第三十三話 セイレーン
株式会社S研についての内部レポート。
一九九一年からのバブル崩壊期において、S研代表取締役会長、当時社長の黒沼聡一郎(六五)の株式投資が失敗、追加融資を迫られ過剰債務及び利払いが発生。当時、黒沼聡一郎はN商事会長でもあり、後に相談役に就任するが現在は辞任している。黒沼聡一郎は個人投資による損失を穴埋めするために、S研及びN総合商事から資金融通を行った。会社本体の資金流出及び資金繰りも著しく悪化、上記の責任として、黒沼社長はN総合商事の会長職を退き、相談役となった。
「債権カットに応じないと別会社造るだってよ」
「無理だって。別会社を立てようとしたけど、幹部も引き受け先がいなかったんだよ」
「あの奥さんは、自宅を売るっつうと騒ぎそうだなぁ」
「もうかなり騒いでたわよ」
「騒いだってしかたねぇべ」武藤がうなるように言う。
二〇一〇年一月、主要取引先業界の外部環境が悪化、債務超過解消の絵を描くのが難しい状況にあり、経営改善の検討を開始。
二〇一〇年九月、中小企業再生専門コンサルタントが、N商事からの貸付金を株式と相殺する案及び事業構造改革案を作成。役員の入れ換え、若手登用による社内空気の刷新などを始めとするアクションプランを提出。全債務者同意の予定。
「キリエさん、今回気合が入ってますね」
「ここだけの話、キリエさん、離婚の話になってるらしいですよ」
「仕方ないだろ、旦那もあれじゃ手に余る」
巨漢の武藤だけが、腕を組んでじっとキリエの背中を見ていた。
債権者集会にて、債務者B銀行、C銀行及び他債務者同意するも、当初同意の回答を得ていたメインバンクであり、個人資産の第一順位の抵当権者たるA銀行の返済猶予の稟議決裁が否認となり、法的破綻の方向性が決定的となる。
メインバンクの反対意見の根拠として、オフバランス化を強力に推し進めたい内部意見が強固であり、外部機関の調査においても、取引先業界の状況厳しく、今後の業況好転の可能性は極めて薄いとの結果を得たとみられる。他銀も含めての負債総額はさらに膨らむと……。
「訴訟が取り下げられたって?」外回りから戻って来た高橋が聞くと、一平が電話口を押さえて言った。「訴え先の実態がなくなるから、訴訟も取り下げられるんですって」
「桂木さんに連絡しよう」
高橋が本社にかけると、桂木部長はすぐに出た。電話口で、順ちゃんね、民事再生の話聞いた?真弓子ちゃんとちょっと、こっちにきてちょうだい、と言う。
真弓子と高橋が汐留の本社に入ると、小会議室で桂木部長が待っていた。
高橋と真弓子は、この部屋で以前黒沼が桂木から聞いたのと同じ話を聞いた。ただ、桂木はあの時、すべてを話したわけではない。
飯尾社長の指示を知っていたのは、社内でも御船と桂木だけだった。桂木は大塚副社長側に立ち、御船の邪魔をしないように、彼を抑える役目を担っていた。
「人事部長は?」
「あの人は何も知らないわ」
「桂木部長、この一年間、そんなギリギリの綱渡りの状態で、胃が痛くならなかったんですか?」高橋が聞く。
桂木はにっこりしただけだった。アプリの訴訟騒ぎについては、桂木も初耳で、存在を知らなかった。
「副社長が思わぬ所で、黒沼税理士事務所を思い出してくれてよかった。視線をそっちに向けられたのはみんな真弓子ちゃんのおかげ。だけど、問題はこれからね」
「連鎖倒産ですね」
「銀行からは何て言ってきてる?」
「まだ何も」
「様子見ね」
沈んだ表情で考え込んでいる真弓子に、桂木は困ったように肩をすくめて言う。
「仕方ないのよ、真弓子ちゃん。御船ぐらいのおみやげをちらつかせなきゃ、あの相談役さん、死ぬまでうちから血を吸い取り続けたでしょう。あっちが倒れたときの、うちのダメージは計り知れないわ。葬式も出させたんじゃない?社葬なんて言ってさ」
桂木は、最初に真弓子にしたように、また机に身を乗り出してその手を取った。その唇にも眼にも、笑いはない。
「真弓子ちゃんには最後の仕事を頼みたいわ。うちがバックアップをすることを、真弓子ちゃんから黒沼先生に話してもらえないかしら」
