第三十四話 ナイトメア
詩子がオートロックを開いた時、何か変だなと思ったのは、キリエの顔に何か白いものがついているように見えたからだった。重くて荘重な玄関の扉を開くと、詩子はあっと声を上げた。
「どうしたんですか?その顔」
頬に大きなガーゼが、医療用テープでしっかりとめてあり、ほとんど右頬全部を覆っていた。オートロックのカメラでは、コートの襟が隠していたから、よくわからなかった。ちょっとね、怪我したの、とキリエは顔をゆがめて痛みをこらえる。
詩子が、キリエを陽介に紹介した。
「大変なことになってるって聞いたわ。真弓子が心配。あたしに聞きたい事って、あんまりいい話じゃないわよね?」
「車を売って、当面の資金にしたいと思ってて」
二人は、キリエの前に書類を並べた。彼女はまず車から取り掛かる。
「車を売るなら、納税証明書とかいるわよ。車税払ってる?」キリエは、車検証を確認した。ちらりと陽介の顔をうかがう。「この車、親御さんの名義になってるから、あなたじゃ売れないわよ」
破産管財人に申告するべき動産だった。こんな所にも、資産があるとは、本当にいい情報だったとキリエは思う。守秘義務があるから、自分が今関わっていることは言えない。しかし、売ろうというのに車検証も確認しないとはね。まあ査定には車検証いらないからな。
「次はこちらの土地家屋です」
「ああ、賃貸アパート?これ建てるの、あなた名義でローン組んでるね」
「いくらですか?」
「九千万」
陽介は言葉を失う。キリエは、知らなかったのかと苦笑する。
「何か親が出して来た書類に、適当に署名しなかった?」
「したかもしれません、でも、どうやって払ってるんだろう?」
「家賃収入でしょう。土地は親名義ね、今回の件で処分される対象、そして連帯保証人が親だわ、保証協会じゃない。これはまずいわね」キリエは顔をしかめる。
「どうしてですか?」なんてイノセントな質問だろう。
「連帯保証人が破産した場合、あなたはローンを全額払わないといけないのよ」
「そんな……」 陽介は再び絶句した。「だって、九千万ですよ!?しかも、当人の僕が知らないのに!」
──署名しといて知らないもないもんだ、と思いながら、キリエは事務的に淡々と伝えた。
「普通は、買い手は土地と建物一括で買うから、建物分でローンを払うしかないでしょうね」
「でも、中古になるわけだから、全額払えるほどのお金にはならないんじゃないかしら」
「詩子ちゃん、その通りよ」
詩子は、陽介に向かってはっきり言った。
「つまり、車は売れず、マンションも売却になって、陽ちゃんには、それでも払いきれない借金だけが残るということになるわ」
このバカなボンボンより、よほどこっちのお嬢さんの方がよくわかってるじゃない。この子けっこうしっかりしてる。意外にも舌を巻いて、キリエは様子をうかがった。
「でもどうして?どうして僕が破産したわけじゃないのに、どうして残りのローンを全額払わないといけないんですか?」
「期限の利益っていってね。ホントはたくさん借りてるけど、毎月ちょっとずつしか払わなくていいっていうのは、借りた方の権利なの。連帯保証人がダメになると、その権利は失われるのよ。今度は、全額を一括返済するよう求める権利が銀行に発生するの」
無音が部屋を支配する。現実って厳しいね、とキリエは二人を交互に眺めて心の中で言う。それからなんでもなさそうに、少し明るい口調で言った。
「あなたも破産するかだわね。その方がすっきりするかもよ。預金が百万ぐらいになるけど、借金はチャラになるわ。どう?あなたは問題なく免責は認められるでしょ」
あら、ドライになりすぎたか。二人とも黙ってしまった。
「期限の利益、って言いましたよね」詩子が思いつめた表情で言う。「川崎の叔父はどうなるんでしょうか?」
