第二十七話 ホテルとゴルフ
真弓子は池袋西口を出てすぐの、公園樹のブロック材の縁に座っていた。休日は賑わう西口公園も、今日はフェスやフリマといったイベントも無いようで静かだった。真弓子の体からはすべての気力が抜けている。足音がして、真弓子がぼんやり見上げると、黒いトレンチコートに身を包んだ御船だった。長身を折り曲げて、真弓子の横に座る。
「内容証明が届いたの。センセイのお兄さんの会社から」
「ライセンス違反?」
「そうよ。今すぐ、アプリに関するすべての権利と利益をこちらに渡すように、ですって。損害賠償も辞さない構えなんだそうよ」
御船からのメールが来たのは木曜日で、内容証明は金曜日に届いた。
真弓子は、死神の手が静かに肩に置かれたのを感じていた。棺に釘を打つ音も、はっきりと聞こえた。黒沼のかける電話の声を、事務員たちは黙って聞いていた。事務所を静けさが支配していた。
──ライセンス違反て何や。アニキちょっと頭おかしいんちゃうか。こっちは何の違反もしてへんのやで。
そして、しばらく黙っていたが、ひどく硬い表情で呼んだ。
──陽介。アニキが話したいことがあるそうや。
陽介は黙って受話器を取った。ずっと、ひとこともしゃべらない。ずいぶん長い時間だった。皆が息を詰めて見守っている中、陽介は最後まで一言も発しないまま、受話器を唐突に激しく置いた。話の途中で切ったらしかった。
──訴訟になるんですかね。
一平がつぶやいた。高橋は黙っている。真弓子がふと気づくと、となりに佐藤がいた。そっと背中に手を置いてくる。
──伊野木さん、きっと大丈夫。だって弟なんですよ。気にしないことです。今は高橋さんと一平さんがいるじゃないですか。アプリがなくたってきっとやっていけますよ。
──先生が、訴訟を受けて立たなきゃの話だけど。
そう言ったのは宇野だった。
──時間も、お金も、たくさんかかるわ。先生は体力を吸い取られる。
陽介が唐突に、扉を開けて出て行った。黒沼は難しい顔をして腕を組んだまま、埋め込み式の棚の前の机に座っていた。あのアプリは、皆の心を一つにしていた。いわば再建の象徴だった。しかも、兄から弟に──。頭を殴られたような衝撃が、重苦しく事務所を支配していた。
「おい、しっかりしろ」
御船の声で、思わず真弓子は、自分が眠っていたのかと思う。御船の肩とこちらを向いた顔が近かった。
「だから言わんこっちゃない、バーカっていわれると思ってたの」
小さくつぶやく。あきれたように叱ってくれると思ってたのに、静かにこうしてただ隣にいられる方が、今の真弓子にはひどく堪えた。
「おれも見たけど会計ソフトなんてどれも似たようなもんで、逆に難癖つけようと思えばいくらでもつけれる。たとえ訴訟になったとしても、訴えが通るかは五分五分、そう気に病むな」
「訴訟だなんて、そんな体力あの事務所に残ってるわけない。下手な気休めを言わないで」
「バカ、今は高橋と一平がいるんだろう。そう簡単に倒れはしない」
真弓子が膝に置いた手の上に、御船の手があった。その温かみが肌を通して染み込んでくる。本当に参っているから、振り払う力もない。ぼんやりとつぶやいた。
「そうね、そうかも。でもそうでないかもしれないわ」
「何事も経験だろうが、無駄なことなんてないんだ、お前がそう言ってただろ」
広くて明るい池袋西口の公園は、人が多く、ざわめきが満ちていた。死のような沈黙が落ちているのは、真弓子の周囲だけだった。
「相談役に一言なかったおっさんにも、問題あるだろ。昔なら絶対言ってた」
「言ったって、言ってたのよ。大丈夫そうやって。なのに、そうね。わたしもたかをくくってたわ」真弓子は急に御船の手の下から指を抜いて、頬にあてた。秋の十月の空は晴れていてまだ暖かいのに、その頬はひどく白い。「だって弟と、息子なんでしょ。身内を訴えるって、どういうこと?弟の事務所、つぶしたいの?」
ニットワンピースから伸びた脚が、敷石を踏んで、真弓子は下を向いていた。
「よくある話だよ。利害がからむと、骨肉の方が泥沼」
「利害なんて。ほっとけばいいじゃない、あんなアプリの一つや二つ。何が侵害よ」
そして、つぶやく。
「これも無理無茶無謀、だったのかな」
おい、と肩に手を伸ばそうとした仕草は予期されていたかのように、もう真弓子はいない。立って、二、三歩歩いて語気強く言った。
「大丈夫よ、私は強いから」
「お前は強くないよ」