真弓子はじっと考える。黒沼は優しい男だった。それだけに、自分と自分の事務所に対する誇りは人が思うよりもはるかに高い。兄を陥れた御船と本社を彼はそうやすやすと、受け入れるだろうか。答えは一つしかない。
「センセイは、断るでしょうね」
「だから真弓子ちゃんに頼んでるの」桂木は銀縁眼鏡の奥から、真弓子をじっと見つめて言った。「不可能を可能にする女、真弓子ちゃんと見込んでの事だからなのよ」
御船は、小会議室の外に立っていた。後ろから声がかかる。
「副社長が探してましたよ」
ドアを開けることなく、ゆっくりと、後ろを向いて歩み去る。債権者の銀行をまとめるのに、予想外に時間がかかった。
黒沼の事務所の行く末を思い、詩子の衝撃を思い、真弓子の頑張りを思い、何を今更、と思う。キリエ女史なら言うだろう。早いか遅いかの違いだと。おれが手を出さなくても、船は沈む。船頭の扇は海に落ち、胸を射ぬかれて波に漂う。二百人超の生活も、海に投げ出された。そのうちの何人が板につかまり、何人が波に飲まれていくのだろう。
彼は自分の事務所にまだ戻っていない。準備していたはずなのに、詩子と顔を合わせる自信がなかった。今日は朝から事務所を早くに出て、クライアントを渡り歩いて過ごしていた。
等々力の豪邸では、悲鳴のような声が聞こえて、何かが壊れる音がした。
──絶対に出て行かないわ、何考えてるの、人でなし、出て行け、泥棒!泥棒!警察を呼んで。
キリエは特に貶めるようなせりふも、恫喝めいたことも、何も言わない。ただ黙ってこの中年女の醜態を静かに見つめる。その目はただただ、喜びに満ちている。彼女の胸のうちは今、幸福でいっぱいだ。
サブマシンガンを遠慮なく撃ちまくる喜び、正等な理由があるならば復讐は容認されると判断する、脳に刻まれた人間の宿命を肺のすみずみまで吸い込んで堪能する。
──ここはね、母の土地ですから。この人のじゃありません。あたしが生まれた場所なのよ、この家を、売るですって、先祖代々、受け継いできた場所なのよ。他人がここに住めると思う?
──抵当権というものがありますから。
──そんなの関係ないでしょ!
──落ち着いて下さい、奥様。法律は変えられません。
ほんとに嬉しい、楽しい、だいすき。鼻歌が漏れる。豪華な装飾のテーブルの下に組んだ脚が、今にもステップを踏みそうになる。私に意地悪をする、この世のすべてに復讐できる瞬間がある。
──法律が変えられないもんですか。こんな理不尽が通るわけがないでしょ、悪いのはあんたたち、それと銀行!銀行が貸したのが悪いのよ!衆議院議員やってる伯父に電話するわ。彼から話してもらうから。
──落ち着け、とうに職を辞して引退をしたじゃないか、今は病院に入ってる。
* * *
ホームで電車を待ち、乗り込んで真弓子はドアの側のスペースに立った。黒沼を案じ、詩子に胸を痛めながら、ぐるぐる回る思考の中で、彼女にはどうしても解けない謎がある。
ひとことも口をきかない真弓子に、高橋が言った。
「御船さんが、あなたを川崎にやった意味が、わかりますか」
「わからないわ。いくら考えても」
車内はしんとして、沢山の人々が疲れたように目をとじて虚空を見ている。どこかの駅に着くまでは電車の揺らぎに体を委ねるしかない。降りる駅を決するのは自分だけだ。
「あなたにはわかるの?」
高橋がつぶやいた。
「わかりますよ」
それ以上何も言わなかった高橋の心を感じて、真弓子の視界が、ぼやけてにじんだ。
「もし黒沼先生を説得できるとしたら、それはあなたしかないでしょう」
──あなたをあそこに行かせることは、彼にとって、魂のありかを預けるほどの意味があったんですよ。
トンネルの中で聞こえる車両の輪が奏でるリズムは、どこか遠くから聞こえてくるようで、真弓子はただ体を委ねていた。
* * *
昨日まで札束に埋まって胸を反らして歩いてたでしょ。安心してね。健康的で文化的な、最低限の生活は送れるのよ。なんて愉快、最高のエクスタシー。今まで従順で卑屈で、あれほど親しげだった連中が、手のひらを返すように背中を向けて去っていく、態度がぞんざいになっていくのを見る気分はどうですか?
