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汀より  作者: 天海 悠
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第三十六話 枯れない花


 いくら待っても、真弓子から連絡がない。自分からも送らなかった。ぷつんと切った糸の先がぶら下がって揺れるだけなのを、御船は為すすべなく見つめていた。ここまできて、真弓子の中のもっと深く閉ざされた何かにぶつかったのを感じていた。


──今さら、詩子に遠慮かよ。もういいじゃねえか。


 だが、もう関係ないだろ、と言い切れない。奥歯に挟まった、かすかな澱のような予感がまだある。詩子の毎日静かな表情には、息詰まる最後の舞台が控えていると知らせてきている。だから、御船も連絡できない。会おうとメールを送れなかった。一瞬でも詩子のことを手放したくないと思った、その心のすきを見透かしたかのようだった。

 どうしてあいつはいつもこうなんだ、と御船は砂を噛む思いで歯を食い縛った。傷付いたプライドを必死で押し隠し、日本での最後の仕事に追われた。

 御船の事務所は解体され、彼の案件は、秋社長が率いるプロジェクトチームと高橋が引き取った。御船は、クライアント一人ひとり、丁寧に説明してまわり、高橋を連れて、おれの後任、しっかりしてる男ですと紹介してまわる。

 一平はシンガポールに行くことになった。高橋が疑わし気に言う。


「お前は俺がいなくて本当に大丈夫なのか?」

「ネット環境さえあれば、初音ミクは聴けるんで大丈夫ですよ」

「その発言が既に不安だよ」


 御船は笑って答える。


「海外ではこいつの明るさとちょっと足りないぐらいの大味なところががいいんだよ」


 黒沼税理士事務所には、高橋と一平が抜けたので、勉強会で顔を合わせていたコンサルタントとアナリストがペアでやってきた。黒沼の昔なじみの年取った弁護士がやってきて、陽介の破産手続きについて、丁寧にアドバイスしてくれた。菊池弁護士はもう逃げていた。顧問料が払われていないから、契約が切れているというのを口実に、法テラスで探されたほうがいいんじゃないですか、と気のない声で言っていた。

 銀行はまだ、来ない。


「破産情報は逐一チェックされとる。連絡は必ず来るはずやが」

「別に来ない分には、いいじゃない」

「怖いがな。真綿で首をしめられてるようや」


 しっかりしなさい、と真弓子は叱咤してから、陽介に指導する。


「アプリのサポートできるのはあなただけ、軌道に乗ってきたら、人員を確保しないといけないわ」

「それだったら、知り合い呼んでもいいですか?」

「誰のこと?」

「オヤジのところにいた、プログラマーなんですけど、彼なら特許にかからないように、アプリをプログラミングできるじゃないかと思うんです」


 四天王は特許ごと、会社資産として没収された為、消滅するのか、特許権がほかの誰かに渡るのか、サポートがどうなるのかなど、今後の見通しが不明だった。


「オヤジの会社でバイトした時、僕にパソコンの事教えてくれたの、その人なんです」

「その人が転職しちゃわないうちに、早く連絡を取った方がいいわね」


 電話です、と佐藤に机で鳴っていた携帯を渡された。真弓子は受け取って着信欄の名前を眺め、通話を押すと言下に言った。


「見送りには行かないわよ」

「何も言ってないだろ」

「こっちもマジでスケジュールつまってんの」

「いいから黙って聞けって。仕事の話。今度日本での最後のセミナーが……」

「だから忙しいって言ってるでしょ、セミナーの人数あわせに呼びつけて、おれの公演見て見てって、感心でもして欲しいの?」

「んなこと言ってねえだろ!何なんだよもう、うるせえな!」


──意地の張り合いはやめられない。お互いに疲れてしまうし。ね、そうでしょう。あきらめて、もう。


 携帯を置いた真弓子の顔がこわばる。また遠い遠い出棺宣言の声が聞こえていた。



 あのラテが好きだった元彼が保存していた、青木との動画の中に、たった一つ紛れていた違うファイルがあった。入っているフォルダには、お気に入りの星マークがついていた。

 いつの間に撮られていたのかわからない。そこには眠るあらわな自分の肢体があった。

 顔半分から下の、少し開いたくちびるから始まって、鎖骨のくぼみ、形のいい乳房の丸みと乳首、くびれた腰、愛撫の赤い痕、さらにその下へ、一つ一つ丁寧に、このディスプレイにどこまでも広がっていく白い肉体が自分だとはとても信じられない。

