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汀より  作者: 天海 悠
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第三十二話 最後の花道



 動画の再生ボタンを押すと、映画風のカウントダウンが始まって、ゼロになったとき、その文字の中に覗いている目が映る。目を映していたゼロがとりのけられて、ボードだったと視聴者は気付く。並木道を歩く黒沼がこちらに向けて歩いてくる。

 その姿にかぶせるように、陽介がアップの顔を動画に見せた。


──皆さん、こんにちは。この動画を撮ってる黒沼陽介です。僕は、高校を卒業してません。中三のときから、不登校で二十三歳。


 黒沼が陽介を押し退けて顔を見せた。


「そんでも今、けっこう立派に働いとるで」


 画面が切り替わって、丸顔のおじさんの顔が映った。黒沼の声がする。


「セミナー久しぶりにやりたいんやが、あんたのとこのケースを事例を使って紹介してもええか?プライベートまで紹介するが」

「ええ~、しょぼくないかなぁ、もっといいとこあるんじゃないの?うちでないとだめ?うちなんか、しがない豆腐屋だよ?スーパーに客取られてひーひー言ってるの。だめだめ、はずかしいよ」


 次々に画面が切り替わり、様々なその辺りにいるようなおじさん、おばさんを映し出す。


「うちだってわからないように変えちゃってね、よろしくね。うち工務店」

「隆ちゃんのためなら、おれなんかいくらでも使っちゃってくれてかまわないよ。長いつきあいだからね。離婚の時も世話になったね。ついでに再婚のときもね。ウフッ、あ、おれ、個人農家です」

──これはな、ワイの事務所の宣伝やあらへんで。どこにでもある、普通の、小さな個人経営のお店のおはなしや。


「なかなかよくできてるじゃない」


 具体例をひとつひとつあげていき、それに、実務や諸問題をからめて解決を示し、紹介していく。映画仕立ての動画だった。


「最後のセミナーシーンがまだ残ってますから。それを撮ったら、あとは最後の編集して、アップロードです」


 まだ動画は続いていた。


「立派になっていくのは、きれいな店舗とエプロンつけたシェフのかっこした店ばっかりでさ、おれみたいな所は、ぎりぎりまでやって、あとは店畳むしかないのに、ここまで寿命延ばしてくれて本当に感謝してるよ」

「土地と店売っても、借金全部返せないし、家なしで放り出されてどこでどう暮らせばいいっていうのかって話だよ。あかんて言ってくれたことは、たいてい当たっていたし、節税も丁寧に教えてくれた」

「なんや、まだ見とるんかい」


 黒沼が手をふきふき、洗面所から出て来た。


「こないなじいさんたちの話、受けるかいなあ、不安やわ」

「宣伝第一よ、陽介が言うように、つぶされかけた事務所が動画作成で一発逆転を狙って作った動画ってストーリー仕立てで配信、いいアイデアだわ」

「いや、友達のアイデアなんでそこはなんとも」


 コトリ、と背中で音がした。

 皆が振り向くとそこには、白いコートを着たロングブーツ姿の詩子が立っていた。真弓子には随分久しぶりに見る姿だった。

 黒沼は大きく目を見開いていた。口が動いて、言葉がでない。やっとのことで声になった。


「詩子!」


 詩子の目からも、涙が溢れていた。


「叔父さま、ごめんなさい。私、どうしても顔を見せることができなくて」

「ほんまに詩子か、夢やないんか、元気にしとるんか」


 詩子の顔が心底辛そうに歪む。二、三歩歩いて、それ以上入るのをまたためらう。皆、じっと黙って彼女を見ていた。今は彼女がここではよそ者で、それを詩子も強く感じていた。真弓子が立ち上がり詩子を迎える。手を取って背中に手を触れ、事務所の中へと招き入れた。黒沼の前まで来て、詩子は立ち止まる。声が震えて、溢れ出した。