真弓子がはっと振り向いた。御船は真面目な顔で彼女を見ていた。
「お前が強いなんて思ったこともない。ただ、気にしないだけだろ」
それからゆっくりと、噛んで含めるようにもう一度言う。
「お前は、気にしないようにしているだけだ。無理に」
御船は真弓子のショートブーツがこちらに向かってくるのを見た。ためらいながら真弓子は腰をかがめて、自分から御船の手の上にほっそりした指を置いた。
「そんなこと言ってくれたの、あんただけかもしれないわ」
今なら、彼女を引き寄せて抱きしめ、キスをしてもよかったのかもしれなかった。だが、御船は口を開いた。「あのな、お前に言わなきゃいけないことが」
急に真弓子が背中を向けて体を折った。真っ青でしゃがんで下腹を抑えている。御船は慌てて真弓子の背中に手をあてた。さっきまで座っていたブロック材の上に座らせようとするが、崩れ落ちてしまう。
「いいの。ほっといて。これから仕事あるんでしょ」
「バカ言え、こんな状態で置いていけるかよ」
御船はほとんどぐったりした真弓子を支えて、周囲をぐるっと見渡す。斜め向こうの路地の奥に少し入った場所、黒色の壁に、休憩・宿泊の文字を見た。
フロントのパネルでは確かに黒基調の部屋を選んだはずなのに、扉を開けると金とピンクの彩飾のある部屋だった。思わぬ展開に、下心が動かなかったと言ったら嘘になるが、心配の方が先に立った。料金は前払制のホテルで、念のために休憩ではなく、宿泊を選んでおいた。
だが真弓子は相変わらずリップの上からわかるほど唇まで真っ白で、ガタガタ震えている。その唇がずっと動いていて御船が耳を近づけると、青木…青木、と聞こえた。
「前の男?」
御船が聞くと、蒼白な顔で真弓子は、ばかね、とうっすら微笑んだ。
「女の子よ。生徒」
クイーンサイズの広いベッドに真弓子を横たえ、浴槽に湯を張りに行った。戻ってくると、真弓子は膝を抱えて、胎児の格好になっていた。焦点の合わない目を開いて、御船にささやく。
「死んだの」
「事故か?」
「自殺よ」
ゆったりと広い、ラブホテルの広いシーツの上で、御船は横になって真弓子を後ろから抱きしめ、背中に手を差し入れてブラのホックを外し、柔らかな乳房を服の上から愛撫した。少しでも気分がよくなって欲しかったからだが、本当はどうしていいかわからない。ずっと押さえている下腹にあてた真弓子の手を上から包むようにして撫でて、髪をほどき鼻を埋めて耳の後ろに何度もキスした。
「お風呂、入れてくれたでしょ。入りたい」
真弓子がもがくので、ボタンをはずしてシャツを開くと、白い肌に青い血管が浮いている。真弓子は震えながらバッグから薬を出そうとする。アスピリンが手からこぼれ落ちてホテルの床に転がった。細い腕の下に手をまわして、ほとんど抱きかかえるように浴室に向かう。自分で湯を張ったはいいが、血圧が上がってしまいはしないか、不安で仕方がなかった。手早く自分の服を脱ぎ時計を外して、真弓子のワンピースと下着を脱がせると、真っ白な裸体が現れる。裸の胸に、裸の真弓子を抱きしめて、御船はあたたかな浴槽にじっと黙って沈んでいた。
下腹部は破裂しそうだが、気が気でないからそれどころではない。真弓子は御船の背中に細い腕を回し、胸に肌をこすりつけて呻く。
「気分が悪い。助けて。助けて」
「名前呼んで。おれの」
真弓子の唇が動いて御船の下の名前を象った。
御船がじっと耐えて、真弓子をただ腕の中に包んでいると、少しだけ落ち着いてきた。女の手が、勃起をそっと確かめるように触れてきて、それから力なく落ちた。
ありがとう、と言い残して、真弓子は眠った。
彼女をシーツで包み、ベッドに横たえると、ずっといつ救急車を呼ぶかと構えていた緊張がやっと解ける。御船は手や額にじっとり、風呂に入ったからだけでない汗をかいていた。
はっと気付いて体を起こし、やべえ、時間が、と小さくつぶやく。今日こそはと思ったのに、真弓子に説明もできなかった。
シーツを巻いたまま眠っている真弓子を優しくゆすって起こして、宿泊の料金は前払いしてあることと、仕事のことを伝えると、まだ青い顔のまま無理に微笑んで言った。
「ごめんね。やらせてあげられなくて」
「バカ、そんなことどうでもいいよ。必ず連絡しろよ」
心残りで、説明したいこともあるから、とメモも残してホテルを出る。
