第三十五話 迷路
翌日の社長室では、飯尾社長と副社長が待っていた。御船が入ってくると、社長は椅子から立ち上がり、大股でこちらに近づき、両肩を押えてじっと眼を合わせた。そして、両手で彼の手を掴んで言う。
「きつい交渉を、よくあれだけ穏やかにまとめてくれた」
御船は笑顔を見せなかったが、あたたかい手の温もりが、御船の骨のどこか凍った部分を溶かすように、それからじわじわと喜びがあふれてくる。大塚副社長は、後ろで手を前に組んで、ずっとこちらを真面目な顔で見つめていた。敵意はもう感じない。社長は穏やかな面持ちを今度は少しだけ強くしてさらに言う。
「これでお前のことを、やっと手放してやれる」
副社長の方を向き、御船は言った。
「おれは国外に行きます」
副社長は、言葉が出ないようだった。口ごもり、御船の握手を求めた手をしっかりと両手で握って、こう言った。
「私がお前にやれることはないか」
御船は目を見て答えた。
「川崎の事務所のバックアップは副社長にしかお願いできません。どうかお願いします。あそこを見捨てないでやってください」
そして、御船は深々と頭を下げた。
「黒沼一族が邪魔ですね」
御船がそう口にしたのは去年の十月に、マネーサポート部の小林と、税理士事務所の一括返済の話をした日の事だった。その後、社長室に呼ばれ、S研の内情があまりよくないようだと聞かされた。
「あまりよくない、っていうのはまずいですね。周囲の業況が悪化しているのは明らかだ。それほど、もたないかもしれません」
「うちへの影響が限定的と考えるのが、楽観的すぎるのはわかっている」
「川崎の路線から崩れることも十分にありえます。あそこが飛んだら、相談役も行くでしょう。そうすれば、うちに飛び火する。顧客や株主の信頼も失って、うちのブランドは地に落ちます」
飯尾社長の穏やかな目が険しいのは、強い危機感に襲われているからだった。
「相談役には、おれが話す」
静かに言う。それから御船の方を向いた。
「まずは黒沼先生の現在の動向を知りたいが、頼めるか」
今更、川崎に顔を出せるはずはない。たとえ話しても、黒沼の持ち分三%は回収できるかもしれないが、そこどまりだ。彼が話を聞いてくれるとは思えなければ、相談役に対して何かできるとも思えなかった。御船は相談役に気に入られている分、彼の腹をよく知っていた。社長よりもはるかに暗い所まで知っていた。
「社長、この件はおれに一任してください。お願いします」
詩子を利用することを、御船が考えたのはこの時だった。ほとんど詐欺同然に、嘘と演技と口先三寸で塗り固め、黒沼一族に取り入って内部に入って行こうと思っていることを、最後まで誰にも説明しなかった。
慌ただしく社内を情報が駆け巡る。
「御船さん、シンガポール支社長に就任だって」
「おお、そうか」
「これで社長の夢の第一歩に近づくな」
支社を立ち上げる準備を、社長が水面下のうちに同時並行で進めていてくれた事に御船は驚き、心の底から感謝した。彼の自分に対するそれほどまでの信頼を痛いほど感じる。迷う心が突然明瞭になり、重く垂れこめていた罪の意識がわずかながらも解放される。報われたと唇を噛んで、ぐっとこらえる。
黒沼や真弓子の所にも、高橋づてにその情報は伝えられていた。真弓子は何も言わなかった。詩子はきっと、どこまでも彼に付いて行くだろうと真弓子は思う。いっそ二人とも、目の前から消えてくれた方が、働きやすいというものだわ、と真弓子はひそかに考えた。
「黒沼先生は、真弓子さんが説得してくれました。一括返済を言われた場合、担保物件を処分してある程度負債を減らした後に、本社の追加融資をありがたく受け入れると言っています」
