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汀より  作者: 天海 悠
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第二十五話 37°2



 月に一度、必ずやることにしている片付けを、今日こそと真弓子は朝からジャージを身に着けた。お気に入りのミュージックビデオを流しっぱなしに、八月のまだ強い太陽が出きってしまわないうちから洗濯をした。丁寧にしわをのばしてゆっくりと、狭いベランダに干していくと、視界はすっかり遮られ、部屋は密室のようになる。


 水道橋、七里ガ浜、 ミッドタウンと過ぎて、あれほど蓋をしていた思い出がよみがえり、買い物へ行くと、彼が横にいるように感じる。手を伸ばして発泡酒を取った棚にも、ドアノブに伸ばした手のそばにも。振り返らない、前は見ないと言い聞かせ、今だけを生きているつもりなのに、あの日から、この水道橋|界隈の街角が彼の気配に支配され、彼の色に染まっている。

 死の灰色と濃紺に染まっていた敷石を全部、御船が塗り替えた。彼がしゃがんでねこに手を出したしぐさを思う。傍に一緒にしゃがんで見つめたら、ねこはするっと動いて前足をかけ、なんなく御船の膝にすわった。店の親父さんが出てきて、あ~あ、手なづけられちゃって、どうしたの、とあきれた風に巻き舌で言う。

 棚を一つ一つ片付けていくと、忘れ去られたように奥に押し込まれていたDVDがぽとりと落ちた。女優の顔が死の色、黄昏のブルーに染まる。



 塾講師をしていた時に、真弓子が描いていた未来は何だったか、もう思い出すことは出来なかった。

 多分、人気講師だった元彼と結婚して、共働きでならなんとかやれるか、講義の数を減らしながら子供を育てて、と漠然と想像していたはずだ。でも仕事はやめない。一生やめない。それは真弓子の確信だった。家からパソコンを使って家庭教師するのもいいな、副業で、と考えていたりもした。あのとき、ちょうど二十九歳だった。

 元彼が手を出していた女子生徒が自殺した。彼の携帯から、彼女との生々しい動画が沢山出てきた。自立した真弓子がコンプレックスだったと彼は言った。堂々としたお前の前だと、自信を失う。あなたって凄いというきらきらした目が嬉しかった。前から目につくほど仲は良く、精神的な不倫と言っていると、人づてに噂を聞いてはいた。


──エッチしたのは、流れ。その場の空気。流されてやっちゃっただけですって。


 夫の浮気が発覚したキリエと手を取り合うように慰め合いながら、不思議なことに真弓子には、彼の浮気よりも、彼女──青木の自殺の方がずっとこたえた。

 男なんて着信拒否の設定一つで終わる。でも人生を終えてしまった人に対して、なぜとも、どうしてとも、だってとも、どんな言葉も届かない。

 自殺する意味があったのかどうかもわからない。同じクラスの生徒に聞いても、友達に聞いても、全く何の気配もなかったとしか言わない。学校という場所はいつも深い霧の中に閉ざされている。SNSにもそれらしい気配は何もなく、あの動画の存在が関係していたのかもわからない。理由がないのではなくて、わからないと、皆が言う。ただ、ふっと窓から身を投げた。落ちたのか、自ら飛び降りたのか、それすらも曖昧だった。


 プツンと切れた命の糸、それと同時に、自分の描いていた漠然とした未来も突然、閉ざされた。

 そんな風に感じるのは、彼との結婚が考えられなくなったから?やっぱり私も結局、結婚に希望を抱いていたのか、と真弓子は思う。そういう手垢のついたイメージを持ちたくないと思っていた全部、今は多様性の時代とかそういうの全部、キリエ曰くメディアに毒されたきれいごとだ。現実的に、このまま一人の給料でやっていくのは、体力的にも多分無理だ。今から誰か男を探すには年を取りすぎている上に、この性格だ。自分が一番よくわかっている。必死になって媚を売り、独身男を追い掛け回して飲み歩くのには向いていない。プライドではなくて、男受けがしないのだ。ズケズケ言うから敬遠される。