エルメスのバーキン、翻るローラアシュレイのコート。御愁傷様。
夢想の中でキリエは、腰をかがめて親しげに話しかける。ねえ、今どんなお気持ちですか?生活は保証されても、死んだほうがましなぐらいではないですか?
既に相手は動かなくなっても、怨嗟のマシンガンの弾丸は止まない。死者に鞭打っても足りないこの怒りを、高笑いと共に吐き出す。そっちが今まで偉そうにしていればしていただけ、効果絶大、首も縊りたくなる気になろうってもの。堪能してね、建康的で文化的な最低限をね。声を出して笑いたい。
鈍い音がして、キリエは眼前に銀色の炎を見た。後ろを向いて、それがどこかに走り去っていってまた戻ってきた夫人の投げてきたペティナイフだったと、事態を把握するより前に、キリエの頬に切れ目が入り、一瞬の間を置いて、血が吹き出すのを自分で感じた。
もう一度、今度は振りかざされるテーブルナイフを見た。白い女の表情はむしろ感情はなく、能面のようだった。狙いはやけに正確に胸の真ん中で、白粉の下の濁ってどす黒い肌を、どこまでも醜いな、とキリエは妙に冷静に考えた。
横から巨大な手が伸びる。夫人の腕をなんなく掴んで抑えたのは、武藤の太い腕だった。
「奥さん、これは傷害だよ」
低く言う。巨漢は文字通り、赤子の手をひねるようにそっと夫人の手を下に下ろしたと見えただけで、ナイフはぽろりと床に落ちた。振り向いて控えていた仲間に言う。
「警察を呼んでくれ。車も用意だ」
* * *
詩子と一緒にいた陽介に民事再生の話が入ったのは、顧問弁護士の菊池からだった。セミナーを見終えた詩子は、そのまま陽介と一緒に、財産目録の作成をやろうとしていた。
陽介は、俄かに事態を理解するこができなかった。歩き回り、髪をかきむしって、それから部屋の隅に座り込んで、動かなくなった。
御船と一緒に仕事をやってきた詩子には、伯父がこれからどうなるかがすぐに分かった。
陽介の次に菊地に一通りの話を聞いて電話を置いた詩子は、思ったよりショックを受けていない自分に驚いていた。脚も手も震えてはおらず、平静だった。裏切られたという思いはない。陽介に話を聞いた時よりは、ああ、そうだったのねと、ふっと腑に落ちた部分の方が大きかったのだ。
「陽ちゃん、大丈夫?」
詩子は座り込んでいる陽介のそばにしゃがんで、コップの水を差しだした。陽介は機械的に取って一口、すぐに返すと膝に顔を埋める。
「これからオヤジはどうなるのかな」
「破産すれば、財産は処分しなければならないと思うわ」
「母さんは、どうなるのかな」
「きっと、キリエさんが詳しいわ」
詩子は、携帯を取り出して、電話帳を探し始めた。ちらと時計を見ると、四時半だった。まだ仕事中ではないかと躊躇したが、思いきって電話する。携帯を閉じると、詩子は陽介を振り向いて言った。
「ちょっと待ってもらえたら、仕事が終わってからだけど、すぐ来てくれるですって」
ひどい奴だと、悪者だったと、おれを吹っ切ってくれたらいい、そんな御船の声が聞こえた。先生はわたしと、本気で別れるつもりでやったのね、そうでなければ出来ないことだわ。
詩子の体すべてを冷たく満たしている思いがあるとすれば、そこだけだった。それでも、詩子はなぜか涙もなく、青白い顔をして淡々と、キリエを迎える準備を進めていた。
菊池弁護士は、残念ながら、民事再生の申立は棄却されるでしょうと言っていた。ならば、破産しかないですね、と詩子は答えた。免責は?株式投資の失敗は、免責不許可でしょう。冷たい声だった。彼は結局、伯父を嫌っているのだと詩子は思った。あれほど心酔、平身低頭しているように見えたのに。人なんてわからないものなのね。
白い未使用のノートを準備する。一つ一つ、思いつくことを書き留めていった。
等々力の伯父の会社、伯父自身、が破産になれば、どうなるのか。従兄弟たちは、伯母は、負債があるのか。陽介の当面の生活費、川崎の叔父への影響。
そして、川崎の叔父の保証人に名前を連ねている、母は?離婚になるかもしれない。わたしのマンションに住めばいい。
最後に詩子は手を止めた。
わたしは?
