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汀より  作者: 天海 悠
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第二十六話 足音



「確かにこの業界で入れ代わりやキャリアアップ、独立は珍しくないですが、これだけ顧客をごっそり持っていかれたのは確かに痛かったでしょうね」


 高橋が思いやり深く言う。黒沼がため息をついた。


「しゃあないわ、それだけ次郎が優秀やったんや」


 コンサルタントの仕事は派手に見えて地味な上に、実務的でこつこつとした作業だった。


「加えて、そこを派手に見せれたら完璧や」と、黒沼が言う。「コツコツと、はでさを、両方やるんや。どっちも見せれたら、客は大船に乗った気になるやろ。どっちだけでもあかん」

「御船さんの言っていることですね」一平が口を出す。


 黒沼はむっとするが、また続ける。


「ハッタリは、九十九%は相手を奮い立たせるための、いわば嘘や。気持ちに寄り添って、持ち上げて、感心してみせる。できるで、必ず、あんたならできる!とな。だが、百%の嘘ではあかん。そこに一%真実を盛り込むんや。人は変わらん。その一%の真実を、くみ上げて水遣りをたやさんで、育てて芽から樹にできよる力のある奴がおる。びっくりするほどの花を咲かすこともあるんや」


 それ、御船さんが、と言いかけた一平は、高橋に手ひどく小突かれた。


「いいからお前は黙ってろ」

「人間の持つ資質次第ゆうても、肥料と水と太陽のやりようによって果実も変わる。手をかけすぎてもあかん。肥料をやりすぎると腐る。病気には対応せなあかん。虫が容赦なく食んでくるなら、殺虫剤も必要や。腐り落ちてしまう苗ももちろんあるが、その腐った苗が無駄やったかというとそういわけやない。畑全体で見れば、その苗が土に還って微生物に分解されたあとが、また肥えた土になって次を育てる力になる」


 真弓子は黒沼が久しぶりに披露している蘊蓄などそっちのけで、上機嫌でアプリのダウンロード数を確認していた。


「どうですか?」陽介が覗いてくる。

「お買い上げありがとうっていう感じよ」


 アプリは無料、お試しのようなもの、PCアプリは有料で月、千五十円と価格設定をした。もう十月、この数ヶ月は嵐のようだったが、売り上げ数が全ての苦労に報いてくれていた。


「まずはクライアント周りからおすすめしていったけど、評判上々。データ入力も格段に楽になったわ。佐藤さんの負担も減る」

「真弓子さん、本当にありがとう」


 陽介は感無量のようだった。後ろでは一平のおしゃべりが続いている。


「みんな言ってましたよ、御船さんっていったら、すごい女泣かせだとか、腹黒で悪い奴だとか」

「んなこたぁないわい、次郎は真面目でストイックな奴やで。あれで結構、不器用なんや。詩子のことさえなければな」


 真弓子は、少しだけ考えて携帯を取り出した。


『アプリ完成。評判上々。ありがとう。感謝する』


 日報が届いている気配がない。詩子からのメールが途絶えている。あの涙を見た日から、詩子の顔を見ていない。彼女にメールすることができなかった。それでも、このことはどうしても御船に伝えたかった。送ってすぐにキーボードに向かい、仕事に戻る。

