第二十八話 目覚め
マンションのオートロックを開けて、詩子の部屋に招き入れられた陽介は、開口一番、こう言った。
「詩子さん、クラウド型アプリを、僕ごとあっちに引き抜く計画を立てて、オヤジにやらせたのはあいつだよ」
何のことか、詩子には全くわからなかった。陽介に会うことすら、ずいぶん久しぶりだった。詩子には、クラウド型アプリというものが何なのかさえ、よくわからなかった。ただ、慌ただしい陽介の説明で、それが川崎の叔父の所で開発、売ろうとした商品であること、伯父と叔父、兄と弟の間で訴訟にまで発展しているという事態の大筋だけはわかった。それでも詩子は理解できなかった。御船のために抗弁する。
「それを先生が?そんなはずないわ。先生は、いつだって叔父さまのことは気にかけていたのよ。それだけは確かよ、絶対にそんなことしない」
ちょうどその日に詩子がいたのは、自分のマンションの中だった。二十五階の三LDK、詩子の母にはちょっと狭いのによくあなたはあんなところに住めるわね、と言われていた。
「僕は、親父の所に行く前に、実家に寄って確かめたんだ。顧問弁護士の菊地が言ってた。御船さんがヒントをくれたので、こうして陽介さんが戻ってきてくれて、お父様も喜ばれますって。あいつは、僕とアプリを親父に売ったんだ」
窓からは富士山がおぼろに、霞ががってそびえているのが遠くに見える。
「嘘よ、先生はそんなことしない」
詩子はただ、同じ台詞を繰り返すだけしかできなかった。陽介はすでに聞こうとすらしていない。
「真弓子さんをだまして作らせてから、完成したものだけ頂こうとしてたんだ。紙切れでおどかせば、それが可能だと思ってる。おどかすのは親父だから、あいつの腹は痛まない」
憎々しげに顔をゆがめる。
「叔父さんにどこまでひどいことすれば、あいつは気がすむんだろう」
陽介は顔を上げて、鋭く詩子の顔を見た。眼鏡の奥で、純粋でどこか夢見るようだった目が今は怒りに満ち、生き生きとした生命にあふれていた。
「詩子さん、あいつと結婚するって聞いたけど、それ、本当に御船が言ってるの?詩子さんがいなくなったことで、どれだけ叔父さんがショックだったかわかってるよね?」
詩子は肩を震わせた。
「独立していなくなるのが御船だけだったら、叔父さんだって次郎が決めたことやからって言ってたじゃないか。叔父さんのショックは、顧客をほとんど持って行かれたからじゃない。立ち直れなかったのは、持って行かれたのが詩子さんだからだよ」
それは、わかっていることだった。詩子のつとめて考えないようにしていたことだった。
「それなのに、まだ足りないんだよ。今度は僕のことであんなにひどいことして、顧客も、詩子さんも、アプリも僕も、真弓子さんも、全部持っていって、あいつは叔父さんをどこまで潰したら気がすむの?」
「伊野木さんを、もっていく?」
詩子が繰り返した。なぜそこだけを拾い上げたのか、陽介は余計に苛立った。
「詩子さんと結婚したって、あいつは真弓子さんを絶対に逃がさないよ。逃げたって逃げられない。自分の欲のためなら、どんな汚い手だって使う。このやり方見てたらわかるだろ?詩子さんのは自業自得でも、真弓子さんは違う。それで自分の気がすんだら、きっともう必要がなくなったゴミなんだ」
「先生はそんな人じゃないわ。陽ちゃんは誤解してる」
「あいつは今、本社から、あっちに乗り換えようとしてるんだ。副社長が薄々気が付いて、それで、もともとあったような形にするために、叔父さんをもう一度修業の場にって、本部からも若手がまた来てたんだよ。それでこの仕打ちだよ。オヤジに、おみやげが必要だったんだろ」
陽介は、詩子の肩をつかんでゆすぶった。
「闇討ち夜駆け朝駆けなんだよ。ねえ詩子さん、なんで目が覚めないの?それでもあいつと結婚したいの?」
全てが、とても本当のこととは思われなくて、ただ詩子の胸を刺したのは陽介のほとんど何気ない意味のない一言だけだった。
──それ、本当に御船が言ってるの?
内側から叫ぶ声が次々に詩子を襲う。あの人が今まで、自分の口からわたしに一度でも、結婚しようって言ってくれた?今まで、愛してるそぶりを、少しでも見せてくれた?