 吐きそうになって、目をふさいだ。ふさいでも、耳には悦に入った男の声が聞こえた。


──絶対、撮らせてくれないんだよね、おれの彼女。大人の愛あるセックスはやっぱ違うよ。なあ真弓子、愛してる。


 震える手で携帯の履歴をクラウドからパソコンまで含め、入念に探して全て消した。本当は携帯を壁に投げつけ、割りたかった。ふと気付いて、彼からの指環を、指をもぎとる勢いではずし、他の貴金属も全てまとめて捨てる。動画サイトのアップロードの気配はなくて、そこだけはほっと息をつく。ずっと手は震えっぱなしだったが、そこまでやれば、気持ちもやっと落ち着いてきた。

 青木の弔問に訪れ、外で出棺を待ちながら、真弓子はじっと弔問客の顔を見ていた。涙をこらえる親戚の群れ、黒一面に彩られた中に、ブレザーの紺色と学生服たちが混じっている。

 青木はあれを見たのかもしれない。

 真弓子は思い出せる。あの、彼の講義を見つめるうっとりと陶酔した目付き、センセ、と男の腕を後ろから取り、彼の顔を斜めから見上げて、そして真弓子に向ける敵意に満ちた視線のことを。


──お喋りやめてちゃんと席に付きなさい。

──ヒス起こさないでよね、オバサン。もう更年期?女、終わってるよ。


 そんなのは、どうという事はなかったけれど、彼女は全身で真弓子に戦いを挑んでいた。勝ち誇っていた。あの動画は、真弓子への挑戦だった。あの棺の中の閉じた目が、もし、あれを?と考えるだけでたまらない。あんなものがこの世に存在したというだけでも耐えられないのに。

 でもすべては想像の域でしかない。死はすべてを阻んで沈黙するだけだ。

 真弓子だって聞きたくもないのに、今のような時にだけ、あの綿を含んだ口が今にも動いて、何かを語りだしそうになる。何を言おうとしているの?


──もしかして、同じ事が繰り返されるのかもしれないですね。伊野木センセ。


 ああ、もう無理だ。考えたくない。

 あいつの声、動き、優しさ、愛撫、口づけ、わたしの中の昔の記憶なんて全部ペンキをぶちまけたように塗り替えてくれたのに。あの動画だってもうなかったぐらいの薄れた記憶になっているのに。

 ただ、青木だけは、あの青ざめた顔だけはどうしても消えない。消えてくれない。

 今はそれが、詩子の顔と重なった。ひつぎに入った詩子の姿、くぎを打たれ、口に綿を詰められている。乙女の嘆き、瀕死の白鳥の歌声が湖の上にこだまする。耳を塞いでも塞いでも届く。


「出棺です」


 一度だけだった。ここまで耐えたの。彼だってきっと気が済んだことでしょう。彼と彼女の様子を伺ったり思い悩むのはもうやめる。

 あいつの好意を、むせるような欲望を、拒否もしないで皆の前で、彼女の前で見せつけて、わたしは何かに復讐していた。キリエ、あなたがするように。

 あんたはいい思い出を、ふっきるきっかけをくれたって、そう思う。

 どこか遠くへ行ってしまう前に、もう二度とないほどの夜をくれたって。酔いと欲望以上の何かを錯覚しそうになるほどの。あのわたしのキスに答えてくれた唇、あれはその場の勢いじゃない。そのくらいはわかる。子供じゃないもの。心に負った男たちへの不信感や軽蔑、不快さ、嫌悪感が、水で洗われるように消えていく。あいつだって決して成人君子じゃないのに。

