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汀より  作者: 天海 悠
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第二十四話 政治の世界



 御船はヒルトンのロビーに立って、黒沼聡一郎を待っていた。美人秘書との長話を辛抱強く待つ。

 いつもの放埓な態度はどこにもない。上質なスーツを折り目一つなく着こなして、両手を前で組んでいる。無造作な短髪も念入りに、きちんと固められていた。重厚なサラリーマンそのもので、見る人が見れば、これが御船かと疑うような姿だった。

 ゴルフ、物件の修繕費、税金がかかって仕方がない、政府はいつも貧乏人からばかりむしりとる、軽井沢に別荘を建てようとしているのだが…。

 敵意をあらわにこちらを見ている役員は、追い落とされるのを恐れている。聡一郎の酒に付き合って長話をするたび、彼が自分を目にかけているというポーズを取るほど、重役たちは苛立ちながら媚びていた。トップの心さえ掴めばいいし、彼らにだって平身低頭の殊勝さは欠かさない。御船の唇に笑いが浮かぶ。


 重役たちには、聡一郎の漏らした情報や、独自につかんだ情報を小出しに右から左に流して、おいしい思いもさせてやる。ありがたがる奴には事欠かないし、あっちではこっちの悪口、こっちではあっちの誉め言葉を、こちらの口は重くして、ただ聞いてやっているだけで、ぼろぼろ出てくる駒をいただく。得意がってるところを上手く持ち上げてやれば、あいつはわかってると感心してくる。離れたら疑いも鎌首をもたげるだろうが、この目の前に現れたなら、ちゃちな牙ならこの口先と態度でたらしこみ、丸め込み、なだめられる。自信はある。

 お前、そんなことしてたらいつか絶対に背中を刺されるぞとアニキに言われたことがある。


 やっとハイヤーに乗り、銀座に移動する。今日は懐石料理のお相手だった。

 聡一郎は、もうN総合商社相談役ではない。つい先日、退職金を手に退いていた。だが、御船は相変わらず相談役と呼んでいる。創業者であり、株式保有率二十一%の大株主であることに変わりはないからだ。彼もその呼び方を快く受け止めてあえて否定はしなかった。


「これ以上の貸付はできないが、退職金を倍で払うというのは、手切れ金のようで気分が悪かった。相談役を退くのは、こちらから言い出したことではあるが」

「役員貸付は税金がありますからその問題でしょう。今はあちらにも余裕がないんです。正直、厳しい懐からよくあれだけ出させましたね」

「引っ張り出したのは君だろう」

「N本社も内情はそれほどよくない。どこも同じでしょうが、このご時世に生き残りをかけて必死です」御船は言いつつ苦笑する。「それに、私は一部役員に嫌われているので」

「それで独立させて君を追い出すとは、飯尾君も情がない。うちはいつでも君を受け入れるよ」


 御船は笑顔で腰から丁重にお辞儀する。


「第三者意見として、君にはうちの構造改革の素案を頼んでいたが、社内にも異論はないようだ」


 ぎっしりと書き込まれた分厚い資料を、相談役──今は元相談役となっている黒沼聡一郎は料亭の机の上に投げ出した。


「よくできた計画書だ。中小と大企業では、まるでコンサルティングの内容が変わってくるから、どうかと思ったが、全然、目は鈍っていないね」

「ベンチャーをやがては大企業に、そう考えていれば、どちらにも目を配らなければなりませんから」


 自信満々だね、頼もしい、と箸休めに手を出して、聡一郎はそれとなく言う。


「うちの姪とも、付き合い長いね君は。そろそろいいんじゃないか」

「女性を待たせるのは気が引けるのですが、僕がなかなか、一人前になれないもので」御船は殊勝に目を伏せる。「詩子さんをお待たせしてしまって、申し訳ないと思っています」


 詩子と籍を入れるのに必要なのは、Nの社長の席か、それともうちの役員室かと思っていたが、相談役をやめた今、こっちに乗る気なのは明白だ、と聡一郎は考える。来期の人事異動の中に、お前のポストを作ればいいんだな。若造の癖に、抜け目のない男だ。そういう野心は嫌いではない。