このまま残していって死んでいたらどうしようと、行くのをためらう。起こしたときは、少しは頬に赤みが戻っていたし、目の焦点も合っていた。フロントで、ツレが気分悪いみたいなんで後で出ると思います、と言い残した。
真弓子は、一時間ほど眠ってから目を開き、フロントが様子を見に来る前には、何とか体を起こし、ホテルの部屋から消えていた。
* * *
赤羽のゴルフクラブに、御船はギリギリで間に合った。
バーバリーのトレンチコートの紐をきちんと結び、聡一郎の回っているコースに向かう。ゴルフ場は風が強く、湯に浸った体はコート越しだが、既に凍えそうなほどだった。
御船、と声がして、聡一郎は機嫌よくこちらに手をふってきた。ゴルフクラブをキャディに渡すと歩きながら聞いてくる。
「構造改革の件はどうだ。進んでるか」
「メインバンクの同意はもらっています。あとは実行に移すのみです」
「この間の話だが、顧問弁護士の菊池に話してみたら、やってみましょうとの事だった。もう内容証明も届いてる」
御船は軽く頭を下げる。
「菊池さんは仕事が早い」
「正直どれほど実入りがあるのかよくわからないが、着眼点は良いね」
聡一郎は機嫌よく、御船の肩にぽんと手を置く。
「弟の気性だと、徹底抗戦してきそうだが」
今日の御船の目は、ひどく冷たく醒えていた。
「それはないでしょう。今のあの事務所に、弁護士費用を持つ余裕はない。特許は特殊な訴訟です。弟さんもよくご存知です。訴訟を打つまでもなく、和解にすぐ持っていけますよ」
「息子もやっと目が覚めてくれるかな」
高校受験中にうつを発症、部屋から出られなくなった。二十歳になったとき、詩子に誘われて川崎のバイトに入った、そんな陽介の話を、ゴルフコースを歩きながら聡一郎は話して聞かせる。
「詩子も中卒で不登校だが、あれは道楽みたいなものだ。女だしな」
御船は改まって聡一郎に向かい、言った。真摯で誠実な、人を気遣う態度だった。
「会長、陽介君を迎える際には、ぜひ優しい言葉をかけてやって頂きたい。彼は才能がありますし、若手登用は今回の改革の肝ですから」
「あの子は年が離れて産まれたので、母親が甘やかしたが、クラウドサービスの開発か、あの子がねえ」
聡一郎はクラブを選びながら感慨深げだった。
「いつのまにか、そんなに育っていたのか。暖かく迎えると言ってやりたいが」
ロビーに戻ると、そこに頭を垂れて座っている、ひょろりとした青年がいた。こちらが近づくと、顔を上げてお父さんと弱々しげな声を出す。
「陽介、来たか」
聡一郎は、両手を広げて息子に向かった。しゃがんで目線を同じにし、肩に触れて手を握った。陽介は、さからわずに触れさせていたが、力なく言った。
「父さん、いったいあの書面は何なの」
「手荒だったから、優しいお前にはかなりのショックだったんだろうな」
聡一郎は微笑んだ。それから、少しだけ厳しい声で、静かにさとすように言う。
「いいか、陽介。ビジネスというのは必ず、筋を通さなければならない。たとえ肉親の間でもだ。それを私はお前にも知ってもらいたかった」
陽介の手がもぞもぞと動いて、父親の手から逃れようとするのを、さらに聡一郎は握りしめた。今度は安心させるように言う。
「大丈夫、きちんと働いて社会に貢献する決心がついたなら、隆一郎にだって悪いようにはしない。送金だって続けてやろう。あのアプリについてはお前に全部任せてやる」彼は御船を振り返った。「お前のポストと仕事については、彼によく教えてもらいなさい」
ロビーには御船の他に何名か、側近が控えている。皆じっと黙ってスーツの前に手を組んだまま、微動だにしなかった。歯の奥から絞り出すようにして、陽介は父に答えた。
「筋、筋、筋って、その言葉、聞き飽きてるよ。本当に好きだよね。筋を通すなら、まず叔父さんに電話をかけて、僕がお世話になっているお礼を言ってからのことじゃないの」
聡一郎は声を荒げた。
「陽介、最初から言ってるが、あいつの所にいることなんて、お前にとって害にしかならない。いつまでも殻に閉じこもって、中途半端なことをしているから、いつまでたっても自立できないんだ。現実を、この世の中をちゃんと見るんだ」
苛立たし気に立ち上がり、背中を見せて手を振ってみせる。
「お前のいるマンション、車、地代、税金、誰が払っていると思っているんだ」
陽介の甲高い声が、いきなり後ろから響いてきた。聡一郎は白髪の混じった眉間に皺を寄せて振り返る。
「普通の人間なら!普通なら!わかるはずだろ?こんなことしちゃいけないって!」