 あれほど心が裸になれた、求めていると身体で示して、求められていると感じられた。だからいい、もういいんだ。それだけの夜を過ごしたら、わたしは別れを覚悟する。

 約束は守る。

 女には、女なりの筋がある。この事務所に来た時から、それだけは、自分で決めていたんだ。

 彼女はどこまでも行くだろう。彼と手と手を取り合って、たとえ海を越えてでも。


   *   *   *


 全ての準備が終わり、荷物が運び出されて、発つまでは数日ホテル暮らしをすることになる。灯りを消してもうここは閉じられるという前に、御船は事務所の真ん中に佇んだ。ブラインドを開けた窓からは、夜の街の明かりが漏れてくる。

 今までは、事務的とはいっても、家具や靴や、シュレッダーの塵や、書類とその中に潜むさまざまなドラマ、ハンガーにかかった服、カレンダーの印や飲み残しのコーヒーがあった。三年間の思い出は生きる人の気配があってこそ、空になった部屋にもう何もなかった。この部屋に自分と詩子がいたことがあったのかどうかさえ、御船は危ぶんだ。

 部屋の暗がりから、先生、と呼ぶ声がした。

 もう帰ったと思っていた詩子が、灯りも消され、からっぽになった事務所の中に立っていた。


「これから、伊野木さんのところですか」

「いや」


 ゆっくりと御船は答えた。


「違うよ」


 さっきは思い出など消えたかと思っていたのに、今は何もない部屋だからこそ、睫毛の長い黒目や、揺れる黒髪だけでなく、その着こなしのいい、落ち着いた色のカーディガンや、ロングスカート、ブーツまでが、あまりにも詩子その人を鮮明に浮き上がらせていた。

 大人になったと感じても、彼女は、男女の酸いも甘いもからだに秘めてやさしい目尻の皺の上に置いている秋社長や、人知れない苦楽を大きな目と胸の中にしっかりととじて口をつぐんでいる真弓子と、まるで違っていた。根本から違っていた。


 三年前までなら、詩子はまだこれから咲く予感を含んだ開きかけた蕾だった。あれから、気紛れな唇にわずか揺らされても、依然として彼女はまだ何物にも触れられていない。枯れない花、一番美しい時期に保存された花を思わせて彼の前に立っていた。

 女という存在に感じてきた憧れや渇望や焦りのような、一切の世俗の感情のないまま、御船はその美しさにただ見とれていた。自分が今まで彼女を傷つけ、離れようとしたことなど、一瞬でもあっただろうかと疑問を覚えた。

 詩子は考えたすえに選んだのであろう言葉を、ゆっくりと言う。


「わたしを素直で信じやすいって、思ってますか。私は本当は、あの人よりもずっとめんどうで、わがままなんです。相手に合わせて自在に曲げる、そんな風に見せかけて、本当は絶対に曲げられない。どうしても、なれないんです。誰かが望むような姿には」

「誰だってそうだよ、詩子」

「いいえ、愛すれば、変わりたいと思うもの。わたしにはできない。自分が一番、好きなのよ。あなたを好きな私が、好き。あなたを愛するこのわたしが好き」


 詩子の目は、御船の目に合わせられて、吸い付くように離れない。


「変えられないわ」


 御船は黙っていた。詩子の声に涙はなくて、この六年で熟しきったはずの感情を語っているのに、硬くてこわばっていた。


「彼女を愛しているから、わたしを連れて行けないと言って。はっきり言って。この想いにとどめをさして欲しいんです」


 わずか、ほんのわずか声のトーンが上がる。哀願というよりそれは糾弾だった。御船が甘んじて受けなければならない、非難の声だった。


「縛られて、どこにも行けないわ。このままでは、あなたにすがることもできない。だからなの?焦がれたままでずっといて欲しいというの?」


 詩子の唇が震え、それでもそのまなざしは御船を見詰め続けている。再び、黒沼の事務所で見た時と同じ、燃えるような輝きが灯るのを彼は見た。


「ただ一言をくれたら、私は生きていける。大丈夫です。そうすれば伊野木さんの所に行ってもいい」


 御船は詩子の視線を受け止めていて、詩子の目には、彼が揺らいでいるのが見えた。それが、何に対してなのか、詩子にはわからない。真弓子と自分との間で迷っているのか、どう別れの言葉を切り出そうとしているのか、少しでも自分のことを愛しいと思っていてくれているのか、迷惑なのか、彼の表情から何もわからない。