「黒沼税理士さんのこと?」
「銀行のローンに、等々力の伯父が連帯保証人になってるって、聞きました」
「え……?」キリエは詩子を凝視した。「じゃあ、あの事務所はもう、終わりってこと?じゃあ真弓子も?真弓子は?クビになっちゃうっていうの?」
「伊野木さんが?どういうことです?」
「あの子は言ってた。もし、事務所が助からなければ、自分も帰る場所はないって。だって出向の時に言ってたのよ。外資並みに厳しいって。戻る場所はない、はっきりそう、言っていたんだもの」
魔女のもとへ行く人魚姫は、声を失い鋭いナイフの痛みをこらえて踊る。
「だってそんなのおかしいわ。不公平です」詩子が激しく言う。「今は事務所はうまくいってるのよ、伊野木さんがあれほど頑張ってくれて、叔父だって!もう訴訟の心配だってないのに、なのに駄目だなんておかしいわ」
陽介が力なく、僕はいいんだ、自己破産するよと言い、詩子は美しい白い顔を憤怒の形相に染めて虚空を見つめている。キリエはその表情を堪能して、親切に本当のことだけを言う。
「業績に問題がなければ、銀行によっては、少し待ってくれることもあるわよ。それも、失った連帯保証人を別の人が引き受けてくれるまでの話だけれど」
保証人?じゃあ僕が、と陽介が明るい表情になったのをキリエはたしなめる。
「あなたは借金持ちで自己破産するんだから無理よ。抵当権のついていない物件を持っているぐらいの人じゃないと、返済能力のない連帯保証人なんて意味がないから」
詩子は真っ白な顔で、考え込んでいた。どこか、静かだった。陽介はさすがに気付いた。慌てて言う。
「駄目だよ詩子さん。叔父さんは絶対にいいって言わないよ。詩子さんを巻き込むぐらいだったら、自殺しちゃうよ」
「悪いことは言わない。おかしな事考えないで。絶対に判なんか押しちゃだめ」キリエは詩子の腕にふれて、手を握って、優しく言う。「女の幸せを追った方がいいわ」
詩子の黒い目が、キリエをきっと睨んだ。
「キリエさんまでそんなこと言うんですか?伊野木さんのためなのに?」
「あなたわかってない。いくら真弓子のためでもっていう、それくらいのことだからよ。それに叔父さんが承知しないよ、あなたを可愛がっているんでしょ、誰よりも」
キリエは顔をしかめて、瞬間、頬に手をやって眉を寄せた。痛み止めが切れかけている。詩子は手を握りしめ、その腕は震えている。歯の間から絞り出した。
「わかってるはず。身内がこんなことになって、こんな風に仕向けた人と、どうなることもできないって。あの人は、わたしを吹っ切るためにやったの。わたしを振り捨てたいの。伊野木さんのために!」
もう、わかってる。あの人に、最後のお別れをしに行かなくちゃ
「わたし、決めたわ。どうしても、叔父さまの連帯保証人にしてもらう。それに、共同経営者にも」
玄関へ送りながら詩子は、キリエの手を握りしめた。その手に、涙のような指輪のダイヤが揺れた。
「キリエさんに来てもらってよかった、心から感謝します」
広くて大理石仕様の美しい玄関に、無音の高笑いがこだまする。心に別人のような厳しさで吐き捨てた。もしそれでもこの女を選ぶなら、私は御船次郎を心底、軽蔑するわ。
* * *
黒沼は、ぼんやりと棚のウィスキーを見ていた。何度か手は伸びるが、そのたびにためらう。ぐるぐるとめぐる思考は、すでに酔いを感じていた。思い切って、レミーマルタンのボトルをあけた。コニャックは久しぶりで、尿酸値が上がっていくのを感じる。
働くって何や。
生きるってことや。
要はカネや。
マイナスのカネつまりそれが借金や。
働けば働くほど、稼げば稼ぐほど、不思議なことに借金も膨れ上がるんや。もええわ、何もすなちゅうこっちゃ。
なのにワイはなんでまだ生きてるん?