このまま、御船の事務所に勤め続けることなど、できるはずがなかった。これ以上ないほど、御船の彼女への別れの意図は明白だった。こんなにずっとそばにいて、全身で尽くしてきた女に対する、これ以上に卑怯な、悪どい裏切りがあるだろうか。あれほど等々力の伯父たちには、結婚をほのめかしておいて、わたしはやっぱり、利用されたのね?そうだと思うわ。なのにそれと同時に、自分に対する不思議な御船の迷いも感じた。あの人は、私に期待させるようなこと、何一つしなかった。むしろ避けるようにして、頼む詩子、わかってくれよとでも言うように。それは、陽介に御船の仕打ちを話を聞いた日から、何度も、何度も、自問自答してきたことだった。
そして今、わたしはいったい、どうしたらいいの?
もし、もしもよ。わたしが、それでもかまわない、愛しているから、そばに置いて下さいと言えば?
ひどいわ、卑怯者、どうかわたしに責任を取って下さい、と泣いて訴えれば?
わたしに優しい、あれほど優しかった先生、たとえ私を愛していなくても、仕方ないな、と言ってくれないのだろうか。これは未練なの?どれだけ、あの人に縛られているのかしら。盲目とは、このことだわ。
わたしはいったい、どうしたいの?
──目を開いて、学び、足を据えよう。
うなだれていた詩子の目が開く。ノートを見つめる。ここにすらすらと書き留められたこれらの知識だって全て、御船に学んできたことだった。彼のセミナーすべてが、詩子に語り掛けているようだった。裏切りだなんて、何がなの。詩子はノートを胸にあてた。黒髪が、詩子の顔も胸もノートも隠した。私が勝手に追ってすがって、まとわりついていただけなのに。
今回の出来事での先生の意図なんか、そんなもの、どうだっていい。そんなことよりずっと、この六年間がすべてだわ。先生の言いたかったこと、ずっとずっとあの人が、キスなんかよりもわたしに全身全霊をこめて伝えてきてくれたことがあるんだわ。そして、受け取るのか受け取らないのか、それはわたし次第なんだわ。
キリエが詩子の電話を取ったのは、病院で手当てを受けている最中だった。
たかがペティナイフ、三徳包丁なんかじゃなくて、本当に良かった、とキリエは思う。もしくはヤカンの熱湯か何か。頬をかすめるだけですんだが、首だったらと思うとぞっとする。
頬をハンカチで抑えて治療を待っていたが、驚くほどに出たと思った血はそれほどではなく、もう止まりかけていた。ただ、お気に入りのスーツに飛び散った血はまだ完全に変色しきっておらず、所々鮮やかな赤が残っていた。
「大丈夫だ、そんくれぇで死なねえよ」
肩に手を置かれた。どっしりと骨ばってごつごつと節くれだった、肩をほとんど掴んでしまうほどの大きさの手だった。キリエの相棒、巨漢の武藤が低い声で言う。
「気を付けろ。あんまり浮かれてると、足元救われるぞ」
まだ消えていなかった歓喜の炎が揺らいで消えて、ふっと静かな闇に返る。地面に這う彼女の影が、病院の床にすっと沈んで、つかの間姿を消した。
「この仕事、感情を入れては駄目だ。自分を消すことだ。命取りになるぞ」
キリエの復讐を満たすこの聡一郎の家は所詮、小金持ち程度なのであって、本当の富裕層は上からそびえ立つ摩天楼のように冷たくどっしりと砂粒のような階下に蠢く人々を見下ろしていた。
だがキリエは知っている。
その高層ビルですら、いつかは古びてほころび、跡形もなく崩れ落ちて塵となる時が来ることを。一握りの富裕層すら、代を重ねていくうちに、次第におとろえ、あれほど磐石のように見えた切り札の土地さえも、いつしか他人の手に渡っていく運命であることを。