桂木から、高橋と真弓子に事情を伝えたと連絡があってから、 御船は高橋から川崎の事務所の様子を電話で聞いていた。
「詩子さんは、落ち着いて受け止めていましたよ」
そうか、とだけ答えた。
「もう、覚悟を決めているようでした」
落ち着いていると聞いて、思わぬ安堵が胸に広がった胸に、そこだけが、錐を揉み込まれるように痛む。別れる覚悟が当然すぎるほど当然のことなのに、自分でもこれほどとは思わなかったほど、ひどく痛んで声が出ない。高橋は黙っている。御船は口を開こうとした。あいつは、どうしてる、と聞けなかった。詩子のことはわかっていても、一体真弓子がどういう反応を示すのか、まるで予想がつかなかった。後輩は何も言わない。御船が聞くのを待っているのか、それとも言いたくない何かがあるのか。沈黙の後、ただこう言った。
「今日の忘年会はどうしますか」
「行くよ。これが奴らと飲める最後の席だ」
わかりました、と高橋は言って、携帯を切った。彼は何も伝えなかった。大切な事はすべて口をつぐんでいた。女たちの事など、何かを聞いて考えるのではなく、御船が自分で決めればいいと思っていた。
本社から戻ると、武蔵小杉の事務所の扉は、開いていた。中に踏み込むと、そこには見慣れた顔がいつも通りに待っていた。
「おはようございます、先生」
静かに置かれた花瓶の花が微笑むような笑みで、いつも通りに御船のコートを受け取り、ハンガーにかけてクローゼットにしまった。凝視してしまったのに、とまどいを押し殺して、御船は詩子の美しい後ろ姿を盗み見る。
女は強い。
御船の胸に、ほっとした思いや安心はなかった。ナイフを喉に突き付けられているのと同じだった。この静けさの中に、息詰まるような勝負の時、最終局面が迫っているのはわかっている。
女たちの強さが苦手なんだ、と御船は心につぶやいた。柔らかくしっとりと絡みついて来る。その蔓はなかなか切れない。そして切っても切ってもからみ、伸びて、いつの間にかがんじがらめになっている。
彼女は御船のシンガポール行きのことを知っているはずだった。高橋や陽介から聞いているはずだ。だが何も言わない。今日が終わりの始まりだと、彼女は知っているのだ。
一日が終わると、御船は机に座ったままで、彼女を呼んだ。
「詩子」
はい、なんですか?と詩子は振り向いた。
等々力の伯父伯母、従兄弟たちのこと、詩子を利用したこと、川崎の事務所のこと、そして、この六年間のこと、詩子と会った日にその美しさに目を奪われたこと、泉の源のような唇、穏やかで的確なサポート、夢見るようなまなざしを、御船は言葉にすることができなかった。詩子はじっと待っている。ずっとずっと、待っている。この六年間、待ち続けているのだ。御船のたった一言を。
すまない、悪かった、と言うのか、自分の卑怯なやり方を一体、どう思ったのか、今も自分を愛していてくれるのか。そうではない。彼女が待っていたのは、そのどれでもない。自分の口から、言わなければならなかった。
「おれは行く。ここは解体するよ」
詩子は何も言わなかった。
ただ御船は気付いた。彼女の目から、あのうっとりするような霞がいつの間にか払われていることに。内側の嵐がいつしか、少女の夢想を吹き飛ばしてしまったのだ。そこに立っているのは、一人の大人の女だった。
「今日はどうする」
「飲み会ですか」詩子は、静かに言った。「川崎の叔父を一人にしておけません」
「わかった」
迷いを振り払うように、外に出た。詩子の声が追いかけてくる。
「行ってらっしゃい」
欲望か、執着か。愛か、エゴか。その区別は誰にも付けられない。
* * *
「御船君の前途を祝して」
