第三話 「ここで話して」
店を出ると、ちょうど人がいなかったエレベーターに乗って、「ホテル行くぞ」と男が言った。真弓子は微動だにしなかった。ただじいっと大きな目でこちらを見てきただけだった。コートの襟についたファーに頬まで埋めて、こいつは何て顔してるんだ、御船は心に苦笑する。
「客の明日の出発を見送るのに都合いいから、そこにリザーブしてるんだよ。ロビーで話しゃいいだろう、酒飲む場所もあるんだし」
からかうような御船の目付きやちょっかいになら、負けるものかと見返しても、こんな穏やかな口調の時にはつい目をそらしてしまう。なのにそっと盗み見れば、そのまなざしがずっとこっちを向いていることに気付いて、今はそのつい向けた視線が外せなかった。捕らわれ、引き寄せられる。吸い寄せられる。それでなくてもこの目の前の男には、奇妙な求心力があって、何名かで真面目にビジネスの話をしてるのに、相手が男であっても、ぐっと引寄せられて戻れなくなっている、そんな姿を何度も見てきた。真弓子の指が癖になっているようにポケットを探り、携帯の位置を確かめる。
食事中に化粧室に立った時にふと、キリエのメール着信の通知に紛れて、届いていた別のメッセージがあることに気がついていた。
──資料を送りました。何でも聞いて下さい。助けになりたいです。 詩子。
ここに来る前に部長と会話を交わしていた。
「九時には返事できるようにしたいなと思っています」
「十二時までいいのよ、遅くなっちゃってもあたしは平気」
「いやでも部長寝ちゃうかもしれないし。あいつ8時ごろ仕事終わると思うんですよね。私も早く帰りたいから」
「へえ……そーお?」
一、二歩歩いて、「ここで話して」出し抜けに真弓子は言った。彼の肩越しに見える、西口とモアーズの間を抜く狭い小道の奥は薄暗く、奥は河川沿いの塀が視界を遮る。行き止まりのように見えた。ぼんやり、店のネオンが揺れている。
御船は話すとき、いつも冗談まじりに片頬を軽くあげている。その皮肉な笑いが、真弓子の両頬に引き結んだ赤いくちびるに跳ね返されて、飲みながらゆっくり話そうと思っていたのに何だよ、との呟きが聞こえた。
「わたしの脳がクリアなうちに聞きたいの」
御船はちらりと時計を覗いた。
今日明日、雪が降るといわれている横浜の夜は寒かった。御船はマフラーをしていない。真弓子に寒くないの?と聞かれて、寒いよと答えた。彼女の姿はもう、今は御船のそばにない。ここで話してとせがまれて、彼が短く、ボソボソ伝えた一通りの話を聞くなり、そう、わかった、連絡するわと短く答え、身をひるがえして足早に去っていった。白く細いヒールの足がちらりと見え、すぐに地下街から上がってくる人波に紛れて消えた。
こんな所で立ち話するつもりなんてなかったのに。
落ち着けよと制する声も届かない。いつもこちらのからかいに、きりきりと歯を向く真弓子が、今日は妙に静かで口数も少なかった。何だよ気持ち悪い、大人しいから調子狂うな、なんて軽口も差し控え、野生の獣を伺うように、じっと様子を見守った。男と女が二人きりで食事に酒ときたらなんて、思いも及ばない気性を御船はわかっていた。よく知っていた。
ホテルに戻るはずが、御船は自分も途切れない人波に揉まれて、横浜駅の階段に吸い込まれて行った。いつも永遠に工事中のままの横浜駅のカバーシートを踏み、人また人を分けながら、地下の東横線へと向かう。彼が小さいながらも自宅兼事務所にしているのは武蔵小杉の雑居ビルで、駅からはおよそ十分、それほどの距離ではない。一階の店舗には既にシャッターが下りている。電灯の下から見上げると、五階にある彼のオフィスにはまだ灯りがついていた。遅くなる前に上がれって言ったのに、きっと中では詩子がひとり、キーボードを鳴らしているのだろう。コンビニで軽く酒を買って行くかと、踵を返したら、先生、とビルの玄関から滑らかな声が届いた。
「お帰りなさい」
詩子は笑う。肩を過ぎて胸の膨らみまでを隠す長い黒髪を、蝶のバレッタで軽く束ねて、女はゆるく顔を傾げていた。長い睫毛が震え、御船は詩子が彼の帰りを今か今かと待っていたことを知った。いつもの静かな、優しい笑顔、なのに普段よりわずかに早い胸の上下が、内面の不安を物語っている。
「伊野木さん、どうでした?何て言ってましたか。困っていませんでしたか?」
能天気なあいつも、さすがに事態の深刻さは理解していたようだ、とか何とか、返事は御船も用意していたはずだった。なのに黙っていた。脳裏にさっきの真弓子の人一倍大きな目が、はっきりと引いたアイラインに縁取られてまだ踊っていた。いつも真っ直ぐ、こちらにまともに向かってくる。留めたアップの髪は、揺れる詩子のそれとあまりにも違っているから、かえって思い起こす種となる。今日の真弓子のイメージは、特別に鮮やかで御船の視界をなかなか去らず、何とはなしに口をきくのが億劫だった。
詩子は流石に長い付き合いとあって、そんな空気を敏感に察知してもおくびにも出さず、先に上がらせて頂きます、おやすみなさい、と短く切り上げた。
「もう遅いから車で送ろう」と御船は答え、二人は連れ立って事務所に入った。扉は音も立てずに二人の後ろで閉まる。後には電灯の光だけが落ちていた。
ローヒールが、雑踏が絶えることのない横浜駅の床の下に音を立てて響いている。真弓子は部長が家でメールの返事を待っているのを思い出した。彼女とは気の合う同士と思っているが、――遅くなってもかまわないのよ、なんて台詞!
恋人でもない、同僚でもない、直接に関係のある取引先でもないのに、人待ち顔で呼び出され、社内の人事異動の事情を訳知り顔で語られて、それよりもう真弓子は、目に見えない、二人の間に漂っている空気が耐え難かった。引き剥がすように無理に別れたのに、まだ真弓子を捉えて離さないのは、別れ際の御船の視線だ。横浜駅にあふれる人に肩をぶつけかねない早さで歩き、柱の影に逃げ込んで、携帯を取り出した。慌ただしく電話帳をネイルの指がさぐる。はい、と落ち着いた女の声が聞こえるか聞こえないか、真弓子は性急に被せた。
「キリエ、今、終わったの。ねえ会える?」
お願い。話、聞いてほしい。
携帯を耳に当てながら、“七時半には”あの時刻が、真弓子の胸に、網膜に焼き付いて残っている。それは御船が真弓子に、はじめて送ってきたメールだった。
電話はたまにある。それは勉強会の呼び出しばかりだ。
真弓子は横浜駅の雑踏を見渡した。さっき御船の言ったことが本当なら、彼女はもうすぐ、職を失うことになるのかもしれなかった。