電話が鳴った。着信を確認して、キリエは武藤の手をそっと感謝をこめて押しのけ、ロビーまで出て、電話を取った。その唇には、微笑がある。
* * *
遅くまでクライアントを回り歩き、御船はついに事務所に戻った。扉を開き、中に入っても、今日一日ここに灯がついて、誰かがいたような気配はまるでない。鳥が逃げた後の鳥かご、魚が死んだ後の水槽のように空っぽだった。
当たり前だと、ふっと息を吐き出した。一人、コートを脱いでハンガーを手に取りながら、お帰りなさい、どうでしたかというあの優しい声がない寂しさが湧く。おっさんがどうこう言っても、詩子はさすがにおれを見限るだろうよと、心うちに呟いた。
こうなることをずっとどこかで待っていたはずなのに、しみじみと寂しい。御船は今さらのように、あの美しい姿、自分を憧れのまなざしで見る長いまつげの下の黒目と、揺れる伸びやかな黒髪が、どれほど自分の励みであり、慰めになっていたか、今更のように思い知った。おれは詩子が何をやっても離れないと思っているから、あいつの目の前でほかの女の尻を追いかけるような真似だってできたんだ、と理解した。離れてほしいような態度を取りながら、ずっと手も出さず、詩子の悲しみを知りながら、利用して、甘えて、頼りにしていたのは御船自身だった。
六年間、女にとっては、長い時間で、おれにとってもそうだったんだよ。
詩子に許して欲しい、置いていかないでくれととすがってしまわない自信がないから、今は会わないほうがいい。
随分久しぶりに喫う、マルボロのメンソールを口に咥えれば、煙に浮かびあがるのはやはり真弓子で、それは彼女に出会った日にもこの煙草を吸っていたからだ。汐留の本社、小会議室で桂木部長を相手に、ほとんど黙して語らなかった彼女のことに思いを馳せる。
彼女がいてくれなければ、詩子と黒沼への後ろめたさから、こんな力は出なかった。二人で事務所の書類をめくる心地よさ、あの時だけは御船は何もかも全てを忘れていた。唯一の安らぎだった。御船は思う。
あの元相談役と話していた時、おれは嘘だけをついていたわけじゃない。九十九%の嘘の中に一%の真実を込める。おっさんに習ったことだ。あのジジイにえげつない事を言われたときに、おれははっきり悟ってしまった。たとえ詩子が許すといい、おれが詩子に行かないでくれといい、彼女を抱いても、結婚しても、結局何も変わらない。この体を焼く炎は、変わらない。この二年間、じりじりしながら燃やし続けた執念のかけらで、詩子との別れを覚悟したおれには、たった一つ残された原動力だった。
詩子をあれほど傷つけて、ひっくり帰ったコップの中身は戻らない。おれはおっさんと詩子に恨まれ、この腹を刺される覚悟を決めて、この役目に臨んだんじゃなかったのか。
右手の前腕を、服の上から押さえる。今日、黒沼の年取った指がつかんだ部分は、黒いあざになっていた。
もし、あの女が振り向かなくて、詩子がおれを許すと言ったら、おれはどうする。
──詩子や。詩子をちゃんとすることや。
昨日の黒沼の声が、呪縛のように今、御船を縛っていた。
ほとんど喫わないままのマルボロをコーヒーの缶のふちでもみ消して、ハンガーにかけた服をしまうと、クローゼットの扉に詩子が張ったカレンダーが目に映る。御船はふと気が付いた。明日の夜は、少し早い忘年会だった。
何故か聡一郎の声が響く。
──逃げる女は運そのものだ。運を掴めよ。




