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汀より  作者: 天海 悠
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第二十九話 扇の的


「おい、開けろよ」

「誰よ」

「おれだよ」


 扉は微動だにしない。何かが動いた気配すらしなかった。


「なあ、やっちゃってごまかそうなんて思って来たわけじゃないからさ」


 遅くまで聡一郎の折れた心を慰めるのに付き合い、水道橋に駆け付けたのは随分遅くなっていた。真弓子のマンションの扉の前で、御船はバーバリーのトレンチコートを着たまま、ずっと立っていた。扉の向こうからかすかに聞こえる真弓子の声は、低くて穏やかで、怒りを抑えている風ではない。それほどまでにも許せないという、冷たい蔑みを含んでいるわけでもない。甘い優しい、穏和な響き、奇妙な静けさに包まれて、今日、池袋のホテルのベッドで、確かにこの腕に抱いていたはずの声と肌と、髪の匂いがよみがえる。


 陽介が揶揄した腕のロレックスが目について、御船ははずしてポケットに入れた。

 汚れた安アパートの扉に額を押し付けて、御船はドアについているポストの傷の無数のさびを見た。赤茶けた色だった。うらぶれて見えるのかもしれないが、俺だってずっとこんな風景、こんな空気で育ってきた。だから、ここは俺の場所、俺の本当の場所、と思う。

 ドアは開かない。裏切っていたのねとか、いかにもあんたのやりそうな事、とか、そこまでやるかと思った、とか、何でもいいからもう一度、あの生きのいい声が聞きたい、その顔が見たいと思うのに相手はこうだ。


「詩子ちゃんの所に、帰んなさい」

「関係ない。今は俺とお前の話をしてるんだろ」


 苛立ちが顔にまで出た。それから哀願めいた台詞を吐いてみた。


「せめて顔出してひっぱたくぐらいしてくれないのか」


 家の中で動く気配はまるでない。灯りもついていなかった。真弓子のささやくような声は、すぐそこで聞こえるから、扉の向こうにいるのは間違いないはずだった。


──顔も見たくないってか。


 下を向いて靴の爪先をコンクリートの床にあてた。秋の夜は肌寒い。扉にあてた御船の耳に、聞こえるか聞こえないか、細い女の息づかいが微かに届いた。


「今開けたら、部屋に入れちゃいそうだから、だめ」


 扉の向こうで膝を抱えて座ったままで真弓子は思う。朝になって、それでももし彼がそこにいたら、まだいたら、その時はこちらから抱きしめて髪を撫でてしまいそう。もしそうだったら、わたしはそうする。どうなってもかまわない。

 夜が白々と開ける頃に小さな音を立てて鍵が回り、開いた扉の向こう側に、誰の姿ももう、無かった。



 開かない扉に拒絶され、御船は路地から路地へ、当てどなくただ歩いていた。店に入る気にもならない。受け入れてくれる扉を叩く気にもならない。どこをどう歩いたか、巡り巡って同じ所を歩いていたのか、結局水道橋の上に出た。欄干にもたれて水底をじっと見つめる。神田川の水面は、たとえ陽が出ていてもよどんで昏い。御船の思いも、水面の光を追うにつれて千々に乱れ水面を走り、あちこちをさまよった。


 二十代後半のおれは、ただただ仕事が楽しくて、野心があって、若くて、世界は自分の手の中にあるような気がしてた。手放したくない、そばにいてほしいと言ってくれた上司、今の社長をふりきって修行のつもりで黒沼へ。楽しかったし、充実してた。詩子のような女に惚れられてることに、優越感を持っていなかったと言えば嘘になる。

 数年経って、このままじゃ、先の展望が見えないって、新しい俺のやり方でやらせてくれって、おっさんとケンカした。

 あんたのやり方は、もう古いんだよ!とタンカを切って視線を上げたら、ぴったり合った詩子の目は、炎のように燃えていた。どこにでも一緒に行きたい、そう言っていた。


 詩子にふさわしい男になりたいと思ったこともあって、でも、何か。

 いつも何かが、二の足を踏む。

 労働者であふれる飲み屋街に生まれた俺は、酔客と父、兄と母の喧嘩と喧騒三昧の中で育った。母親は、父親には三歩下がって生きていたけれど、この街や薄暗さに抑圧されてくさってた。いつも自由になりたがってた。詩子といるとどうしてか、たまに母親を思い出して息苦しい。


