り返し、思わず、とても社長に語る言葉ではない口調で、ぶっきら棒に語り出す。御船は語りながら、社長は聞きながら、二人は、二十台半ばの野心的な青年と、三十台半ばの新進気鋭の若い部長に戻っていた。


「おれには、飯尾さんが一番なんです。川崎の黒沼さんは、おれを育ててくれましたが、ここにいられるのは飯尾さんがいてくれたからです。あんたは大きくどっしり腰を据えていて、きちんと根を張ってまっすぐに立っている。人情なんて薄っぺらい言葉じゃ表現できない。あんたは人の気持ち、心をちゃんと大事にしてて、きっちり責任をとって生きている。俺みたいな奴にケツもちすると言ってくれて、最後まで信じて見ていてくれた。あんたとあんたの会社を守りたかった。おれのような奴が間違わないのは、あんたのような人の下でのことだから。翼は体がなけりゃ羽ばたけないんですよ」



 真弓子は、御船の出立と同時に、キャリアデザイン課のチーフに返り咲くことになっていた。桂木部長がご機嫌で真弓子の肩を抱いて言う。


「真弓子ちゃん!今度は前と違うわよ。ブランクあっても容赦しないわ。来年には、ここの統括、つまり課長をしてもらうから。そして今回は、課一つだけじゃなく、全体に目を通して、会社組織そのものを頭に入れられるようにしててね」


 彼女の明るさと配慮がありがたい。真弓子は心から桂木に感謝した。

 御船の事務所を辞めた詩子は、ひっそりと黒沼の所に戻って来ていた。彼女は決して明るくはなかったが、青ざめた顔には無理に絞り出したとだけは言えない穏やかな笑顔があり、ふっきれた様子があった。黒沼は詩子の決心を聞いた時、最初は動揺し、それからしばらくずっと考え込んでいた。真弓子も尋ねることができない。

 あいつと行かないの?追いかけないの?

 彼は一体、彼女に何を言ったのか、二人の間に何があったのか、もう真弓子は思い悩まないと決めたから、質問も胸に閉ざして、詩子の選択をただ受け入れて微笑んだ。


「わたしと入れ替わりになるけど、ここを頼むね、詩子ちゃん。言うまでもないか。ここの事とか、実務については、あなたの方がずっとプロだもの」


 詩子は静かに真弓子に言う。


「伊野木さん、ありがとう。叔父様をありがとう。本当に感謝しています。あなたのおかげ。全部。陽介のことも、先生のことも」


 吹っ切っているのは、詩子だけではなく、御船の様子にも迷いはなかった。そしてもう真弓子の横顔に、高橋でさえ何も言わない。言えなかった。詩子には、さとすようなことを口にできた高橋も、真弓子にはみだりに口を出せない何かがあった。


   *   *   *


「次郎君」


 突然、声をかけられて御船は振り返った。

 その時の出来事を、何度か御船が後で思い返してみても、夜の道の上、としか思い出せない。それだけしかわからない。どこだったのか何時なのかもさだかでない。ただ夜だったとだけだ。夢なのかもしれない。キリエの夢か、御船の夢か、わからない。いつか真弓子と過ごしたのとは全く違う種類のどこか切り離された空間、はざまの路地にキリエと御船は立っていた。電灯が一つだけ灯っていて周囲も見えない。工場らしき壁が立ちはだかって、大きな看板に会社名が書いているようだが、薄暗くて文字もぼやけていてわからない。こんなところでなぜ、偶然か?待ち伏せか?と危ぶんだ。


「キリエさん、お別れにでも来てくれたのか」

「そうね、もう会えるかどうかわからないものね」


 何気ないといった風を装って、キリエは聞いた。


「詩子ちゃんを連れていくの?」


 何を言っているのか、という顔で見られた。


「一人だ。もちろん、何人か育てた連中は連れて行くが」


 キリエの皮肉なまなざしを、御船はじっと見た。彼の唇からは、いつの間にかあの片頬をひねる笑い方は消えている。



 詩子に別れを告げる前に、御船は社長、副社長と打ち上げをした。その場には桂木部長もいて、御船の隣に座った。


「あんた、真弓子ちゃんはどうするの?」

「どうしたらいいと思います、先輩。あいつは、もうおれをふっきってるみたいなんだ」

「じゃあ、あんたもふっきらないと駄目だよね。亡霊にとりつかれている間は、あたしだって真弓子ちゃんを渡さないよ」

「おれが亡霊を吹っ切っても、彼女がおれの所に来るかわからないよ」


 桂木は、眼鏡の奥を光らせて御船を鋭く見た。


「あっちがだめならこっちって話じゃないでしょ。真弓子ちゃん関係なく、あんた一人の問題よ。男いっぴき、存在確立はって話をしてるのよ。何かを引きずったそんな心のままで、海外になんか行けるの?あたしなんかずっとひとりよ!あんたが出来ないはずがないわ」