「先生を許してくれますか。あの人は何も悪くないんです。私が勝手についていっただけなの、本当なんです」

「もうええ、もうええ、顔を見せてくれただけでワイはもう、報われたんや」


 詩子を抱きしめる黒沼の背にまわった手の向こう、詩子の濡れた目が、真弓子を見上げた。二人は、一言も口をきかなかった。ただ、じっとお互いを見つめていた。



 黒沼のセミナーの準備は、予想外にスムーズだった。格好がつかないだろと、世話になったと、契約を切った先からも申し出や出席者があり、かなりの人数を確保でき、それなりに広い講堂をそれほど待たずに予約できた。


「ラッキーだったわ。センセイの人望ね」


 一平が感心したように言う。


「すげえテキパキしてますね、伊野木さん」

「昔とった杵柄だからね」


 開演まであと十分という時間になった時、佐藤がそっと黒沼の袖を引いた。黒沼が裾に行くと、声を潜めて知らせる。


「お電話です。お兄様から。緊急だと言ってます」


 黒沼は眉を寄せたが、黙って自分の携帯を受け取った。しばらくカーテンの裾で小声で話をしていた。終わると切って、わずか視線は天井を向く。まぶしいライトが網膜を焼いた。


「はじまるわよ」


 真弓子が呼んでいる。その大きな目を、黒沼はじっと見つめた。真弓子が不思議そうな顔になる。どうしたの?と首をかしげてみせた。その姿を見つめる黒沼は口を開いて、また閉じた。不安に感じたのか、真弓子がそばに来る。


「大丈夫?どうしたの?」

「伊野木のねえちゃん」


 黒沼の手が、真弓子の手を取った。こんな風に彼が真弓子に触れるのは、始めての事だった。真弓子は振り払わなかった。握り返すこともせず、そっと手を取られたままでいた。


「あんた、マギーのためや、言うたやろ」


 真弓子は、じっと黒沼を見つめていた。


「ええ」

「今日、ワイが講演するんは、猫のマギーのためや。皆やない。そのためだけに、一人だけに向けてやる。見といてや」


 携帯を真弓子に渡して、黒沼は壇の上に脚を踏み出した。マイクを前に衆人を見下ろした時、彼の視界には、あれほど恐れた真っ暗な闇のような頭の群れはなく、ただ真弓子の優しい、励ますような大きな目だけが映っていた。



 ごらんの通り。ここまで、見てきた通り、世間も業況も厳しいわなぁ。ま、破産になったって、なんてことはあらへんが、ちょちょいっと、やり直せばええし。


──隆ちゃん、ここにいるよ。


 さっきの動画の中にある、破産パターンの彼がそこにいるで。いまは小さいが自前のレストランのオーナーや。細々と貸家で肩身も狭うしとったのが、もう一度花開かせ、ああやって堂々と生きとるわ。

 本当に人を殺すのは絶望や。自分の本当の心を出せずに、もう出したらあかんのやと思い込んで我が身を圧し殺す我慢や。怖いのは人からの視線や。だがそれはみな、人にどう見られたいかという、自分の中から来よることを、わからなあかん。すべては自分の中のことや。


 そんでもって、生きてく上に希望を持つ、一番何が大事かいうとやな、いのちを継ぐ存在や。この心を受け取って、汲み取って、葉を伸ばしてくれる若い芽や。わしら年寄りは、面倒をみてもらうこと、自分のいのちを伸ばすことだけに執心してはならん。不安に押しつぶされてはならん。

 それだけはならん。世話してもらう代わりに金を渡すんやのうて、偉そうに説教垂れるんやのうて、見返りを求めへん心を注ぐんや。大切に思う気持ちを伝えるんや。


 ここでワイが最後に話したいのはな、これからわいらの志を継いで欲しい、二世、三世、そのまた先の子供たちを迎えるやつら、後継者たちへ向かうワイら、年寄りの心への、いましめや。