詩子は、贅沢な調度品に囲まれた部屋を見渡した。大理石仕立てのキッチン、カッシーナのデスク、B&Bのソファ、この部屋に一度でも、先生が足を踏み入れたことがあった?いつも、送ってくれても車から降りもしないで、微笑むだけ。
──先生と伊野木さんのことを考えるのは怖い。そのことだけは、どうしてもその意味を深く考えられない。けど一つだけ確かなのは、先生は、わたしを愛していないわ。
ただ、優しいだけだった。
「陽ちゃん、それでどうするつもりなの?」
打撃に耐えられない詩子が言えたのはそれだけで、陽介ははっきりと答えた。
「訴訟費用を捻出するよ。お金。実家と信託銀行に行って、僕名義の財産がどれほどなのかまず調べる」
「物件を売却するって、そんなに陽ちゃんが考えてるほど簡単じゃないのよ。個人で売買契約なんてまず結べないわ。いきなり不動産屋に行ったって、足元を見られて買いたたかれるだけなのよ」
御船と行った数々の物件と郵送の事務処理を請け負った契約書を思い出す。書い手が偶然にもすぐに見つかればいいが、不動産屋がまず買うならば、かなりの低価格を提示してくるだろう。
「高橋さんに連絡して、信頼できる不動産業者を紹介してもらうよ。それよりまず権利書を探さなきゃ話にならない。ポルシェやアウディの鍵もほったらかしだ。そっちならすぐに売れる。あと、叔父さんに言って、僕を経営の共同名義にしてくれないか聞いてくる」
陽介は立ち上がった。
「叔父さんと真弓子さんに電話する」
詩子は別人を見るような眼で陽介を見た。彼に会うのは本当に久しぶりだった。わたしが覚えている気が弱くて、いつも下を向いて背中を丸め、おとおどしてた従弟とはまるで違うわ、と詩子は思う。そして思い当たる。
──伊野木さんね。彼女が、あなたを育てたのね。
詩子は陽介を見て、きっぱりと決心したように言う。
「そこまで陽ちゃんが考えてるなんて思わなかった。わかったわ。私も叔父様のためになることを考えます」
詩子は思う。彼を育てたのが真弓子ならば、詩子を育ててくれたのは御船だった。彼女には彼しかいなかった。夢破れてもなお、詩子は空へ手を伸ばすことをやめられない。
母は今、川崎の叔父のところにコネ入社だったのが、小さな事務所に自分から勤めて、お小遣いに二十八万も稼いでくれば上等だと思っている。自立した娘だと自慢に思っている。しかしもし、収入がその給与だけだったなら、この部屋の調度品はすべて自分一人で買えただろうか?
川崎にいた時から、彼のために必死になって勉強した。彼についていきたくて、彼の役に立ちたくて。高校の参考書を自分で書店に買いに行き、じっくり勉強しなおした。そのうちに、御船の会話に少しだけついていけるようになる。きちんと書類を用意して、不備がないか確認して、彼が、あれはどうしただろう、って思った時に横からはい、どうぞ、と渡す喜びといったらない。
ふと気が付いた。陽介のやりたいことの意味が、手に取るように詩子にわかった。共同経営者になれば、陽介の財産はすべて川崎の事務所の後ろ楯になる。完済の上に、新たな融資だって可能かもしれない。陽ちゃんはそこまでしようとしているのね。
詩子はまた、空を見上げる。たった一度のキス、あのキスが、詩子に世界を開いた鍵だった。今その世界が、扉の向こうで詩子に向かい、何かを語り掛けている。御船の姿が目に浮かび、彼がいつも若手に繰り返し送っているメッセージを思い出す。目を開け、学べ、足を据えろと呼びかけている。
詩子の夢見る目が、ふいにガラスのように硬質な輝きに変わった。いいえ違う。違うわよ。あれほど本社を愛している先生が、いくら大塚さんと対立したって、本社を見捨てるはずがない。
わたしと 結婚 する はずが ない。
高橋の声が詩子の中でこだまする。
──すべて捨ててなお、御船さんがあなたを振り向かなかった時に、あなたは一人で生きていけますか?
生まれてきたわけも、生きる意味もよくわからず、ふわふわただ浮いていた詩子を、御船はこの地面につなぎとめた。この人とずっといたい。彼の腕に抱かれたい。あのキスをもう一度と、いつか、認めてもらえるようにと、詩子はここまで走ってきた。今こそ私は、自分ひとりで考えよう。従弟がしているように、今、少しだけでも彼を離れて、自分の頭で考えよう。詩子は手を握り締めて、また開いた。私に何が出来るのか、何をしなければならないのかを考えよう、と。