父と息子の、高い声と声が絡まりあい、ただ無意味に広くて豪勢なロビーに響き渡った。
「想像するまでもないだろ?普通だったらわかることだろ?金とか関係なく、みんな同じ人間だって。裸にしたら、生まれたときも、死ぬときも、同じだって!あんたは、自分以外は全部、カスとしか考えてない。あんたがカスだから、こんな真似ができるんだ!カスなのは、あんたで、他の人たちじゃない!」
「お前はあいつの所で働いているんじゃない。居心地がいいから、寄生しているだけだ。部屋に閉じこもっていた時と、何も変わらない。どうしてそれがわからないんだ」
「マンションも土地も、欲しかったわけでもない車もどうせ節税対策か何かなだけだろ?勝手に買い与えられて、僕の意志はいつも一切関係ないだろ?」
陽介は嫌悪感を一杯に体中で表して、父親の顔を上目使いににらんでいる。
「小さいころから、金が金が節税がなんていうたびに、僕は友達の前で、本当に恥ずかしかった。どこの服だ家具だ旅行だ何のブランド、土地建物がいくらだ、うんざりなんだよ!普通の家に生まれたかった。この嫌味なゴルフ場の会員権、ダサい時計、悪趣味な指輪を売れよ」
陽介は震える腕を挙げると、わざとのように人差し指を突き出し、いちいち数える。
「全部反吐が出る」
陽介は、いきなり御船の方を向いた。
「あんた一体何なんだよ、なんでこんな所にいるの」
御船は顔色一つ変えず、表情もぴくりとも動かさない。陽介は詰め寄った。
「こんな風にオヤジに媚売って、いつもはのけぞって偉そうにしてるくせに、ダッセ」
陽介!と咎める声も聞こえない風に、顔を近づけて低く言う。
「真弓子さんのことを傷付けたら、僕は絶対、許さない」
御船の薄い茶色の瞳は、細められたままでただ冷たい。
「詩子さんは僕はもういい、あの人は昔からずっと変わらないし、本当は全部、何もかもわかってる。ちょっとあんたに迷っちゃってるけど、すぐ目が覚めるよ。でも真弓子さんは」
陽介の激しかった語調が、ふと一瞬だけ泣きそうな響きに変わる。
「真弓子さんは優しいから、自分を必死に鎧で守ってて、誰にも何に対しても、いつでも一生懸命で、まっすぐ僕を見つめてくれて、認めてくれて」
微動だにしなかった御船の眉がはじめて歪んだ。
「はじめて僕の価値を認めてくれた人が、僕の造ったものに、値段をつけてくれた人が、傷付けられるなら、オヤジでもあんたでも、絶対に、絶対に!今が無理でも、十年たってもつぶしてやる。絶対に!」
父親を振り返り、息子は怨嗟を高級感漂うクラブのロビーに吐き散らす。人々は立ち止まって、皆がこちらをうかがっていた。
「アウディもポルシェも売ってやるよ全部。僕名義の不動産あったよね、はじめて感謝する。ありがとうカネくれて。弁護士雇って、徹底抗戦してやる。裁判でもなんでもやってやるよ。インターネットに全部ぶちまけてやる。叔父さんたちは僕が守る」
御船が割って入ったのに余計感情を激発させ、陽介の矛先は彼に向かいネクタイをつかんで力いっぱい横に引いたので、相手は支えきれず躓いた。陽介も勢いに引きずられて転び、トレンチコートの下のアルマーニのスーツまでが、陽介のジーンズと絡まって床をすべり、埃にまみれた。
助け起こそうと駆け寄った側近たちを制して、御船は陽介を抱え起こした。腕に支えられすがって起きかけた陽介は、御船の手首に光る時計を見た。
「ロレックスなんて糞食らえ」
陽介の涙に霞んだ目には、父親と御船の区別がついていないようだった。
「実の弟と息子を紙っぺら一枚で脅そうとする、その低俗根性、無神経さ。世界中で一番軽蔑する。人として軽蔑してる。知りたきゃ教えてやろうか?」
陽介は御船の腕にすがって、父親に向かって勝ち誇ったように叫んだ。
「母さんはね、結婚した日からずっと、あんたとのセックスが最初っから、本当に嫌だったんだってさ。そんなの聞かされるこっちの身にもなってみろ。嫌なら産むな!」
御船が力をこめて、陽介を腰から抱き上げた。半ば引きずるように、その場から連れ出そうとする。何人かが手を貸した。混乱し、当惑しきった聡一郎は、唾を吐くようにして言い捨てた。
「聞くに耐えん」
引きずられながら、力を失った陽介は甲高く笑った。
「何度でも言ってやる。あんたと寝るのは、最悪なんだってさ。あんたが連れてる女たちだって、きっと腹の底でそう思ってるよ」