 携帯の通知がまたたいた。返信の早さに驚き、思わず席を立って給湯室に行った。メールを確認すると、御船からだった。


『話があるから会おう。連絡を待っている』


 真弓子は、その字をじっと見つめていた。それから、ゆっくりとディスプレイを消してキーボードに戻り、つとめて明るく黒船に言った。


「ねえ、センセイ、お兄さんにはこのアプリのこと、話はしたの?」

「ああ、大丈夫やで」黒沼はソファーにもたれたままで、頭をちょっと動かして言った。「はぁん?とかふぅん?とか言いよったわ」

「ライセンスは問題ないと思うんだけどね」

「プログラムを直接見てコード盗んでいるわけでもないので、平気だと思うんですけど……」



 その黒沼聡一郎の家では、息子二人と父親が険悪な雰囲気で議論していた。


「この改善計画に盛り込んである株の名義の書き換えは何だ?不愉快だ」

「僕が奨めたんですよ、お父さん」


 長男の諒太が、この話題にうんざりしたように言う。


「Nは、うちの株をうちに返して下さい。それで役員貸付の返済をチャラにすると言ってきてます」

「うちの影響力が完全にあちらに及ばなくなるんだぞ?市場で放出した方がまだましだ」

「しかし、売るにしても、値が落ちないうちに売った方がいいですよ」


 イライラと次男の栄生が口を挟む。


「売ってカネが入っても貸付の負債は減らないんじゃ、結局返さないといけないんだぜ?なら、足りないのに相殺で手を打つってんだから、そうした方がいいに決まってるじゃん。何をいじいじしてんの」


 栄生は、哀れむように父親を見た。


「オヤジ、年取ったね」

「あちらとは手を切りましょう。負債も片付けて減らした方がいい。改革には必要なことです」


 諒太は、ふと、といったように付け加えた。


「僕はそんなの、相続したくありませんから」


 聡一郎は、ぎょっとしてしかめた眉の下から息子を思わず睨みつけた。思わずといった風にぽろりと出た本音に反応する。


──こいつらは結局、自分のことしか考えてない。相続だとか何と、まるで私が死ぬのを待っているような台詞ばかりだ。


 死、という目の前に浮かんだ文字に、体がすっと冷えていった。皺の寄った拳を握る。御船だったら、理解してくれただろう。現にこのN総合商社の株式を現社長に譲渡する話について、御船は聡一郎にこう言っていた。


──Nの株式譲渡の件は、お好きになさったらいいと思います。なんといっても創業されたんですから、特別な思いを持っておられるでしょう。この一項は、無視して下さって構いません。


 なのにこいつらは、と、長男と次男の顔を眺める。長男はふっくらとした顎がたるんで、母親そっくりだった。次男は甘やかされて放蕩に酔い、不品行が顔をどす黒く彩っている。こいつらにあの御船の鋭さが少しでもあったら、と思い、ふと疑問が浮かぶ。


──そんなにあの若造を信用してもいいのか?


 あの株には、何かあるのではないだろうか。業績が良くないと聞く。これから値が落ちるのかもしれなかった。この二人がたとえ愚鈍でも、血がつながっているからこそ、こんな人には言えないような本音も出てくる。あの若造は優しい態度と、うまい言葉でこちらに取り入って、それで本当に大丈夫なのか?

 それに、相殺がこちらにとって得なのもまた真実だった。

 元・相談役の聡一郎は、深いため息をついて、不承不承、株式譲渡契約書に署名をした。

 これでNとの縁は切れたことになる。

 次男の哀れむようにこっちを見てくる表情に苛立った。ため息をついて、まあいい、と思い直す。あのNからは、御船の引き抜きで、それでよしとしておいてやろう。


   *   *   *


 真弓子は客引きの多い通りを避けて、歓楽街からは一本離れた明るい、さいか屋やチネチッタのある道を歩いていた。周囲を行き過ぎる人の中、駅にわたる信号の前で止まって携帯をバッグから取り出した。

 新規メールを作成して、何か書こうとして、また消した。打つ言葉が見つからない。もう一度、御船からのメールを見る。


『話があるから会おう。連絡を待っている』


 どこで会おうというのだろう。武蔵小杉の事務所?汐留の本社?来週にはまた勉強会がある。どこも思いつかなかった。真弓子は今、事務所には行きたくなかった。本社では、副社長や高橋、一平のことが気にかかる。黒沼が穏やかに諭したことが耳に残っていた。勉強会では詩子の目もあるだろう。御船のこの文字の中にも、それら全てを巧妙に避けた気配があった。秘密めいた匂いが漂い、真弓子ははじめて、彼に対してどうしていいかわからなくなった。


