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汀より  作者: 天海 悠
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第三十話 セミナー


 結局、先生の精神的な問題ですから、と高橋が言う。


「僕と一平だけでは、悔しいですが御船さんのようにはいきません」


 むっつりとした顔の黒沼に真弓子が近づくと、彼は腕を組んだままでつぶやいた。


「わが兄ながらここまでやるとはなあ」


 その言い方は思いのほか静かだったので真弓子も微笑した。黒沼の座る大きな椅子のそばに、オフィスチェアをひとつ引き寄せて座る。げっそりと老けた顔を覗きこんだ。わざと言う。


「それほどショック受けてなさそうで、安心したわ」

「ショックだったのは姉ちゃんやないんかい」黒沼は真弓子の青ざめた顔を鋭く見た。「大丈夫なんか。顔色良くないで」


 昨日は一睡もしなかった。真弓子は大きく一つ息をして、うなだれて言った。


「先生、ごめんなさい。私のせいでこんなことになっちゃって」

「やってみい言うたのはわしや」

「みんな、私に優しいのよ。それがつらいわ」


 しかしなあ、と黒沼が開いた机、いつもはひょろりとした青年が座っているはずの椅子の方を指す。


「陽介が完全にいってるわ、あんな気性が隠れとったとは、誰も想像でけへんわ」

「怒りが一番、行動のエネルギーになる感情だって言うけどね」



 黒沼はあれから、怒り狂ってる陽介をなだめるのに苦労していた。


「まあ待ちいや、アプリを取られたからいうて、陽介があっちに行かんのやったら、相手も上手く扱えるかいな。そのくらい向こうにもわかるがな。ここは先延ばしや。のらりくらりと話をかわそうやないか。何のことですかな?覚えありまへんてゆうとこうや。そないな慌てて外車売ったかて、そんな金を受け取れるかいな」


 もちろん、それだけではすまない事態で、黒沼は口も重く語り続ける。


「正直、兄貴からの援助は打ち切られるやろうな。銀行にせっかくまともに返済できるようになったとこやのに、これからは厳しなるで。陽介も、実家からの送金が途絶える時のために、車売るなら、代金は自分の小遣いにしいや。お前はやっぱり、アニキの家の贅沢に基本、慣れとる。ほんまに自分一人で暮らせるんかどうか、よく考えた方がええ」


 陽介は言葉につまって、赤くなり、それから押し黙って何か考えているようだった。今まで周囲が決して触れず、皮肉にも父親が指摘した通りの、彼自身の甘えと現実だった。


「共同経営者やて、ちょっとよく考えてからにしいや。今は、なんとか成りたっとる。落ち着きいや」


 そんなええ値段で売れる物件なんぞ、三男に渡してないやろうと思うんやけどな、というのは黒沼は腹に収めて言わなかった。一平が口を出す。


「でも、奴らは陽介さんが行かないとなったら、何をしてくるかわかりませんよ。要は彼を取り戻したいんでしょ?二の手三の手打って、圧力かけてくるんじゃないんすか?」


 これはさすがの高橋も、一平を叱る余地がない。いかにもありそうな事だった。


「詩子さんはこのことをもう、知っているんでしょうか」高橋が言う。

「僕が伝えました」陽介が答えた。「今、一緒に相談して、僕の財産を洗い出してもらってます。車の売却をやってくれるように。資産価値を調べています」

「詩子さんがいないと、御船さんの事務所は大丈夫なんですかね」


 一平が暢気にも言い出して、陽介の逆鱗にふれた。


「あんな奴がどうなっても、どうでもいいよ!」


 その激しい語気に、一平が縮み上がる。やっぱりバカだった、と高橋が深いため息をついた。

 その頃、詩子はその場にこそいないものの、ちょうど、物件の売却に誰か詳しい人いないかと悩んでいる所だった。秋社長には頼みにくいし、自分は本社にもつなぎがない。その時詩子の脳裏をよぎったのは、あのショートボブのなんとなく底知れない優しい笑みを持つ、真弓子の友達、キリエだった。



「桂木さんに報告しましょう」高橋が言う。すると真弓子が言った。

「ちょっと待って。やれることをまだ洗い出せていないわ。引き伸ばし作戦はいいわ。逆に逆手にとるのはね。出来る限りなんとかしたいよね。自分たちで。いつもいつも本社にフォローしてもらってるんじゃ、修行してる意味もないでしょ」


 高橋がふと横の一平を見ると、真弓子をじっと見つめていた。高橋自身よくわからない感情が突然湧いてきてひどくムカつき、腹をどついた。不意を打たれた一平が腹を押さえて低くうめく。何なの一体、と言っているのに気付きもしないで、真弓子は言った。


「ねえ、結局全部、わたしのせいなんだから、最後までわたしにつきあってよ。啓発セミナーやりゃいいじゃん」

「今さら?」

「これならってとこを、プロデュースすれば。口先三寸なんでしょ?もうそれしか残ってないじゃん」


 皆の目が苦虫を噛み潰している黒沼に向き、真弓子も体を彼に向けた。


「センセイの本、まだ書店にならんでいたの。若い頃の本読んだわよ。ここまでずっと細々と売れながら再販されて生き残ってるっていうことは、人の心を揺さぶるものがあるということじゃない。前に話してくれた、コンサルタントか、カウンセリングかって話、よかったわよ。自分の思ってること、まとめて、死にそうになってる人にメッセージしてみたら?」