「詩子のことを頼んでいる身として、家族の話をしてもいいか。息子のことなんだ」

「陽介君ですね。まだ弟さんの所にいらっしゃる」御船は顔を上げて、眉を寄せた。「僕もあそこには、今出入り禁止なので、しばらくお会いしていないですが」

「父親として、どうしても息子を立ち直らせたい」


 御船は少し黙って、わかりました、考えてみます、と答える。

 ふすまが空いて、酒の追加が運ばれてきた。


「私は君を跡継ぎと思っている。実の息子より息子のようだ」


 恐縮して下を向いている御船に、相談役はポケットから携帯を取り出した。


「見なさい、これを」


 皺が寄り、染みの付いた手で差し出した年配者用の字の大きな携帯の中に、小さな女の子の笑顔があった。どこか詩子の面影がある。


「娘だよ」


 両手で丁寧に受け取って、御船は手の中の少女の笑顔をじっと見つめた。


「この年でと笑うかね。まだ家族の誰にも打ち明けていない」照れ臭そうに戻ってきた携帯を受け取って、自分でももう一度眺めている男の顔は幸福に輝いていた。

「もう祖父と言ってもおかしくない、この年だが、かわいくてたまらない。この子の母親といるとき、本当は一番、自分が自分でいられる気がする」


 携帯を閉じて、彼は言う。


「今、私は六十五。あと十年、そのうち息子たちなど踏み台にして、この会社は君が継げばいい。足掛かりにして、どこまでも大きくなりたまえ」

「光栄ですが、そこまでは考えていません」

「隠さなくてもいい」鷹揚に手を振る。それから付け加えた。

「夫が外に女がいても目をつぶる、詩子もそういうことには慣れないといかん」聡一郎は顔を動かさずに目だけで御船の表情を伺った。「どんな女だ。君のような男の心を掴んでいるのは。詩子が最近、やきもきしている」


 ちょうど日本酒の熱燗を口にあてた御船の眼に灯が点る。アルコールの強い匂いに混じって酔いと共に立ち昇ったのは、大きな猫のひとみ、ジャケットに隠れた細い腰、一度は手に入れたあの柔らかい脚の間、おれがどんな粗野な声を出しても、顔色一つ変えない勝ち気な女──。

 聡一郎は若い男の身を焼く隠しきれない炎を楽しげに観察する。やり手だ独立だ、勉強会だ先輩だと、N本社で大きな顔をしていても、六十を過ぎる男の前では御船はひよっこだった。若すぎるほどに若かった。御船はゆっくり、低い声をなお低くして考えながら慎重に口にする。


「逃げるのがうまい、女ですね。逃げると追いたくなる、追われれば逃げたくなるのは男の本能で」

「狩猟本能だな。そういうのを掻き立てる女はいい」


 上品な女というのは、上質なブランド品のようなものだが、それだけでは足りない、というのは相談役の口癖だ。


「逃げる女は、運そのものだ。そこを何としても征服してこその男だろう」

「仰る通りです」


 身を少し乗り出して、相談役は御船の心に踏み込んだ。


「君の展望はどこにある」

「アジアです」御船ははっきり答えた。


 彼のいつもの慎重さが消え、眼に宿った炎がさらに熱を増していく様子を、聡一郎は薄笑いを浮かべて見守った。今夜の御船は饒舌だった。


「アジアに出たい。それがおれの希望です。この国の人間は、簡単に出られないと思ってる。面倒なことにまきこまれたくない、すごく時間と金と手間だけかかって、リスクは大きく、実入りが少ないとも。特に中小は、直接取引なんて考えもしないで、大企業に寄生するだけで、都合が悪くなったら簡単に捨て駒にされてしまう。その面倒を請け負ってやれる、ノウハウがあれば不可能ではないんだと、向こうも詐欺師や狂信者ばかりじゃない、まともに普通に働いていて普通に暮らしてる人間たちが大半なんだって、国内企業とするように、簡単に関係をつないであげられますよと、マニュアルや保険も含めて体系的な業務にしたい。TPPが本格始動する前に形にしたい」