 棺に打ち込む釘の音を、直接に聞いたわけではなかった。でも真弓子の耳には聞こえてきた。いつも脳裏で青木の顔は祖父の顔にすり変わり、はっと見るとまたあの青木の溌剌としていたはちきれる若さに溢れていた顔に戻る。過去形のいのちだった。


「出棺です」


 葬儀の後に、青木と仲の良かった塾仲間の生徒たちが、何となく真弓子の周囲に集まってきた。無言で立ちすくむ子供たちに、真弓子は言う。お通夜のあとには、通夜振舞いって言ってお酒を飲んで、おいしいものを食べて明るく、思い出を話しながら過ごすのよ。

 講師が特定の生徒たちとと食事に行くなんて、本当はダメだけど。君たちはよく頑張ったし進路も無事に全員決まってる。青木の通夜振舞いをやりましょうよ、お祝いかねて行きましょう。四、五人がついてきた。みんな男子生徒だった。


──ちょっと、ジャケットだけ取り替えてくるね。だからうちの近くの店にしよう。


 急いで予約を入れた店は、飲み屋だったしダイニングバーもあり、子供を連れていく場所じゃないかもしれないと、ちらっと頭をかすめた。慌てていたのと、食べ放題があるのが決め手だった。どこでもいいか。それにもう大人の仲間入りだから記念に、と思い直した。店の壁面には有名人のサインもたくさん飾ってあり、子供たちは物珍し気に見回している。

 真弓子はチューハイを頼んだ。


──明日は土曜日だけど、奇跡的に講義ないから、今日わたしは飲んでいいんだ。おごりなんだから許してよ。一杯だけ。青木へって、飲ませて。


 先生、おれも、とドリンクメニューに手を出す子の手の甲をぴしゃっと叩き、新歓コンパに行ったらどうせ飲まされるわよ、とたしなめる。

 一人がお通しに箸をつけ、ふと食べる手を止めた。どうした?と聞かれて、ああ、いやちょっと、と口ごもる。


──なんであいつ今、いないのかなって、考えちゃったんです。なんでおれ、これ食ってるんだろう。青木はもう、いないのに。

──顔、白くて気味が悪かった。

──あれ化粧してるんだよ。そのままだともっと真っ青だって言うぜ。

──唇が異常に赤くて、一瞬、生きているんじゃね?って思っちゃった。

──口の中に白いものが見えて、歯?って思ったら、綿だったんだ。中に、詰めるんだって。


 その時、酒が運ばれてきた。

 グラス一息で飲み干して、涙をこらえ、瞬間、テーブルに突っ伏した。

 見ないようにしていたことが、突如真弓子の上に嵐のように降り注いでいた。打ちのめされる。動かないと信じきっていたこの足を踏みしめる大地が、地の底が揺れる。明日はない。ない。あると信じてる明日なんてない。あるのはいま、今だけ!


 ひつぎにはいって物言わぬ少女がいた。ことばはない。死のような静けさというより、死、そのもので、真弓子の眼前に迫ってくる。抗えない。飲み込まれる。とじられる、生きたまま、あのひつぎの中へ。

 先生、と生徒たちが口々に、手を背にあてたり、真弓子の指に触れてきたりした。悲痛な声に涙を飲みこんで、無理に笑顔で顔を挙げると、君たちはこれからなんだよ、輝ける未来なんだよ、と空元気を振り絞り、頭を抱いて髪を撫でた。本当によくやった、合格おめでとう!


──大学入ったらそれでおめでとうとか、おめでたいのはそっちの頭だよ。


 何?と眉根を寄せて声のした方を見る。バーカウンターに座っていた二人連れのスーツの男たちのうちの一人のようだった。


──そもそも、お前ら何で今の大学狙った?妥協の産物?頑張って入ったって、入ってからが天国のような地獄だぜ。

──ちょっと!やめて!