 桂木はグラスを手の中で回して、鳴った氷に向かってつぶやく。


「ほれた男とうまくいかなかったからって、死ななきゃいけないわけじゃない、そうでしょ」


 視線の先を御船は追った。昔、社長と共に過ごし、桂木とも働いた日々を思い浮かべてさりげなく聞く。


「ほれた相手は社長ですか」

「聞くだけやぼだよ、御船くん」桂木部長はテーブルの下で、御船の足をヒールで手酷く蹴って来た。



 じっとその意味をもう一度噛み締めて、御船はキリエにもう一度、同じ台詞を繰り返した。


「おれは一人で行くよ」


 ほの暗い、またたく電灯の光の下に、無数の蛾や羽虫が飛んでいるのが見えた。キリエは大分薄くはなったものの、まだ痛々しいテーピングの頬を歪めて、鋭く一撃を繰り出して来た。


「あなた、あのお嬢ちゃんと寝たでしょう」


 御船がキリエを凝視すると、そのやわらかい優しげな目には、暗く濁った熾火があった。その火の灯る目尻をさらに下げて、キリエはさもおかしそうに笑う。


「あの子、最後の一番、一発逆転を狙った大勝負かけてきたでしょ。わかってるんだ、男のことは。しっかり頂いちゃうのよね。切るためだとか、別れのつもりとか、最後に一回とか、そういうことよね。男を引き留めるための、大勝負。ふざけんな」


 最後の言葉を語気荒く、別人のように表情が鋭くなり、呪いを御船の上に吐き出した。

 それからまた、少し穏やかに言う。


「あんたは、一生変わらないでしょ。浮気性は治らない」


 御船はその呪いを受け止めるのに、我が事としてでなく、どこか誰か別の男への言葉のように感じて黙って聞いていた。キリエは御船の表情を探りながら矢継ぎ早に聞いて来る。


「一度寝たら、情が湧いたんじゃないの?海外まで追いかけてこられたら、断れないほっとけない面倒見なきゃって、もう一度っておねだりされたら、またやるんじゃないの?ズルズルと」


 火を噴くキリエの形相は、彼女の仮面の下に常にあったもので、凍りつく恐怖なしにまともに正視できる者はいない。


「あんたのような男たちには、虫唾が走るわ。大嫌い。騙される連中も本当にバカだよねって思うし。あんたに群がる連中にも、マネーにも、考え方とかビジネス、啓発、コンサル、提案、計画、全部、くだらない」


 キリエはまた表面だけ穏やかな顔に戻って、優しげだからこそもっと恐ろしい口調で言った。


「私はただの会社員。自分がカネをまわして貯めたりするわけじゃない。汗水たらしてもこれっぽっちにしかならない。でも、仕事で関わるだけでも、人からむしりとるのが大好きなの。金持ちでも貧乏人でも、善良でも悪人でも関係ない。死みたいに平等よ。悪い奴は、うちの会社の牙にはなかなかひっかかってこないけど。でもいくら悪くて賢い奴でも、ミスはするの。必ずするの」


 何か答えようと思うのに、喉に詰まったように言葉が出ない。


「わたしはこつこつ骨身を削って働いている、あんたたちは、魂を削って売っている。良し悪しじゃない、そういうものなんでしょうよ」


 彼女は、眉を寄せて黙り込んでいる御船の後ろ、誰もいない空間に向けて話し続けていた。その背後を見ていた目が、ふと気付いたように御船本人へ向いた。深い霧が立ち込めて、電灯にまで忍び寄る。キリエの手は片手だけ、コートのポケットに突っ込まれたまま、ずっと何かをいじっている。


「口八丁でお人好しの経営者をだましている、うそ臭い自己啓発やら本にして金にしてるような男が、もしもよ、あんたのような男が、真弓子のような女が好きだって言ったら、真弓子のことを選んだら、そいつらのことも少しは見直してやってもいいような気がするの」