今日もまた、メシ食うて酒も飲んでもうた。このメシと酒であったところのカネは、おれを生かしとる命はどこから生まれて消えたんや。
ワイの命はすでにどっからか、マイナスなんや。
借金はどっかで精算せなあかん。
ここまできたら、マイナスはプラスにはならん。ひっくり返すんは、二倍必要なんや。
だが、マイナスをゼロにすんのはできるかもしれへん。こんなワイでも。
「兄貴の世間体があかんて、この業界はイメージが大切やて。弟は妻が死んでから鬱になってたんや。それでええわ。そういうことにしとき」
久しぶりの強いアルコールに、血圧が突然上昇したようだった。ブランデーグラスが落ちて粉々に割れたが、彼にその音はもう聞こえなかった。頭痛、動悸、耳鳴りがして、突然汗が噴き出した。めまいがして、立っていられなくなる。ぐるりと倒れながら、このままでは机の角にぶつかると思ったのに、あたたかい体が寄り添うのを感じて、黒沼は抱きとめられた。優しい、ほっそりした腕が、彼の痩せて小さくなった体を包んでいた。真弓子が黒沼を椅子にゆっくり、座らせる。
「具合悪いなら言えばいいのに」
ぶつぶつ言いながら肩を貸し、今度はソファまで運んでくれた。触れてみれば驚くほど細く小さな肩に、彼女から立ち上る生気とよそを跳ね返す空気がいつも、彼女を大きく見せているのかと思う。黒沼は小さな声で、いつものようにからかった。
「気付けにもう一杯、今度は甘ったるいのやのうて、ジャック・ダニエルがええな」
「ミスター・ジョン・ダニエルね?」
やはり知っとるわ、しゃれたこと言いやがる、と唇に笑いが浮かび、もう二度と笑うことなどないかと思ったのにと、苦笑いした。それから、苦味を舌の上でゆっくり味わうように言う。
「なあ、伊野木のねえちゃん、知っとるか?官報には『行旅死亡人』ちゅう欄がある」
黒沼がソファから滑り落ちたので、真弓子は振り返った。もう一度、這うようにして、ソファの座面に肘をかけて、体を支える。
「ワイならさしずめ、こんな感じや」
『本籍・住所・氏名不詳、推定年齢五十~六十歳前後。
身長百六十四センチ、着衣は茶褐色革ジャンパー。
白色半袖シャツ、右腕に古傷あり、腹部に手術痕あり。
靴(左、紐つき、靴裏に25.5の標記、チャーチ)、灰色パンツ。
死因は不詳。
身元不明の為、当町で火葬に付し、遺骨を保管しておりますので、心当たりのある方は……』
「ふらっといなくなって、誰も知らん。それでええんや」
真弓子はソファのそばの床にしゃがんで、黒沼の傍で膝を抱えた。疲れと涙で少しふちが赤くなった目でじっと見てくる。黒沼はその彼女の視線が好きだった。
「先生は崖っぷち。私も崖っぷち。先生が自問自答してるそれ、よくわかるよ、私にも」
真弓子は床を見て、今はネイルもしていない細い指で、カーペットの毛玉をちょっとむしった。
「田舎は弟が結婚して家継いでるし。三十越えた独身女が帰る場所なんてない。わたしはひとり」
真弓子の低い声に、黒沼が足を引いてあぐらをかき、二人はソファの足元に小さくなって座っていた。
「今の生活、家賃、預金、給料、保険、綱渡りよ。一人で生きる覚悟なんて、いつも毎朝毎晩決めてるのにね。気を張ってるだけ、逢魔が時っていうのかな、夜にふっと誰かがささやくの」
真弓子の目に、さっきの自分と似た、先を見通せない暗さが宿るのを黒沼は見た。
「生きるって何だ。お前の存在価値って何だ。どこかで躓けば、終わりだ。走り続けてるのに、もう疲れた。…ってね」
つかの間、自分の絶望を忘れて、彼女の闇に沈痛な思いを寄せた黒沼に、真弓子はちらと笑ってみせた。その表情にもう、陰はない。
「そんなときは、映画を見るのよ。セントオブウーマン夢の香りとかね」
「するとワイがアル・パチーノか」随分、男前やなぁ、と黒沼は笑う。
「あの映画を見るたびに、村上春樹がダンス・ダンス・ダンスで言いたかったことは、ああいうことなんじゃなかったのかなって思うわ。足が絡まっても踊り続けて…って」
頭打ちぬくのが楽やな、とひとりごちたら、ブラインドマザーファッカーと帰ってきた。肩越しにちらりと見たら、真弓子は相変わらずの笑顔だった。香水を付けない真弓子の甘い女の匂いが微かに届く。