 三十を過ぎて、そろそろ中年にさしかかり、まだ若いって言われる年だけど、だんだん、自分の限界が見えてくる。

 もうひと踏ん張りしたいのに、何かが足りない。気合いじゃない、やり甲斐でもない。まだいけるはずなのに、おれの力はまだこんなものじゃないのに。

 振り替えると、友人たちはいつのまにか結婚して子供が出来て、家庭を抱えて若い親父になりはじめていた。してないのは、いけていすぎるか、なさすぎるかのどっちかで、前者だと思いたいが、いけていすぎると自分で思っているやつらの自己陶酔が鼻について、一緒にされたくないと思う。おれはおれだと言い聞かせる。


 親父になった連中は、外見的にはおれよりずっと大人になっているようだった。特に、バツイチはかえって箔がついたような事を言う四人に一人の奴らの向こう側で、一人の女を見つめて親父の顔して生活を守ってるのが、黙っているだけ、重みが増してる。そう見えるのは、俺の自由さ、奔放さが売りだからって、それはかえって足かせなんだ。

 そんな結婚生活、単純なものじゃないんだよって小面憎い余裕だね。たかが紙切れ一枚。古びた価値観、結婚出産含めた人生は、女の特権ってわけじゃない。愛も恋も結婚も子供を持つことも、女とは違うアプローチで、考えることだってある。

 詩子ほどの女の視線を背にして、俺のこの胸のうちにあるのは、まだ、どうしても巡り会えていないという予感だけ。


 すぐにでもやれそうな、欲求不満なキャリアウーマンとホテルに行くのも、がっついた女の性を目の前にして気が重い。体で女を求めながら、おれは恋愛には徹底的に向いてないと思う。でも切望している。一人で立ちたいと願いながら詩子に寄り掛かり、秋社長を利用してまだ足りない。からだ半分が空っぽだ。

 崖に立っていることはわかっている。下を見ないで、前を向く。横の女の切なる視線に耐えて、耐えて。ずっと手を握ってここまで来たこの女と、一緒に淵に飛び込むその一歩が出ない。

 どうしても、出ない。


 人が集まりゃすぐ徒党を組んで、派閥だなんだって、カネと欲と疑心暗鬼な政治の世界が渦巻きやがる。どんなちっちゃな会社でもそうだ。アホじゃねえのか。

 この急流を力にまかせて泳ぎ渡るのが楽しくもあるが、何も知らない詩子の笑顔にほっとしたりもするんだが、どうしようもなく疲れた時に、ふとおっさんの顔が浮かぶ。人間ならば、いつかは必ず訪れる衰えを、誰一人避けては通れない結末を見る。


 人生だかビジネスだかの荒波の中で、徐々に上がらなくなってくる腕を、これが経験のテクニックとごまかして、こっちの力をみて媚を売ってくる連中で周囲を固め、船頭は老いを隠して扇を振り振り、また櫂を漕ぐ。党だの派閥だのといった名前を付けて。そんなやり方を拒否したやつが、力を失ったときに待つ末路は、おっさんの中にある。

 準備をしないと、おれはああはなりたくないと、用心深く目を配る。一瞬たりとも気が緩められなくて、あこぎに、汚く、無慈悲にやって、人の痛みになんか無感覚でいられるようにしてたら、結末はあの相談役みたいな方向だ。

 怒濤の奔流に煽られて、ぐらぐら揺れる小さなおれという船は耐え続けている。そばにいる美しい女が指し示す金色の扇、その真ん中に照り映える、血の赤に染まった日輪だけを眺めてる。あの扇を射落とすのは誰だ。あの舟を、覆すのは、波の中で粉々に砕くのは誰だ。


 目を開くと、見知らぬ部屋にいた。二日酔いの頭が痛む。昨日どうしたっけか、一瞬思い出せなかった。そうだ、おっさんの所を飛び出してから、やっと新しい事務所をかまえ、黒字決算出したからって昔馴染みの悪友に誘われて打ち上げだ。

 けだるい体を起こして見回せば、ビール缶を積み上げた狭いワンルームだった。トイレから出て、パンツを探してると、まだシーツの中にいた女が、目を開いた。


 二日酔いの隈取りに、落ちかけたマスカラ、昨夜の隙一つないようだったひっつめのアップヘアの時には分からなかった猫っ毛のロングは柔らかく胸まで隠している。細いあらわな肩だった。この狭い部屋、狭いベッドの片側にからだを寄せて、白い女の手足がある。あの空間は、さっきまでおれがいた場所だ。

 ちょっと目尻のあがった大きな瞳がねこの眼のように光る。小さな頭を、驚いたように上げたら、いきなり、みるみる真っ赤になった。


 ぶっちゃけ話、独立を心に決めたあの時、詩子にキスしたのには、これが最後かもねってつもりだったかもしれないんだ。記念のつもりでもらった唇、付いて来られて、わかりそうなものなのにバカなおれ、これは年貢の納め時なのかどうなのか、考えても考えても答えは出ない。ちょっと参ってたのかもしれないな、酔いが回るのが早い。居酒屋のカウンターバーで偶然、後ろのテーブルに学生を引き連れたスーツの女が座った。どうやら合格祝いらしい。たまに食指の動く、欲求不満の生意気なOL、に見えた。