 静かに、さとすような不思議な口調で語りかける。


「上滑りのどうでもいい、無意味な言葉の羅列の中に、たった一つ決して売り物にはしない、できない真実が隠されているのかもって、そう思ってやってもいいような気がするの」


 川の流れの中に光る石があるように──キリエが抱いた、望んで手に入らなかった夢だった。


「経済的自立なくして、精神的自立はない。わたしもそう信じていた時があった。けれど子供を育てることを考えてみれば、男と同じに働くなんて不可能なのよ」


 御船は、キリエがポケットに入れていない方の手でずっと押さえていた腹を、はっとして見た。


「次郎君、浮かれてる所悪いけど、あのお嬢ちゃんのことはほっときな。女が何も言わない男に、自分から愛してる、好きだって言う時は、別れを言っているのよ。知っていた?わたしもそう、あの子もそう。見込みのない愛に、自分の手でけりを、決着をつけようとするときは、大勝負に出るものよ。だけど心はもう決まっているの。男から離れても大丈夫ってことを」


 深い息を一つついて、御船はキリエに向かって穏やかに低く言った。


「俺は、人のことをどう思っているかなんて、他人に話す趣味はないんだ。あんたが、おれをどう思ってるかは傾聴したよ。十分に」

「じゃあ、真弓子と話すのね」

「それも、あんたに言う必要はない」


 御船は付け加える。


「あんたは、あいつに夢を重ねるなよ。人の人生を生きることはできない」


 ましな男もいるって、思いたいだけだったのよ。背中を向けた御船にキリエはつぶやく。ポケットの中で小さな、音がする。

 二、三歩進んだ御船の足が止まってためらい、振り替えると、あのな、と下を向いてキリエの顔を見ないで言いにくそうにぶっきらぼうに、もう一度話し始めた。


「この際だから、キリエさん。最後だろうしな。もう、ぶっちゃけるとな」


 事実だけを、簡潔に告げる。


「おれは詩子とは、やってない」


 まさか、という顔で、眉をひそめて首をかしげたキリエは、少し間を置いてたずねた。


「他の女とはやってたんでしょ」

「それはやった。何度もやった」


 詩子は知っていたし、真弓子も感じ取っていた。重ねてキリエは確かめる。


「けど、やってないの?」

「まあ、そういうこと」


 二人は無言でしばらく、佇んだ。道の向こうがやっと、かすかに明るい。そっぽを向いて下を見ていた御船の耳に、思いがけず嗚咽のような音が聞こえて、彼は驚いて相手を凝視した。


「ありがとう」


 死神の目にも涙が宿るのか、と意外な思いで彼女を見つめる。もう霧はいつの間にか晴れている。ここはもう破滅に到る第一歩前、地獄の一丁目のような、どこともしれない場所ではなくて、目の前には、死神でも魔女でもなくて、涙を浮かべる一人の傷ついた女がいた。


「感謝する」かすれた声で彼女は言った。確かに嗚咽が漏れた、涙を見たと思ったのに、キリエの目も頬も乾いている。

「それがたとえ女の気持ちを落ち着かせるための嘘でも、突き通してくれたら、それは聞いた方にとっては、真実になる。何の歌だったか、忘れたわ」


 また遠くを見るキリエが捕らえたのは射してきた月の光で、影が電灯と月に照らされ、ぼやけて何重にもなりアスファルトに散った。


「夫が今のあなたのように、そうであってくれたら、わたしもこんなにならなかったかもしれないね」


 彼女の復讐は、我と我が身を傷つけただけだった。ポケットから手を出して、頬をそっと押さえてつぶやく。


「夫に傷つき、復讐に傷つき、でも今、報われたわ。心から、報われた。一%の真実を、感じたわ」


 御船がキリエとの夢とうつつの境に立って最後に聞いたのは、もう呪いの声ではなかった。


──行っていい。自由にしなさい。真弓子を置いて行きなさい。許してあげる。今なら見逃す。私の心が安らかだから。


   *   *   *


 二〇一〇年十月二十一日に羽田の新しい国際線ターミナルがオープンしてから国際線は増え、御船も羽田から旅立った。十二月の寒い空だった。詩子はさわやかに髪を風になびかせていた。笑顔があった。かたわらで陽介がつぶやいた。