「おれにも言葉で語ることができないんだ、お前のことを。どうしてか」


 ただこれだけしか言えない。詩子にもそれから後に発せられた御船の言葉は、その意味通りにしか聞こえなかった。


「詩子。おれは行く。お前を連れては行けないよ」


 詩子はその言葉を、下唇の上に乗せ、白くなるまで上の歯で噛み締めた。噛み切ってしまうのではないかと危ぶまれるほどの強い力で受け止めた。


「わかりました」


 ただ、と詩子は繰り返す。


「最後に一つだけ教えて」


 詩子も彼を見詰め続けている。詩子ははじめて感情をあらわにし、カーディガンの袖に包まれた腕を御船の方に伸ばしてきた。その手首や指に、彼女があれほど愛してきたジュエリーや時計が、もう光っていないことに御船はいまさらのように気が付いた。


「ねえ、先生。男の人ってどんな風なんですか?セックスするって、どういう事なんですか。どうしても、知りたいんです。最後になってもいい、一度でいいから、教えて欲しいんです」


 この世にひそむ、ほんとうのことを知りたいという望みは、まだこの胸から消えていない。


「どうしてもあなたでなければならないの」


 この美しい上品な女から吐き出された直接的な言葉に動揺し、かっと頭に血が昇って、覚えのある熱さに身体が支配され、御船は背中が痺れるような思いを味わった。一度幻惑されたあのしっとりと吸い付くような肌の感触と、唇が、刺激となって彼を揺さぶる。


「あなたを手放すために、あなたをください。少しだけ」


 今までずっと目の前に差し出されているのに最後まで享受しなかった目の前の身体を、ものも言えずに、ただ見つめていた。逡巡に臓腑も脳もかき回されて、焼けるようだった。真弓子を失ったと感じている埋め難い喪失感に、直接に訴えてきた。わたしは離れない、離れたくないと彼女の心の声が聞こえて来て、一体どのくらいの時間そうしていたのかわからない。

 それから、御船は呼んだ。


「詩子、おいで」


 詩子はそっと近付いて、御船の腕に触れた。羽毛が触れるほどに軽い、触れ方だった。


「おれをやるよ、好きなだけ」

「いいの?」

「お前になら、首を切られても、刺されてもいい」


 詩子は引き寄せられ、大きな胸に抱かれて、優しく髪を撫でられた。

 こらえていた涙があふれてくる。愛する人を手に入れられなかったサロメ、彼女を最後まで正面から見つめようとしなかった、振り向かなかった男、でもあなたは、わたしを振り返ってくれるのかしら。


「このままお前の気持ちから、ただ逃げたら、おれがお前に縛られてしまうよ。お前の望むように、なんでも、どのようにでも。お前は一体、どうしたい?」


 彼を見上げて今どんな顔をしているのか、その表情を確認しようとするのに、涙で視界が曇る。


「本当はそばに、ずっとそばに、あなたのそばにいたい」


 見上げようとした詩子の顔はまた御船の胸に押し当てられ、上から聞きなれた低い声が降ってきた。


「詩子、たった一つだけ、おれがお前に何を頼む資格もないが」


 詩子の目が、御船のコートの中できつく、かたく閉じられた。彼の唇が動いてこの、今、たった二人だけしか存在しない空間に、ほかの誰かの名前をはっきりと象った。


「あいつがおれを手放したように、行く前に、おれの心だけは、自由にしてほしい」


 御船がはじめて詩子に対して、自分の唇で真弓子を語るのに耐えがたい詩子が、彼の腕にすがり身を投げ出したら、涙は落ちるだけ落ちて流れていく。彼にできるのはただ、そのまま彼女を腕を背にまわして崩れ落ちるのを支え、髪を撫でながら、冷たい部屋の中に立ちすくんでいることだけだった。




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