「誰もみんな、崖を歩いてない人なんて本当はいないんじゃないかしら。でもね、センセイ、本当に不思議な話なんだけど、この不安を詩子ちゃんには感じないの」
それは今日、桂木部長と別れてから考えに考えた思案の結果で、もう真弓子は十分にその意図を反芻し、納得して決意をし、黒沼に伝えようとしているようだった。
「彼女と話してると私でも安らぐの。あの子は、芯が強くて、どっしりと揺るぎない、落ち着きを持ってるのよね。とてもかなわないな」
黒沼の視線が、既にその意図を汲んでいるのを感じながら、真弓子はゆっくり言葉を続けていった。
「どんなことがあっても、絶対に離れない絆っていうのかしら。この子は、あいつの支えになれるだろう、ずっと寄り添って、二人で生きていくんだろうなって、素直にそう思えるんだ」
唇を開いた初老の男は、真弓子の名前を呼ぼうとして、言葉にできない。
──あんたは次郎を、あきらめてくれる言うんか。
黒沼の唇が震え、すまん―許してくれ、とその言葉が出る前に、事務所の扉が慌ただしく開いた。
入って来たのは、詩子と陽介だった。詩子の目には、ただならない決意の痕があって、真弓子の静けさとは対称的に、決然と、断固として譲らない気配があった。
陽介が、慌てて床にうずくまる真弓子と叔父のそばに来る。詩子も座り込み、叔父の目を覗き込みながらきっぱりとした口調で言う。
「陽ちゃんと二人で考えたの。等々力の伯父のかわりに、私を連帯保証人にしてください。そうすれば、叔父様のことは助けられる」
「何を突然言い出すんや、詩子」
愛する姪に、こんな考えを抱かせる自分の不甲斐なさに、苦い思いを噛みしめて黒沼は苦笑する。
「こないな事務所、今更どうなってもええやないか。もう何年も前から、ないも同然やったんや」
「よくないです」
詩子の毅然とした声が事務所内に響き渡る。
「どうしてや、お前がもうええて、捨てていった場所やないか」
詩子は黒沼の手をしっかりと握って、厳しい顔のまま叔父に告げた。
「ここが、あの人に出会った場所だからです」
真弓子と黒沼は、詩子の顔から、もうあの夢見るような表情が消えているのを見た。詩子はひとことを区切って、きっぱりと言う。
「わたしを、あの人にめぐり合わせてくれた叔父様だからです」
黒沼は詩子を見上げて、潤んだ眼をしばたいだ。
「お前はそこまで次郎がええんか、やっぱりそうなんか」
詩子は続ける。
「ここまでして、わたしたちを切ろうとした本社の後ろ立てなんて、叔父さまは嫌なんでしょう。わたしだって嫌だわ。だったらそれしかないでしょう」
詩子の耳には、もう何も届いていなかった。
「叔父さま、私を育てて、あの人に出会わせてくれたこの事務所、伊野木さんが守ってくれたここを、どうかわたしの為に維持していって下さい。お願いします」
黒沼の目に浮かんだ涙が頬を濡らした。真弓子がそっと黒沼の肩に手をかけた。
「ねえ、わかった?詩子ちゃんにここまで言わせたら、本社の方がまだ、ましだって思えるでしょ。意地を張らないで、センセイ」
黒沼の嗚咽が漏れ、詩子は真弓子をはじめて見上げた。伊野木さん、と真弓子のことを震える声で呼んだ。「先生は……」
詩子が何を言おうとしたのか、真弓子は聞く前に語気強く言った。
「ちょっと、連帯保証人なんて考えたら絶対にだめよ。バカね」
真弓子の顔を、詩子は凝視したままだった。食い入るように見つめていた。真弓子はつとめて微笑んだ。
「本社に言われてきたの。絶対にセンセイは、本社が見捨てない、面倒を見るって。説得しろって言われたわ。だから安心して。任務だってことだから、遂行しないとこっちが本社に帰れない」
それにね、と真弓子は詩子に優しい声で言う。詩子の目が見開かれ、あの夢見る表情がまた沈んだ水面から顔を覗かせるようにかすかに浮かんで、涙であふれた。
「事務所であなたを待ってる人がいるでしょう」
詩子と黒沼を事務所に残したまま外に出ると、駐車場には高橋が待っていた。
真弓子の肩を支えて言う。
「明日は忘年会ですよ。行って飲みましょう、真弓子さん。少しは息抜きが必要です」




