第二十三話 炎上
「佐藤さん!」
緊迫した声に、出社したばかりの佐藤かずみは目を丸くした。「どうしたの、陽介」
傍のテーブルには、真弓子が顔を隠し、机に突っ伏している。佐藤はただ事ではない何かが起きていると瞬時に悟った。取るものも取りあえず真弓子の傍に飛んでいき、声をかける。二人の仲は、もうずいぶん前から、かなりうちとけていた。
「真弓子さんの音声データがネットに晒されてるんですよ」
えっ、と佐藤は声を上げて口を塞いだ。慌てて駆け寄って見る。ディスプレイには、黒地に白字で、大きく文字が浮かび上がっていた。『──ブラック企業のパワハラ上司──』
「再生できる?」
「今聞いてる」
宇野が、音量ボタンを上げた。
──おかげであたしも残業続きですよ。残業代も出ないのに。
──あんたが、(ピー)に今まで頼りすぎてただけでしょ。こんな簡単な入力も出来ない奴が大きな顔して給料もらってるんじゃないよ。
ガサガサいう音がして、声が突然、大きくなった。
──接客も嫌だとかってしないでさ。電話は出ないわ客へのお茶出しさえ人に押し付けてお喋り三昧、それで事務すら滞るってどういうこと?残業やっても追い付かない分、全部さんがやってるんじゃん。それも出社後三十分でこなしてるよ。あんたの三時間が三十分!安月給でも、そのカネは、どこから出てるか考えなさいよ。
真弓子がうめいた。
「何これ。何度聞いてもキツいわあ」
「誰がだよ。伊野木さんあんただよ」
佐藤には記憶がある会話だった。そのピー音で伏せられている名前は陽介と自分に違いない。しかしまさか録音されていたとは思わなかった。
「思わず口から出ちゃったのよ」
真弓子は顔を上げたが、すぐまた伏せた。トラウマが真弓子を襲って背筋を虫のように這い、ぞっと総毛立つ。生徒たちの飲酒のSNSの画像が、ぐるぐると頭に回っていた。もう鬼門なのよSNSは、と真弓子はつぶやく。
「SNSって聞くだけでダメージ。だからフェイスブックもツイッターもラインも使わない、見ないようにしているのに」
宇野がコメントをざっとマウスで確認する。
「でも炎上してるよ。もしこのお局様の言ってる事が本当なら、言うことにも一理あるとかって」
どこかに電話、またメールを操作していた陽介が、不安げにこっちを見てくる。
「プロバイダーに削除要請は出しましたけど、こういうのって拡散しますからね」
あっ、来ましたよ、と声が上がって、黒髪の若い女が事務所の扉から顔を出す。
「ニーナ」宇野が呼んだ。「ちょっと来て」
真顔の宇野のもとに、神妙な顔でニーナが近付く。
「待って、待って。待ってってば」
必死の真弓子の制止も聞かず、宇野は仏頂面のままだった。なんですかと近付いたニーナに、パソコンの画面を指差した。
「これアップしたの、おまえ?」
『──ブラック企業のパワハラ上司──』
「知りません」
「よく、平気な顔してここに顔出せるよね」
待って、と真弓子は宇野とニーナに割り込んだ。
「わたしも確かにこれはひどかった。晒されても仕方ない。謝るから」
「そこ謝っちゃだめでしょ。伊野木さん」宇野は鋭く切り返してきた。「晒すなんてだめでしょ」
これさあ、と言いながら宇野はまたニーナの方を向いた。ニーナも凍りついている。目がいつもの二倍も大きい。宇野は重ねて彼女に言った。いつものへらへらした気配は微塵もなく、厳しい冷淡な声だった。
「おまえすぐ、特定されるよ。顔も住所も不特定多数に拡散されるよ。伊野木さんがじゃないよ、お前がだよ」
宇野は、机をバンと叩いた。ニーナがあからさまにびくっと身体を震わせる。
「ネットは怖い世界なんだよ。気軽にちょっと仕返ししてっていう問題じゃないんだ」
「私じゃない」
違う、知らない。こんなの上げ方知らない、何度も繰り返し、大きな黒い目から大粒の涙をこぼす。
「何もわかりもしないのに、つまらない嫌がらせするんじゃないよ」
「だってあたしのアカウントこれだもん」
ニーナが突き出した携帯を全員で覗いた。実名つき、実写真つきの、間違いなく本人のアカウントだ。
別ウィンドウで素早く検索してざっと読んでいた陽介が「真弓子さんの悪口だらけ……」とつぶやいた。
@ニーナ あの女、すっごくムカつく。あたしにばっかり高圧的。サイテー。