 そこまでで御船は言葉を止め、夢から覚めたような顔で元相談役の笑みを見た。


「まだ本社には気付かれたくないんで、慎重に行動してます」

「全面的にバックアップしよう、この構造改革が成功したあかつきに」

「必ずご期待に添えるよう、努力します」


 二人はしばらく黙って、盃を干しては満たしていた。相談役が言う。


「君もいい加減、たかだか大学を出たばかりのメダカみたいな連中の教育なんてやらされてうんざりしてはいないか。今が一番バリバリやれる時期なのに。自分ひとりに集中したくはないのか」

「その気持ちは正直、あります」

「稼ぎ頭が育成をするなんて、ばかげた話だ」


 不快げに顔を歪める。


「他は蹴落とすのがこの世の常なのに、くだらない連中に関わる時間は惜しい。この世はそんなに甘くない。才能のある者はおのずと知れる。その一握りだけが天下を取れるし、人を使える」


 御船はこの老獪な男をじっと見つめて、口を開いた。


「飯尾社長の言うのは理想、相談役が仰るのは、現実だと思います。おれは現実を生きていきたい」


 皮膚が引っ張られて口の周囲にたるみを作っている。その皮が延びて歯を見せる。笑っているのか、食い付こうとしているのか、御船は宙を熱を帯びた目で見つめたまま、そんな笑いを見ていない。元相談役は手を伸ばし、御船の肩を掴んで軽く叩いた。


「現実を生きてのし上がるんだ。その女に、マンションの一つも買ってやれ。男の甲斐性を見せてやればいい」


 相談役は拳の形を作って御船に差し出し、御船は恐縮の風を見せながら自分も拳を作って合わせた。相談役は、目尻の皺を深めて、別れ際に言い残す。


「運を掴めよ」



 サイレント設定にしておいた携帯には、いくつかメッセージが入っていた。

 一つは若手勉強会のお知らせで、この前はまた定例会か、めんどくせえなと言うと、秋社長ににらまれた。


「夫婦漫才はもう勘弁よ」

「そういうのも、ご愛敬?」

「ビジネスでしょ、わきまえましょ」


 静かに、ピシャリとやられておとなしく引き下がった。

 運を掴め、か。手を開いて電灯にかざす。

 優しい言葉の一つもかけて肩でも抱いてやりゃあ、なんとかなるのかもしれないのに、生意気なつら見てると、いじる軽口しか出てこない。高校生じゃあるまいし、いい年して大人じゃないやね。あいつはおれのどこかに触ってくるから、嫌なんだ。



「最近のアクションプランは、自分でずいぶんやってますね」詩子が天真爛漫(らんまん)にディスプレイを覗いてきた。「よほど見込みのある先?久しぶりですね、そんなに熱中するの」


 ほんのわずかに顔をゆがめて、平静を装い聞いてくる。


「伊野木さんのため?川崎の叔父様の先じゃなくて?」

「うーん、違うよ、残念。大口先」


 御船が曖昧に答えると、ほっとしたように息をついた。あれから、真弓子が送ってきて、詩子がまとめているはずの日報も見ていない。御船もあえて聞こうとしない。業務量の単純合計を出し、業務効率化、収益性分析、意思決定プロセスの改善、営業体制の見直しと、やることはいくらでもあった。

 あぁ、と御船は体を伸ばす。


「詩子、疲れた」


 そうですか、詩子は微かに微笑んだ。


「少し寝る」

「おやすみなさい」


 電気を消して、詩子は一瞬だけ見つめ、おずおずと唇にそっとキスした。御船のくちびるは乾いていて土気色だった。ぴくりとも動かなかった。眼をとじて、もう寝息を立てているようだった。

 詩子がそっと扉を閉めるのを、御船は薄目を開いて伺った。




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