秋社長が音頭を取った。ストールの下にすんなり伸びた腕に、細いゴールドのチェーンが揺れる。高橋、一平、キリエ、その横に真弓子がいる。初台のオペラシティでビジネス用のワンルームを借り切って食事と酒を運んできてもらっていた。新宿にも近い。
二人が顔を合わせるのは、あの池袋以来のことだった。
こうして彼女の姿を目の当たりにすれば御船の脳裏には、あのホテルでの真弓子の肌、扉の向こうの声がはっきりとよみがえる。真弓子はそっと聞いてきた。
「今日、詩子ちゃんは?」
「陽介と、おっさんの所にいるよ。今目を離せないってな」
あんなことになっても、変わり無さそうな二人の仲に真弓子が優しく微笑んだから、御船も真弓子の意図を感じたようで、ふっと顔を逸らして、別々に、飲んだ。
真弓子の傍には、高橋がずっとそばにいてくれた。
「ずいぶん大変なことになっていたみたいね」
キリエが一平のそばにきて、まるで他人事のように話をはじめる。
「ほんとに大変だったんすよ」
キリエ女史、白々しいと、御船は苦笑する。詩子の伯母にやられた傷は、まだテーピングの下に痛々しい。それに対して黒沼夫人が現在進行形で受けている仕打ちは、倍返しどころではなかったはずだ。
「次郎君?」わかってるよね?とキリエは目で脅す。
「余計な事言うと刺されそうだね、キリエさん」
「刺されたのはこっちよ。とにかく、シンガポール支社長だなんてすごいじゃない、おめでとう」
──ねえ、詩子ちゃんを大切にね。彼女を連れていってあげて。
真弓子の舌は凍ったように、動かない。口をつぐみ続けた二年間が唇を凍らせている。御船が今、真弓子の肌を思っているように、真弓子の体も、あの時の池袋での、御船の温かさをはっきり思い出していた。
一通りの食事が終わると、京王新線で一駅、新宿へ移動して二次会が始まった。
真弓子は抜け出す機会を持てないまま、店に入ると高橋の傍に行き、座った。御船とキリエ、秋社長の声が聞こえる。
「俺、ゴルフ嫌いなんだよね」
「うそ。必須かと思ったわ」
「え、やらないの?って言われすぎなのよね、少しはやればいいのに」
あまりの何の変わりのなさに、涙さえにじむ。真弓子はずっと詩子と黒沼のことばかりを考えていた。グラスを傾け、夜も更けた頃に高橋が振り向くと、こちらを見つめる視線と目が合った。目だけをじっと離さずに、少しだけ頭を戻して、さりげなく席を立つ。後の気配を伺うと、当たり前のように真弓子の横へ座った背中があった。
高橋は、一平を探して座った。一平はなんとなく無言で、表情がすぐれなかった。
「伊野木さん、ずいぶん酔ってたみたいだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ、子供じゃないんだから」
それ以上聞くな、という意味を込めて高橋は意地悪く返事をした。
「おまえ、真弓子さんに気があるのか?」
無言が返ってくる。
「図星だな?」
「ごめん、聞いてませんでした」
「ぜってー嘘だよ」
「高橋さんて、詩子さんが好きなんじゃないの?」
「生意気な口をきくな」手酷くこづくかわりにさあ、もう行くぞと、高橋は一平の肩を抱いて立ち上がる。「あのな、悪いけどおれは彼女持ちなんだよ」
先に上がります、お疲れ、と高橋と一平が消え、他のメンバーも少しずつ退場していく。
「今日は夫婦漫才はやらないのね」キリエがからかう。
「あんな事があったのに、いきなりどんな口きいていいのか、わからないでしょ」
ほら調子が出てきた、とキリエが笑い、秋社長が苦笑する。
「悪かった」
御船は真弓子にしか聞こえない声でぼそりと言った。真弓子は肩を震わせて、言う言葉を探して、出てきたのは、これだけだった。
「つらかったでしょ」
「まあな」
真弓子は机の下で置かれた御船の手の下から、するりと指を抜いた。
「もう帰らないと」