@ニーナ また人の彼氏とイチャついてる。消えればいいのに。
全員が、ニーナを見た。
「これは、言い訳できない感じですね」陽介がつぶやいた。
キレた少女は、髪をざっと後ろに払って、歯を剥き出した。
「あたしじゃないって言ってんでしょ!何よ皆で犯人扱いしてさ!何で皆この女ばっかり味方するわけ!?おかしくない?」
「別アカウントなんていくらでも作れるよね」宇野がつぶやく。
「私を疑ったんでしょ。この人の味方するのよね」
宇野は彼女の目を見てゆっくりと、区切って言った。
「おれは、伊野木さんの、味方をするよ」
ニーナのうるんだ目がさらに大きくなり、それから激しい憎しみを宿して宇野と真弓子をにらみつける。
「裏切り者、ひどい」
真弓子はたまらず、また間に割って入った。
「待って本当に彼女じゃないかもしれないじゃん、もし冤罪だったらどうすんの」
「だって他に誰がいるかって、後はチーフしかいないですよね」
長谷川は、ずっと窓の傍で、黙って煙草をくゆらしていた。
「チーフ、何か言って下さいよ」
「俺、もうチーフじゃないし」
ニーナが口を出した。
「ねえこれ、アイフォンから送信て書いてるけど、アイフォン使ってるのこの中でチーフだけじゃないんですか」
「おお、鋭い。こんな時だけ」
「こんな時だからでしょ!」
宇野が、大またで長谷川に近付いた。
「あんたなん?これやったの」
長谷川は、それまで黙って煙草をふかしていたが、そこで投げやりに煙草を捨てた。カーペットから焦げた匂いが立ち上り、あっと声がして、陽介が慌てて走って行ってもみ消した。
「なんかもう、この職場、うっぜ」長谷川は吐き捨てた。「やりにくいし、いづらいし。それがその人のやりたかったことなんだろ、追い出したかったんだろ、僕を。邪魔者を」
立ち上がり、真弓子を憤怒の形相で睨みつける。
「外行け外行けって、外になんか出られない人間だっているんだ。そういうのが苦手な人間だっているんだ。人には、向き不向きってものがあるんだ」
「伊野木さんはあんたには、全面的に内部業務を任してたじゃん」
「なんでこんな奴に任されんだよ!いきなり来てワーワーうるっせぇんだよ、いっつも、落ち着かねぇんだよ!もうおれ、ほんっと嫌い、こういう女!」
叫びが事務所に響き渡り、その後シンと静まって、場違いな居心地の悪さを醸し出す。七月の夏の太陽がブラインド越しに激しく突き刺さり、空調は寒すぎる。
「えらそうなこと言ってるけど、いつも的外れなんだよ!なのになんで…」
長谷川の言葉がつまった。扉が大きな音を立てて閉まり、後に残ったのは捨て台詞と揺れた空気だけだった。
「プレッシャーでうつになったって労災認定出してやる」
「長谷川さんと内田さんがリストラ対象ですね」
容赦のない内容を物静かに言う高橋に真弓子はぎょっとする。それが、先日のことだった。
お手伝いをしたいと思っています。いや、させてください、と高橋は熱心に真弓子に言った。
「昔から、黒沼さんの事務所は、若いコンサルタントの修行の場と言われていました。やり方が古くなったと御船さんは言いますが、変わらないものもあるはず。御船さんの所から卒業する今、見ておくべきものもあると思うんです。短期ではありますが、私は真弓子さんと一緒に仕事がしたいです。自分に何ができるかわかりませんが、するだけのことはしたいと思っています。教えてもらえますか、事務所のことを」
そう言われて、御船に送っていた事務所の日報を見せていた時のことだった。業績は持ち直してる、先生も気力を取り戻しているようだ。だがまだ足りない。返済を再開すればぎりぎりだ。それは高橋だけでなく、御船も言っていたことで、それは当然言う通りなのはわかっていた。
「長谷川さんはともかく、センセイ、ニーナはリストラしないと思うわよ。ニーナより佐藤さんを切ろうとするでしょうね」
「どうしてですか?」
それは黒沼が愛している姪に面影が似ているからなどとは、はっきり言えず真弓子は口ごもる。高橋は一度事務所を訪れていたが、彼女が詩子に似ているなどと、露ほども思っていないようだった。
「それができなければ、経営者ではありませんし、黒沼さんほどの方ならわかるでしょう」