 カウンターの男は半分体をひねってこちらを向き、あざ笑った。


──お前らのこれから、あててやろうか。受験の反動で遊びまくる。バイトとコンパとサークル三昧。午前様で講義落として留年だ。就職浪人かもしれねえな。


──この酔っ払い。


 真弓子が席を蹴った。うちの子たちにからまないでくれる、どうせくたびれたサラリーマンだろ!

 やめろよと笑いながら男をたしなめる仲間にまでにらみをきかせ、売られた喧嘩を買ったのは、この嫌味な台詞を吐く男がそれほど見映えも悪くなくて、その酔ったぎらつく目の中に、自分と同じようにやりきれなさを抱いてここに来ていることが、なぜか見てとれたからだった。


 頭の上で声が聞こえた。


──この先生どこに住んでるの。おまえら知ってる?

──すぐそこです。402号室。

──おれら自転車なんで。


 かすんだ視界のすぐそばに、びっくりするほど近くに、スーツのしわとゆるめたネクタイの縞模様、そこから漂う知らない匂いがあった。不思議に不快ではなかった。後ろ手にドアの鍵が締まる音がして、脱ぎ捨てられたリーガルシューズとハイヒールがもつれ合い、そこから真弓子はずっと目を閉じていた。

 土曜日、男は部屋にずっといて、二人は午後二時すぎからやっと服を着てスーパーに買い物に行った。発泡酒を買って飲み、部屋で洋画のDVDを見た。けっこう量あるね、と男は言った。チョイスも悪くないし。二人とも昨日の刺々しさなど、寝乱れた毛布の中に棄てていた。


──これわたしの唯一の趣味。

──俳優でいうと誰が好きなの。

──そういうの、あまりない。演じる人間は私たちと同じで、時間が過ぎていくでしょう。映画は切り取られた別の空間時間を歩むから、俳優と作品を同一視すると、イメージが壊れるの。だから俳優にはあまり興味ない。完結した一つの話として見るのが好き。同じ俳優でも別人なの。あと、ワンシーンだけ記憶する。女子が髪を振り乱して働いてるところ。無学だった男が突然勉強に目覚めるところ。畑仕事や台所に向かってる姿、何かを一心に丁寧にやってるシーンを切り取ってここに、(と真弓子は胸をさした)保存しておくの。


 相手は真弓子を裸の腕に抱いたまま、じっと黙って聞いていた。

 日曜日の昼に、真弓子は講義を持ってるからと仕事に出かけ、おれも明日の仕事の準備あるから、じゃあこれで、と男は言った。名前も聞かず、そう、わかった。と真弓子は答えた。その二日間だけが、嘘のように穏やかだった。通りすがりの、もう二度と会わない男だった。ふと電車で隣に乗り合わせただけの人に、愛想よくするのと同じことだ。

 塾から帰ってきたら、ポストに忘れ去られたように入っている、名刺があった。口のなかで繰り返す。

 みふね じろう。

 それだけ見てからゴミに捨てた。何とかパートナーズだとか何とか、よくわからない会社名。わたし、男なんて見るのも触るのも気持ち悪いから、しばらく無理と思っていたのに。


 休暇明けに待っていたのは解雇通知で、精神的にも経済的にも、真弓子の未来は閉ざされた。家に帰ると引き出しを開き、通帳を取り出した。大学を卒業してから七年、貯金は二年過ごせるかどうか。

 機械的にPCの前に座り、転職サイトを検索した。涙もなく、心は落ち着いていた。お気に入りというほどでもないが、いつも見ると気持ちが落ち着く、静かな生活とちょっとした人間模様を丁寧に描いた映画を見た後のように。でも今真弓子を突き動かすのは、モニターの向こうの映像ではない現実だった。あの男の肌の匂いが、つぶれそうな重みが、乳房を這ったざらついた頬の無精髭、たばこの味のする舌、体に直接入ってきた感覚が、今の真弓子に力を与えた。


 仕事を探そう。今、すぐに。




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