「女史を置いて行けないだろ」
「今日はまだいて?キリエさんの話が面白くって」
秋社長がほほえむ。今日はとても機嫌がいい。あたしはまだ帰りたくないわよ、真弓子も置いていかないでと、キリエが口を尖らせる。
「ねえもう、いらないって言ってんのに」
「早く来ないと置いてくぞ」
「置いて行きなさいよ」
「しょうがねえな、ホントに行くぞ」
「どうぞ」
三軒目に移動した。手どころか、今は二の腕をずっと掴まれている。もうふらふらだから、腰に手が回るのも時間の問題だった。歌舞伎町の人込みの中で客引きの背中にぶつかる。バカか、気をつけろ、と乱暴に腕を引かれる。やめて誰かと間違えないでと、かっとなって押し退けたつもりなのに、振り払えない。
記憶している、この感じ、と真弓子は思う。ずっと言い合いをしてて、どんどん密着が増していく。この息詰まる展開は、行きつく所にある意図がはっきりしていて、むせるような匂いがする。
ここ、あたしのお気に入りのクラブなの、と地下へ行く階段の上で、秋社長が促す。次郎君、美人に囲まれて役得ね、まあそのうち二人は既婚者だけど、とキリエがからかう。
酔いたい。つぶれてしまいたい。つぶれてしまえば、その後の体を彼がどうしたっていい。なのにまだ、意識がある。振り払って金切り声をあげるほどの力は残っていないのに。
秘密めいた煙が漂う、地下のクラブで、キリエは薄目で二人をうかがった。午前もすでに零時どころか一時を過ぎて、歌舞伎町が最も賑わう時間が訪れている。
グラス片手に談笑する男や、すれ違う女たちは皆、影でしかない。手に手を取られ、透けてかすみと消える。秋社長が立ち上がり、キリエは一緒にクラブを出た。扉近くは熱に浮かされた恋人たちが腕を絡め合い、口の大きな大学生が、うさん臭い影と薬物をやり取りしている声がひんやりと届く。キリエはふと酔いつぶれ寸前の真弓子を案じて御船がいるからと思い直した。
もう何時なのかもわからない。きっと明け方も近く、夢から覚醒する時間、白々とした朝が近いはず。真弓子は最後の気力を振り絞った。約束がある。センセイのためじゃない。自分が一旦、決めたことなら最後まで貫きたい。
御船が手洗いに立ったすきに、やっとのことで抜け出した。
外はまだ十分に暗いが、そろそろ明け染める予感が街を包んでいる。黄昏とはまるで違う夜明けの太陽を待つ空の暗さは冷たくて、清涼で、飲み過ぎた胸のむかつきは変わらなくても、急に酔いがふと抜ける心地がする。いつもの新宿にしては驚くほどに人はまばらで、あちこちで似たような徹夜組が最後のおしゃべりをしながら出てきている。よろめいた酔っぱらいがしゃがんで吐いた。そんな姿など見もせずに、ポケットに手を突っ込んで足早に通りすぎる人々の横を、真弓子も歩いた。
不夜城も、つかの間の休息のひとときがある。ビルに紛れた先に微かに、横に伸びる線路が見えた。
迷路のようなこの夜の出口はすぐそこにあった。だがまだ始発がない。人気のないシャッターの降りた店の入口に背中を預けて佇んだ。ヒールすれすれを、チラシが風に飛ばされてかすめていった。ここまで張った意地のすみかは、守らなければならない誓いのせいではなくて、約束や詩子や黒沼など、あの息詰まる抵抗と迫る攻防の果てに、既にほとんど意味を失っていた。
今はそんな心根ではなかった。そうではない、もっと根深い、からだを蝕む恐怖心があった。この胸に、誰かを入れるのが怖い。無理に破られ、押し入り、踏み込まれるのが怖い。明け渡せない。
まだある、まだ残っている。この枷は外れていない。彼女を生かし、前に一歩踏み出すための掟の力は残っている。なのに朝はまだ開けなくて、どこにも行く場所がない。ただ待っていることしかできなかった。