「そういう、人の弱さを受け入れて見捨てないセンセイが、わたしはけっこう好きだったのよ。センセイ自身の弱さもあるんじゃないかしら。心が弱っていると、何かにすがらないと生きていけないのかもしれないわ」
「それは危険な考え方です」
「でも強い弱いは、いい悪いじゃなくて、本人のせいじゃないから」
「しかし、その弱さを理由にするなら、それは甘えです」
真弓子はまじまじとこのニ十八歳の青年を見た。どうしました?と高橋は色白の顔を優しい笑顔に変えてみせる。真弓子はため息をついた。
「高橋くん、あなた宇野さんとうまくやっていけるかしら」
「必要であれば、うまくやります」
高橋はすましている。
そんな会話を高橋と交わした後に起きた、思わぬSNS騒ぎのおかげと言っては良くないが、長谷川もニーナも、突然、事務所からいなくなった。
リストラの手間が省けたではありませんか、とにっこりと優しく言うだろう高橋の顔が浮かんで、真弓子はまた、ため息をついた。後味がよくない。センセイの家族を壊しちゃったのかしら。もういつ聞いたのか思い出せない黒沼の声がこだました。
──壊す言うなら思い切りやれ。草も生えんぐらいきれいにぶっ壊したれ。
ここで止まるわけにはいかないんだ、と真弓子は思う。そうねセンセイ、あなたにはきっとちゃんと見えていたのね、わたしがあいつに相談したり、高橋くんに分析してもらうまでもなく、どうすればいいのか、どうなるのかを。そしてわたしに託してくれた。あなたの期待に応えたいわ。
真弓子はもう一度、拳を握りしめて机に手をついた。
この事務所はつぶさせない。
過程はともかく、結果はみちがえるような効果をもたらした。
長谷川とニーナの変わりに、高橋と一平が入って来たことで、よどんでいた事務所はまるで別の職場であるかのようによみがえった。
宇野は格段、何のプレッシャーも重圧も感じていないようで、高橋と和やかに長谷川の仕事内容について引継ぎの会話をしている。おれ体が弱くてごめんねと宇野が言うと、大事にして下さいと高橋が返す。一平は自分で外回りをやれるのが楽しくてたまらないようだった。陽介とあるマニアな方向での話題があうようで、彼の賑やかさが陽介の顔も明るくしていた。
ニーナが出て行って戻ってこなかった時も、宇野は仕方ないんじゃね、と投げやりに言っただけだった。
「彼女なんじゃないの?冷たいわね」
「うーん。付き合ってるっちゃ、付き合ってるけど……」
宇野はたばこを捨てた。真弓子が新規先に同行した時のことだった。
「あいつ、軽いからね。おれも人のことは言えないけどね」
宇野は新しいキャスターを火をつけないまま咥えて、真弓子の方を見ないで言う。
「伊野木さん知らないみたいだから教えるけど、おれ二年前まで、伊勢佐木でホストやってたんだよ。肝臓悪くして、売り上げも落ちてたころに飲み屋街で先生に拾われてさ。お前には才能あるから、仕込んだる言われてその気になってね。この商売、人の気持ちを読むから似てるとこがあって、ああなるほどなあって。だから、黒沼さんには恩があるんだよね」
宇野の長髪に隠れた横顔は、何を考えているかいつもわからないと思っていたが、今は真摯な思いが溢れていた。
「見捨てたくないよ」
二人は、新規先の駐車場に車を止めていた。小さな工場で、駐車場は鶴見川の河川敷に面していた。ここも下町の景色が色濃い。
「ニーナは近くの風俗店の子でさあ。適当におれについてきただけ」
宇野はポケットからジッポライターをさぐって取り出し、慣れた手つきで指を使って着火した。
「最初はなんかすっげえガミガミ女が来たなぁ、やべぇわって思ってたけど」一喫いして煙を吐き出し、目を細めて河川敷の向こうを見る。「言ってること全部間違ってないからさ」
真弓子はいつもより若干肩を落としていた。
「間違ってないからって、全部口に出していいわけじゃないし、言い方もあるでしょって、ずうっと死ぬほど言われ続けてきたわ」
「いや、そこもバランス取ってるでしょ、伊野木さんは」
おれは好きだよ、そういうの。けろっと言ってニッコリ笑う。真弓子も口元を押えていた手を動かして、宇野にわずかに微笑み返した。
「応援する」
「ありがと」
工場が立ち並ぶくすんだ景色の中、鶴見川の上に白い鳥が飛ぶのが見えた。こんな所にも鷺がいるのね、と真弓子は上を見上げ、夏の太陽のまぶしさに顔をしかめた。