 与えるのではなく、示すんや。自分の生き方で、これまで培ってきた全てを示すんや。破産しようと、何だろうと、今までの時間は決して無駄にはならん。恥多い生き方であればあるほど、そこから学んだことはいっそう多いはずなんや。気付くためには、目を開く必要がある。過去は変えられへん。あとは未来しかない。残り少なければ少ないほど、いっそう鋭く、先を尖らせるようにして、今、この現在をこそ、しっかりと見据えて生きねばならん。


 過去から学び、現在に足を踏みしめて、「これから」を生きるべきや。あえて爺さん婆さんにわしは言う。未来を、とな。

 我が身を振り替って、弱った力と、鈍った頭を振り絞って最後のクソ力、子供らにモノやカネや説教を与えるのではなく、期待を押し付けず、わしらの生きてきた時代の、学びから得た知恵を、わしら自身の生き方で、わしらの道を、しっかり示してやろうやないか。



 黒沼本人の講演は、二十分で幕を閉じた。黒沼の体力を思って真弓子が設定してくれた時間だった。

 しばらく一人にしといてくれと真弓子に頼んで小さな狭い控え室に入ると、黒沼は鞄をゴソゴソと探る。今時まだ残っているのかと思うような、小さなテープレコーダーを取り出し、カセットを設置した。何度かスイッチをいじって再生をする。壮重なクラシック曲が流れ出して、控え室の小さな空間をゆっくりと満たしていった。

 彼のためにしつらえたパイプ椅子にどさっと座ると、息をついて汗をぬぐう。後ろも見ないでつぶやいた。


「次郎か」

「おっさん、まだそこそこいけるじゃん」


 控え室の扉の影、黒沼の後ろには、チェスターコート姿の御船が立っていた。テープレコーダーを今時、相変わらず、という顔で見やって言う。


「暗ぇ曲」

「フォーレのレクイエムやで」

「クラシックだとかそんな高尚な趣味ないもんでね。こちとら小杉の下町生まれ、野放しで育ったガキだから」

「さぞかし悪ガキやったんやろうなあ」


 なあ、と黒沼は語り掛ける。


「詩子を頼むで」


 御船の表情はここからは見えない。黒沼は振り向かない。背中越しにしか、この愛弟子に語りかけられなかった。


「お前のやり方、もっと早うに認めてたら、ここまでならんかったかもしれへんな。わいは、お前に嫉妬してたんかもしれん。経験第一なんやから、黙ってこっちについてこい、言うてな」


 ここはいずれ任せるつもりやのに、何が不満やと、あの時の黒沼は怒鳴って、暴れた。

 汗は引いたが、今度は体が冷えてくる。鈍い疲労を押し隠せないまま、机の上に肘を預けて、初老の男は疲れたように、御船にぽつりとつぶやいた。


「アニキのとこのS研な、民事再生するそうや」


 背後からは、答えがない。


「だが申立が認められるか微妙やろうな」


 黒沼はかたわらのバッグをまた探り、中からウィスキーの小さな瓶を取り出した。真弓子に気付かれないよう、ずっと隠して持ち歩いていたものだが、蓋を開けたことは一度もない。


「本社も薄々気付いて、アニキにおまえ、おれに姉ちゃん送り込んで、様子を探らせたりしたんやろうが、本当にまずいのはうちやない。アニキの方や」

「わかってるよ」

「もう報告したんか」

「まあね」


 黒沼は苦笑する。蓋を回して、一口飲んだ。


「お前のことやから、血も涙も身も蓋もなんもない報告内容なんやろうな」

「お陰様で持株の名義変更も滞りなく」


 兄はいつの間にか、相談役を退いていた。本社も負債と評判を最小限に抑えて、大株主も現社長にすげ替えや。借金抱えて倒産前の追い詰められた経営者相手にこんだけの折衝、我が弟子ながらようやるわ。