 ふとキリエを思う。最近の忙しさに紛れて会っていない。今、何故キリエなのかわかっている。最初は二人だけの事だった空気が、じわじわと広がって今は詩子をも包みはじめ、拡散していた。キリエの苦しみと涙、呪いを思い、また詩子のことを思う。これ以上進んだら、どうなってしまうのか真弓子にもわからない。かといって御船に、二人で会うのはまずいんじゃない、となどと賢しらな台詞も言いたくはない。真弓子は信号を抜け、川崎駅へと入りながら、自分が彼に会いたいからだと思い当たる。一目でいい。一言でいい。どう、このアプリを見て、できたのよと言いたかった。御船の用も、まず仕事の話なのか何なのかを聞こう。駅のホームで短く、ぽつぽつと打って送信すると、またすぐに返事が帰って来た。


『明後日の土曜日十時、池袋駅西口公園』


 何故池袋?と真弓子が聞き返すと、午後から赤羽方面で仕事がある、と返事が戻る。それで真弓子は少し元気を取り戻した。きっと仕事の話だろう。思い悩んでわずかでも浮かれた自分が恥ずかしい。あれこれ思い悩むのをやめ、真弓子は明るい顔になって、バッグに携帯を入れ、電車のつり革につかまった。


   *   *   *


「来たよ、新しい査定先」ダブルスーツの男が、依頼状をひらひらと振ってみせる。

「今、銀行から内々に開示資料が来た所」

「社長の名前は?」

「黒沼だって」


 いつもどんなベテラン以上にも冷静なキリエが、椅子が後ろに倒れそうな勢いで立ち上がり、男たちが不思議そうに彼女を見た。


「見せて」


 ここの所、うつろでずっと考え込んでいるようだった目が輝きを取り戻し、うそのような生気を宿してきらめいた。


「課長、この先、ぜひ私に担当させて。銀行に話を聞きに行きたいです」


 課長──ダブルのスーツを着て、髪を撫で付けたヤクザ風の男──は、あっさりとうなずく。


「いいよ。キリちゃんに任せるよ。気をつけてね」


 課長の後ろから添付資料を手に取って見ている男が笑う。


「あ~あ、こりゃあ、終わってるな。ひっでえ債権額」

「入りもでかいぜ」


 賑やかになる一時だが、別にここにいる人間たちは、心から仕事を待ち望んでいるわけではない。出来れば、来なかった方がいいという気持ちを隠して銀行に挨拶回りをし、営業活動を欠かさない。矛盾をはらんだ職場だった。中には割り切っている者もいる、実績を上げるのに集中しようとする者もいる。それでも、いざ新規先が来たとなると一瞬、腰が引ける。その向こう側にある、叫びや嘆き、修羅場を人一倍よく知っているからだった。

 キリエが課長と資料をもとに話している間、同僚たちは口々にささやきあう。


「強気でやるねえ」

「あいつ失敗を知らないからよ、怖ぇけど、危ねえよなあ」


 部内のそんなお喋りには、仕事ができる女に対する偏見と反感だけでなく、この仕事に対する矛盾の全てがこもっていた。


「あれは変わり者だよ。普通なら、金積まれても断るさ。行きたくないのが当たり前だろ」

「いいの?武藤さん」からかう男もいる。「相棒だけ成績上がっちゃうよ?」

「あいつもそろそろ、こんくれぇ大きな玉も、やってみてもよかんべぇよ」


 武藤はうなるように言う。話が終わって、銀行にアポイントの電話をかけているキリエを置いて、課長がこちらにやってきた。いるだけで周囲を圧迫する巨漢に、そっと後ろから声をかけた。


「フォロー頼むよ、武藤さん。キリちゃん、ちょっと今、取り憑かれてるから危ないよ」


 見た目だけなら完全にヤクザの若頭なのに、その目はよく見れば真面目で優しく、穏やかな光すらたたえていた。キリエの電話の向こうから、かすかな声が聞こえてくる。


──今まで、けっこうな時間と人的費用をかけて、サポートしてきて、融資もしている。このお客さんをどうするかって話になっている所なんです。


 巨漢は答えず、じっとキリエの姿を見守っていた。



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