「ホントに行っちゃったね、あの人」

「そうね」

「詩子さんは辛くないの?」

「もう、さよならを言ったのよ」


 空港の地面に引かれたオレンジのラインが御船の視界の中でゆっくりと回る。窓から見える羽が、小刻みに揺れている。

 激しい離陸の揺れが終わると、ふっとからだが宙に浮いた。加速度に体が慣れると、窓の外の景色が傾く。上へ上へと雲を抜け、ついに成層圏へ到る。誰の手も届かない場所へ。

 自由だ。

 胸に激しい喜びが満ちてくる。

 御船の目には、雲の下に横浜と、みなとみらいの大観覧車がはっきりと見えていた。


 本当はこんな結末を望んでたって言ったらどうかしら、と詩子は空につぶやく。この悲しみが私に光を添えているって言ったら?誰だって愛し愛されたいと望んでて、一緒に居ない事を選択するのを望むなんてあるわけが無いって、けど誰にとっての幸福が誰にとっての悲しみなのかしら。キスをして、泣いてまた魅かれて、気持ちをぶつけて、そして別々の道を歩む。そんな結末を選ぶあなたを今、誰よりも近くに感じる。そういうのが気持ちが良いんだって言ったらどうかしら。

 御船が彼女の心を知っていることを、詩子は信じて疑わなかった。六年間が大きな一瞬のように過ぎ去り、共に乗り越えたという事実があった。

 この満たされた思いに比べたら、どんなハッピーエンドの結末とも、今を取り替えようとは思わないわ。


「わたしたち、互いにあまり近い所に居すぎたの」


 今、彼女の中に溢れる静かな光と共に、詩子は何かを求めて進み、また何かを待っていようと心に決めていた。私が自分の足で歩く事が先生を生かす道になる。


「先生も私も、好きに生きてもいいの。私たちは自由なんだから。あなたも家から離れてどこへでも行ける」


──先生は、自分の幸せをつきつめてください。他人の幸せなんて知らないと言って下さい。自分の幸せを突き詰めた果てが、誰にとってもの幸せになるのではないと誰が言えるでしょう。自分ではない誰かを愛せたこと、わたしは誇りに思っている。これほど愛せるあなたに出会えたことを感謝しています。


 曇りのない笑顔がどれほど、真弓子にとって救いとなったか、詩子は何も知らなかった。


「伊野木さん、どうしてなんですか」


 黒沼の事務所に戻って来た詩子はそっと、青ざめた真弓子の頬に向かって言った。


「あれから一度も連絡を取ってないってききました。先生の顔を見てもいないって」


 真弓子は詩子の顔に、何の曇りも認められなかった。あれほどの詩子の思いを、手放せるのか、いつ、わたしやっぱり行きますと、突然席を立ってもおかしいと思わないと思っていたのに、詩子はそんな事を言う。


「叔父さまが何か言ったの?もう守る必要のない約束に縛られていませんか?」

「たとえそうだとしても、もう、行っちゃう人に何を言っても届かないから」


 真弓子は大きな眼を半分閉じて、まつげが揺れた。彼女にもまた、迷いはない。


「あいつが決めた事なんでしょ。一人で発つって。なら、私も一人で歩いていかないと。それぞれ別の道に歩むことを決めた。それが一番いいんだと思ってる」


 それに、と真弓子は詩子を見ながら思う。彼女の笑顔が何よりうれしい。

 この笑顔が、あいつが彼女を本当の意味で愛して、大切にしてきたからだと、理解できたのがうれしい。六年間、絶えることなく彼女に注いでいた彼なりの愛が、決してぶれることはなかった結果が、ここに大輪の花を開かせている。まぶしい笑顔だった。

 ずっと消えなかった青木の顔が、詩子の曇りのない笑顔に塗り替えられた。もう、呼び声は聞こえない。御船と詩子が、真弓子を呪縛から解き放った、確かな確信があった。

 こんな幸せはない。


 詩子と陽介が空港で飛行機の出発を待ちながら空を見上げている間、真弓子は携帯を取り出していた。ゆっくりとネイルの指がディスプレイに触れ、メールを起動する。


『頑張って。応援している。さようなら』


 そして真弓子は、未送信のまま閉じた。

 何も無いほうがいい。ほんの少しでも行動してしまえば、また始まる。彼を決して引き留めない。自分が望んで弓となり、放った矢に自ら手を伸ばし、空へ向かう翼を止めるようなことはしない。もう何も無いままで、全てを棺の中にとじてしまおう。





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