 御船が静かに言った。


「おっさん、連帯保証人が飛んだら、一括返済求められんぜ」


 銀行の無情さは、誰よりも一番よくわかっているはずの黒沼だった。


「黒沼グループの終焉や」

「そんなの、何年も前からわかっていたことだろうがよ」


 みんな知っていたはずだった。側近たちも、重役も、本社も、取引先も、市場もだった。


「見ないふりしてたのはあんたたちだけなんだ。詩子すら見ようとしない。身内のことはな」

「腐っても元コンサルタントが民事再生、現実直視や?情けのうて、見たないのもわかるがな。年取るのを受け入れられんのと同じや」



 さっき入った電話で、民事再生申請の話を兄から聞いた。相談役を退いたことを聞き、株の譲渡のことを聞きながら、黒沼は瞬時に、すべてをさとった。

 次郎、本社を守るためにやったんやな。すべては社長の指示やったんや。あの財務内容と放蕩で、民事再生になるかは、あやしい。おそらくメインバンクは、許さへん。あそこが飛べば、ワイは期限の利益喪失で、5千万は一括返済を迫られる。

 連鎖倒産や。


 わかっとって、やったんやな。次郎はワイよりも、飯尾社長を選んだか。わかった。ワイは首くくってやる。みーちゃんがほのめかした、本社のバックアップなんぞ、ワイの黒沼一族のはしくれとしてのプライドが許さへん。ワイはもう終わった人間、伊野木のねえちゃんには、ええ夢を見せてもろた。ほんまに感謝しとる。このセミナーはわいの、幕引きや。

 たった一つ、後悔はある。


「詩子の母親に保証人やってもろたの、あかんかった」


 黒沼は、白くなった頭に指を入れて下を向いた。寒々とした声の響きだった。


「あれはおれの失敗や。負債の膨らんどるアニキだけではあかんと言われて、つい姉さんに甘えてもうた。あそこの家の旦那は、絶対に許さんやろな。家庭崩壊や」


 黒沼ははじめて振り向いた。御船と黒沼が顔を合わせるのは三年ぶりで、御船はその衰えに胸を突かれ、黒沼ははるかに大人になり、強靭になった弟子の表情に驚いた。


「詩子を頼めるのはお前だけや」


 黒沼は繰り返す。あの子は黒沼一族の最後の宝石や。絶滅危惧種なんや。黒沼の魂はお前が継ぐんや。

 この初老の男が、姪をどれだけ愛しているか、御船は改めて思い知る。じっと聞くだけで何も答えない御船に、ふと黒沼の口調が変わった。


「お前の用ぐらいわかってるわ。わいの持ち分三%やろ」


 語気の荒々しさに、落ち窪んだ目が生気を取り戻して、髪が逆立つ。黒沼はよろめきながらも立ち上がった。


「本社は本当は、ケチのついた黒沼一族と、完全に手を切りたがってるのやろ」


 パイプ椅子が倒れて、木の床に鈍い音をたててぶつかった。


「残念やがアニキにやったように、延滞をたてに名義変更迫ることもでけへんはずや。お前の女が頑張って返済しとるからな。市場で売り抜けて欲しい言うんなら、かまへん。暴落せんよう慎重にやるがな。ただし条件つきやで」


 倒れたウィスキーの小瓶から、静かに流れ出した茶色の透き通った液体がしたたり、床を濡らしていく。


「詩子や」


 一気に年を取った黒沼の目の中に、御船は底知れぬ淵を見た。


「詩子をちゃんとすることや」


 骨ばった手が、御船の腕をコートの上から掴み、あざがつくほどの力を入れた。


「お前がどんなつもりだったか知らんが、こんだけ引っ張っといて、都合が悪うて、はい、さようなら、はないやろ。あの子の気持ちを弄んで利用して、六年やぞ。六年!あの子がどんな気持ちでおるんか、考えるだけで」


 咳が喉を詰まらせ、黒沼はよろけた。


「おっさん、おっさん」


 御船は黒沼を助け起こし、肩を支えて座らせた。なだめるように背中に手を置いた。


「何を心配してるのか、大丈夫だよ」


 黒沼は、若い力にあふれた肩を見た。低い声は静かで、御船の手は暖かかった。


「詩子のことは、大丈夫だよ」





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