何を待っているのだろう。
真弓子がもう、とうにあの男はわたしを掴んでいた、とふと気付くうちに、聞きなれた靴音がする。背中に気配が忍び寄る。
ずっと真弓子は彼のもので、全身全霊預けてしまっていた。またあの覚えのある匂いがして、背中から包まれた。彼女を不思議に惹きつけるむせぶ香り、肩を大きな手で抱かれて路地を入り、またその先の路地を曲がり、二人は歩き続けた。もうわたしもキリエや、詩子ちゃんと同じ。あれほど決心してきたのに。新宿はどこを歩いても周囲をビルに遮られている。冬の夜は長くてまだ開けない。
掟は生きていても、その枷の下は捕まれていた。
持っているもの全部、破られ、押し入られる前に、自分から彼に開いてしまっていたのだと、はじめてのように悟る。あの水道橋の部屋で、彼と寝たその日から。
それでもまだ数歩だけ粘ってから、肩を包む腕と指を、最後の力で邪険に振り払って、真弓子は男にもたれるかわりに壁にもたれた。レンガ仕立ての外装壁に髪留めがぶつかる。カチンと小さな音がした。髪がはらりと落ちるのは、道路にバレッタが乾いた音を立てると同時で、まるでデジャ・ヴ、結んだ髪が半分顔にかかって、あのはっとするほど可愛い素顔が覗いて男を誘う。
これを既に味わい知っているから、どんな事をしても言ってもかまわないんだ、とでも言いたげに、御船はくちびるを近づけた。こうしてくれたなら、もう背中に腕を回せるのに、真弓子はスーツの胸に手を置いて、顔を隠した。彼の手が触れて髪がほどける。頬の赤さや今までの感情をもって行きようもなくただ意味もなく流れる涙、それらすべてを隠して下を向いた柔らかな波打つ房に、男は頬を当てて佇んだ。髪の間に五指を入れて小さな頭を両手で抱えるように、御船は自分からかがんで、ぎゅっとつぶった真弓子の口もとに、無理に唇を押しあてた。もう、欲望のありかを隠しもしない。
真弓子が開いて御船が触れた女物のシャツは柔らかくて、ボタンを外してゆっくり差し入れた指に、乳房がちょうど掌に収まって心地よい。
女の吐息に応えて、もう一度熱く吸って、吐いて、また吸って、いつまでも唇は離れない。たくしあげてもタイトスカートはわだかまって邪魔になるから、破かないように慎重にファスナーを探していると、女の手が降りてきて、自分で器用に外してくれた。声と、表情と、この立ち昇る空気のすべてが二人をひどく高ぶらせていく。
まだ脱いでいなかったコートが床に、やっとタイトスカートが落ち、スーツの上着が振り捨てられる。ネクタイが首で、ベルトが腰で、もどかしく音を立て、迫る予感に押されてベッドに倒され、上からのし掛かる熱い体が全身で他人という存在を無遠慮に押し付けてくる。とうに開かれている胸に、さらに奥へ踏み込んでくる。どこまで奥があるのか、限界はあるのか、真弓子にもわからない。
驚くほど優しい御船の愛撫に、真弓子は体中の産毛まで総毛立つ。気持ちの良さというより、体から意識だけが離れてどこかへ行ってしまいそうで、何度も背中に、首にすがりついて、脚を男の腰にかけて、切なく動かす、もっと、もっと、と。
ここに欲しかった気持ちをいれて。わたしの心を口から吸って。
この腕を、この胸の力を待っていた。あなたのことを、待っていた。
私を生かした懐かしい重みをもう一度だけ感じたかった。
この腕に抱いているのは奇妙な花だって、誰の台詞だったかなと、御船はかすんだ意識の中で考える。こいつは不思議に、どうしてこんなに、こっちのからだに、ぴったりはまってくるんだろう。腰の下から溶けていきそうに熱くて、湯みたいな温かさにつかった中がもうお互いの区別がつかない。余計な何も、何もかもない。好きなことを好きなだけ、やりたいようにやりたいだけ、腿に腰を押し付けたまま、真っ白になれた。こんなに幸福な達成感はない。抜け落ちていく力が、荒く息を吐いたのを、細い腕を伸ばして受け止めたのは、二つが一つの優しい体だ。