 おれ本当は、こういうのけっこうタイプなんだよね。気が強くて意地っ張り、バーカって言うとすぐ、何よ!と帰ってくる。乗せるのはたやすい。

 こんな気分の時に、俺のこの持って行きようのない思いの捌け口になるんなら、せめて優しく気持ち良く声を出してもらいたい。酔いにまかせた身体の下で女が身をよじり、バレッタが床に落ちて音を立てたのを覚えてる。


 それが今、女はびっくりした顔で化粧も落ちて、ふと目醒めた、何やってんだわたしとでも言いたげ、困惑して頬が赤い。肩から落ちた髪から白い膨らみと突起が覗いて、動くにつれてまた揺れる。小さな顎がちらりと動いて、黒目がちな物言うひとみがこっちを窺う。信じられないだろうが、予想外の可愛さだったんだ。ぱりっとスーツを着こなして、ヒールで腰に手をあて睨みつけてくる声の鋭さ、わめいてる格好からは想像もつかない。がっちり守ってて男になかなか許さない姿を、おれのうっかりや下心と同じに、あいつもうっかりしちまったんだ。

 ほんの出来心、好き心から絡み合う、ぴったりとあう、くちびると一番柔らかい場所が開いていく。

 失われた何かが、奔流のように戻ってきたようだった。目の眩むような懐かしさに脚がしびれた。一瞬、一夜、これ以上ないくらい、おれの奥深く隠していた場所にこの女は触れてきた。やったら後はどれくらい上手に逃げ出すかってばかり気にする男が、あの夜はたまに思い返して寝返りを打つほどに。


 悪友から昨日のあの女どうだったとメッセージが来ても無視して、女の部屋に居座った。

 白い両脚をこれでもかと広げて俺の腰の上に乗せたら、喉から絞り出す細い声、半日ぐらい二人とも服を着ていない。唾液が混じり合う、腕が絡まる、ここはどこか誰も知らない人知れぬ世界の狭間で、空間も時間も何もない。おれを覆って包んでいたスーツもネクタイも下着もない。虚栄も意地も理性もない。

 さすがにあそこが擦れて痺れてきたわと女は笑う。


──大丈夫?少し休むか?

──いいの。


 女が言ったのはただそれだけ。首に巻き付けた手に微かに力が入って目眩がする。


──いいの。


 女の部屋では、授業に使うんだろうなって資料がたくさんあって、かがむと写真つきのネームタグがあった。何て読むのかな、まゆみじゃねえし、まゆこ?イノキか、らしいわ。あってる。こっちに突っかかってきた勢いを思い、ひとり笑う。

 家も名前も、もう分かってるからと、帰り際にポストにぽいと名刺を放り込んだ。あの女、最後まで名前を聞きやがらねえ。イージューライダーをつい口ずさむ。嘘のような青い空、いつもスモッグで霞んでいる東京が、さっぱりと晴れている。あのビルを階段にして、天まで昇っていけそうだ。


 そうかあのビルだ。あれは、ここで見た景色だ。あの時は太陽が出てて、今は月が出ているだけだ。御船は体を起こして、水面からくすんだ夜空、光の灯る東京のビル街へ、順に視線を移していった。

 詩子のような女を側に置いてて、どう見られるかぐらい、自分でもわかっている。秋社長のような長い付き合いならともかく、詩子をどうすればいいのか、実はさっぱりわからない。あまりにも生活を、詩子に預けっぱなしにしていて、彼女がこんなにもライフスタイルの一部になっていた。彼女はこちらにぴったり寄り添って、もう古女房もいいとこだ。


 それが逆に居心地悪いのだとしても、我が儘なことぐらいわかるし、仕事にも差し障る。確かに、正直、離れるなんてできっこなくて、やっぱり無理なのかもしれない。

 あいつはまるで忘れたような顔して、まだ一度も俺には笑顔を見せないんだ。

 心からもう一度、何度でも寝たいのに、そうさせてくれないから、俺だって意地になって、そんなつもりはねえよとポーズを取るしかなくなっている。

 こうしてお前の周囲をうろうろ、隙を伺う。女たちに振り回されても、結局今夜、今の気分がそう悪くないかもしれないのは、最後にあいつの可愛い声を聞けたからだと、水道橋の上から川に映った月を見下ろした。



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