「前に叔父さんが言ってたように、傍聴者の眼が怖いんだったら、ユーチューブで発信したらどうでしょうか?」


 顔を手に埋めたまま動かなかった陽介が、顔を上げて口を出した。


「それいいわね。でも誰も聞いてなくてわたしたちだけってのも、つまんないから、飲み仲間や顧客を募って、小さな講堂に集めましょ。そんなでっかくなくていいわ。それで動画撮りましょう。最後のつもりでやったんさいよ」

「馴染みのじいさんたちの前ぐらいでなら、まあやってもいけるかもしれん」


 黒沼が、腕組みをとき、体を動かしてその気になっているような事を行ったので、事務所のメンバーも、少し元気付いてきた。明るい空気が広がる。佐藤は笑みを浮かべて真弓子を見ていた。昔の尖った、険のある暗い笑顔ではなかった。自分も口を開いて参加する。「動画取るなら、たくさんの人が聞いてるように見せかけましょう」


「面白味も入れましょうよ。友達に、ユーチューバーで食ってる奴がいるんで、上手に撮ってくれないか、ちょっと聞いてみます」陽介の目が輝いた。

「なんでそんな友達いるの?」一平が聞く。

「いやネットで、知り合ったんで……」

 宇野が言う。「その動画、ホームページに連結すれば?ニコニコにもアップすれば、おれコメントのサクラもやるよ?」


 その会話を聞きながら真弓子は、わたしは御船に対して恨みはない、と密かに自分の胸へ確認する。数日前から何かを伝えたがっていた彼、池袋のホテル、湯船の中で肌と肌を合わせていた時間の静けさと、決して無理を強いたりせずにずっと真弓子を抱いていた彼の優しさがまだ体を満たしていた。あの夜は扉を開かなかったけれど、彼は正直に、わたしに伝えようとしていた、きっと。

 わたしは見ようとしなかった。未来を。自分で自分に課した枷に縛られて見なかった。後悔はしていない、そうでなければ、今こんな死ぬ前の宴のような企画を持ち出す、こんな力は出なかっただろう。



 最後に灯りを消そうとして黒沼は、もう一度事務所を見渡した。このワイの城を、あのトタン屋根の上を、猫が踏む音はまだ、やんどらん。あの足音が終わるとき、ここがどうなっているのか、わしにもわからん。

 高橋と一平が来る前、本社に何年ぶりかに呼び出された時に、みーちゃんこと桂木部長は、黒沼に伝えていた。


「御船と副社長には、確かに確執があるわ。でもそれも、理由がないことじゃないの」


 銀縁眼鏡の奥のまぶたがまたたいた。


「御船の本心はわからないけど、彼が今、急速に相談役に近づいているのは事実なのよ。彼は今、相談役の会社の事業改革の骨子を作れって言われてそれをやっているらしいの。もしかしたら…引き抜かれるかもしれない。御船がOKするかどうかはわからないわ。黒沼先生も知ってる通り、社長とあれだけ絆が深いから」


 顎の無精髭を撫でながら、黒沼はじっと耳を傾けていた。


「ただ、副社長は御船を失ったときのリスクに備えてもう一度ここを、と思っているの。あなたはよくご存じよね、彼が抜けた時のダメージは」

「次郎は特別やったんや。アニキが狙うのも無理ないわい」

「だけど正直、真弓子ちゃんが、ここまでやるとはこちらも予想外だったわ。御船もそうじゃないかしら。返済再開は本当に大きかった。一度棚上げした先が戻ることがどれほどレアケースか、副社長がもう一度と考えるのも当然のことよ。これであなたを助けてあげられます」


 桂木部長は黒沼の手を取った。お茶目な態度は影を潜め、真剣な眼差しだった。


「あなたのみーちゃんをはじめ、社内にはあなたのお世話になった人が大勢いるのよ。どうかこのまま、頑張ってほしいわ。真弓子ちゃんのためにもね」


 ここに来て、黒沼も上手く行きかけているような気がしていた。もしかしたら本社との関係も改善して、昔のように和気あいあいと、楽しくやっていけるのではないだろうかと、どこかで希望を抱いていた。

 詩子を失った喪失感は大きすぎたが、真弓子がそれを埋めてくれた。

 しかし、桂木部長の話を聞いて、黒沼が思ったこともある。


──次郎が本社を裏切るかいな。あいつは社長の子飼いの側近、秘蔵っ子なんやで。引き抜きとか絶対あらへん話やわ。事業改革の骨子作成はともかく、飯尾社長と次郎の絆は他ならんわしが一番よう知っとる。かわいそうなのは詩子や。ねえさんから、詩子との結婚のことを聞いたが、とても本当とは思われん。


 黒沼の目の(くら)い部分が広がった。


──あの子を結婚を餌にして騙しとる言うんなら、いかにお前やといって、ただではおかんぞ、次郎。



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