もう二度と離したくない、と御船は思う。暖かな体温を感じて、ずっとここに横たわっていたかった。
裸足の親指が、折り重なった服を踏んだ。
服と服が重なりあい、まだ回した腕をほどくのに抵抗するように、絡まり合って、真弓子は昨夜の自分と彼を爪先で踏んでじっと見つめていた。
さあ起きて。
叱咤しても身体が重い。心も鈍く重かった。
シャワーを浴びて顔を洗うと、落ち着きが少しだけ戻って来た。脚は震え、指先がしびれているが、立てないという程ではない。
おい、と御船が顔を出して意外そうな顔をした。
真弓子は既に完璧に身支度を整えている。
全てを忘れたふりをしても、愛撫はこのからだに残るきずあとのようなもので、ひりひりとうずきを残してそう簡単にはぬぐいされない。
それでもわたしは、わたしとしてしか生きられない。
いや、違う。
真弓子の過去がささやいた。
御船はポストに名刺を置いていった。転職先を探しているうち、人材派遣のサイトを運営している会社の名前がふと目についた。男の名刺を眺め、捨てる前に裏返した時に目にした会社名だった。彼は二つの会社に所属していて、そのうちの一つが、N総合商社だった。いくつも履歴書を書いて、少し疲れはじめていた。残念ですがと何度か言われ、やはり甘くないと焦っていた。駄目元で募集をしていないか、メールで問い合わせを送ってみる。
──部長、会社はどうして飛び込みの私を採用してくれたんでしょうね。もう若くもないのに。
桂木部長は、何よ知らなかったの?と半ば驚くような顔をして言った。
──それは、御船の名前が出たからよ。社長の腹心なんですもの、その効果は絶大よ。
履歴書を送り、ではとりあえず来てくださいと言われて訪れた面接で、募集もかけていない、転職サイトにも登録されていないこの会社になぜ問い合わせを送ったのですか?と聞かれて言葉につまり、少し黙って、なぜか口から名前が出ていた。
そこから彼に連絡が行き、いや知らない、だれだ?と言われても、それは仕方がないし当たり前だと思っていた。
なのに、採用通知が届き、メディア部に配属された。彼はわざわざ、初日から顔を見に来た。よう、とかけられた声の曇りのない明るさと、うちとけて少し照れた笑顔が心からありがたくて、嬉しくて、キリエと三人で食事をして、足の先まで幸福だった。セミナーで詩子を見るまでは。彼のことを、うっとりと見あげる陶酔を、見るまでは。
二人は新宿駅東口の前に立っていた。じゃあ、行くね私、と言って先に行ったはずの真弓子が、ふいに戻って来るのが見えた。何だ忘れ物か?と思ったら、首に手が伸びてきて、絞められそうに細い腕が回り、女の方からキスをした。
柔らかな唇が御船の口を塞いで、あたたかな舌が小さく流れ込み、男は腕を細い背中に回すと、しっかり強く力を込めてこの女を抱きしめ、唇を開いて答えた。二人で舌をからめあう時間が、暖かい心地よいあの深淵に直接、続いていて、心と体をもう一度ひたす。ここにいる、今、本当に存在している、奇跡のように繋がりあえた相手がいた、心が通じたと信じて、唇を離したとき、御船は万感を込めて真弓子の耳に囁いた。
「はじめてお前からキスしてくれたな」
真弓子がひどく不思議そうに見上げたから、御船はきょとんとした。男は始まりのつもりで言ったのに、女は最後のつもりでもう二度とないキスをしたということに、御船は気付かなかった。
からだが離れてしまったら、もう気持ちはかけ違えたボタンのように外れて離れて音もたてずに転がり、落ちていった。




