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汀より  作者: 天海 悠
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第二十二話 汐留の空



「もうここまできたら何でもええで」そう黒沼は真弓子に言った。「プロジェクトにすりゃええやん。クラウドとかさっぱりわからんし。姉ちゃんが指揮取りゃええわ」

「そう来なくちゃ。まかしといて」


 真弓子は、スマートフォン用アプリ開発のチーフという事になった。矢継ぎ早に指示が飛ぶ。


「フローと進捗管理表を作るよ。最終日を決めて、その日までに間に合わせるようにスケジュールを組むの。といっても進捗管理表作るのは私で、作業やるのは陽介だけどね。経理はとりあえず、派遣が来るまで私がやる」


 スクリーンショットを確認しながら、特許の書類を確認する。佐藤が見かねて、経理は私も手伝いますよと申し出てくれた。ありがとうと笑顔で返すと、尖った細い眉をゆるめて、少し佐藤は微笑んだ。新規先に黒沼本人が本腰を入れた事で、外回りは楽になり、アプリのおかげで事務も楽になっていた。


「細かい所まで作りこまないと、後でクレームに対応するのがやっかいだわ。きちんと作ってからストアにアップしましょ。テストも必要よね。セキュリティも心配。サーバー増設しなくていいの?」

「レンタルサーバーをかりないといけないと思います」

「初期費用が安くあがるのはいいわ、でもそのレンタル代をしばらく捻出しないと」佐藤に聞く。「この前じいさんから取り戻してきたカネ、まだあったわよね?」

「まだ三百万ぐらい残ってます」

「あれの残りを突っ込んじゃおう。今やってる顧客の掘り起こしも手を抜けないわ。ていうか強化すべき。データ入力の精度を上げて。細かいところから崩れたくないわ。皆の今のスケジュール確認して。あとは広告、市場調査」


 後ろに桂木部長と、高橋、一平といった本社の生え抜きたちが控えていると思うと、タイトなスケジュールもすぐに楽にしてやれるから心強いと、真弓子は思った。黒沼に言う。


「センセイの酒代が浮いたの、かなりのもんだったわ」

「そうかいな?大した量やあらへんで」

「今までどんだけ飲んでたのよ!」

「あのな、伊野木のねえちゃん」黒沼の真面目な声に、真弓子は振り向いた。「本社の派遣のこと、次郎には言わん方がええで。詩子にもな」

「どうして?」

「大塚君がからんどるからや。副社長は次郎の政敵や」

「でも、何でも報告しろって言われてるのよ」真弓子は困惑する。「日報だって送ってるわ。それに勉強会で一緒になるのに、バレないわけがないじゃない。一平なんかあっという間にしゃべっちゃうよ」

「言わへんよ。日報なんぞ、本当に二人が来てから書いたらええ。今はやめとき」


 桂木部長と副社長、御船の間には、何かがあるんだろうか。微かな不安が真弓子の胸に兆す。男女のことはともかく、仕事に関して真弓子は御船を信じていた。彼の力も見立ても、口ではいくら反発はしても、逆立ちしたってかなわないと認めていた。そんな御船に頼っていた。大衆酒場の焼肉店で、額を合わせて相談をしたことを思い出す。仕事のことで御船に隠し事をするのは嫌な事で、真弓子の体が拒否していた。

 胸に困惑を深めたまま、真弓子は腑に落ちない顔で、また仕事に戻って行った。



「御船さんが来てるって?」


 マネーサポート部の小林が同僚に聞くと、今はまだ社長室だよ、と返事が返ってきた。

 汐留の本社社長室からは、御船の低い声が響いていた。


「……はい、……いえ、 副社長にちょっとつかまりました」


 社長室は、意外に簡素だった。壁には種々の書状が並び、立派な額に、相談役の若い顔と、二代目社長の堅実そうな顔がかけてある。ただ、大きくて広い机と、立派なソファーは年代物で磨き抜かれ、年月を経てもいいものはいいのだと頑強に主張している。

 社長は心持ち丸顔でベリーショートに刈り込んだ髪、年よりも若く見え、あたたかい笑顔を浮かべる男だった。その笑顔が消えると、その柔らかかった視線の奥に、外資並みと言われる厳しい鋭さが宿り、その優しさと鋭さの差異に人は圧倒されて、思わず頭を垂れてしまう。今は、社長も御船を迎えてその厳しさも忘れているようだった。自分もソファーに座り、くつろいだ様子でいる。秘書がコーヒーを運んで来た。ちょっと腰を曲げてソーサーを置きながら、二人に微笑みかける。


「いつまでもプライベートがフリーなのは、先を見据えているからか。動くのに自由な体でいたいからかな」

「まあ、そうですね。アジア圏、いいですよね。国内だと閉塞しちゃって。お客さん方にも、もっと気軽に外向いてほしいですね。中小だから、リスキーだからって卑屈に構えずに」


 御船がコーヒーに口をつける間、社長は考え深げにまぶたを落としていた。それから立ち上がって窓に向かって呟いた。


「子供叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だってな」


 社長が目を据える窓の外には、銀色に光る高層ビルの群れがある。ここは四方を屹立する摩天楼に囲まれ、太陽の光が反射するだけで、ここからなら見えるはずの、浜離宮の緑も銀座の賑わいからも遮られている。日テレの特徴的なビルが少し覗いているだけだった。


「少子化で、人材がいないって、ビジネスチャンスは老人の世話、若者は国内思考って本当にそう思うか?」


 御船は社長室のソファに座ったまま、組んだ手に顎を乗せて、そんな社長の後ろ姿をじっと見ていた。


「若者は何の夢も持ってないのか?お年寄りの介護をするだけで人生終わるんだろう、年金も出ないだろうしって、その日暮らしの刹那に甘んじて、夢も希望もなくしちまってるのか?」


 ガラスの摩天楼に囲まれた部屋で、社長は御船を振り返った。


「言われつくしていることだろうが、これからは、価値観の多様化が生んだひずみはもっと大きくなって、摩擦が膨れ上がっていく。貧富の差は増大して、特権階級が牛耳る時代にボーダーレスなインターネットの思考が飛び交ってカオス化している。もうきっと、イデオロギーという信仰よりもっと原始的な所に世界は戻っていくのかもな。でもなあ御船、人は生まれて死んでいくだろう」


 ビルに映る太陽の光がわずかに移動して、社長の横から御船の足もとにまで差し込んだ。


「常に新しい人間がこの世には生まれてきて、年を取った奴は死んでいく。それだけは変わらない。だから、教育が大事なんだ。学校の勉強や、資格だけじゃない。この世の中を乗りきっていく力を、人が人と実際に、ネットじゃなく現実で、関わることで生まれる力を教えたいんだ。そして、この精神を後進の奴らにも、受け継いでいってもらいたい。どうしても」

「そのためにおれが出来ることなら何でもやります。約束します」


 御船はきっぱりと口にする。微塵の躊躇もそこにはなかった。そして、少し照れたように言う。


「俺のような働き方は、社長のようにしっかり後ろで座っててくれる人がいないと、成り立たないんです。心から感謝してます」


 社長の温もりに満ちた笑顔が御船に落ちる。さっきまでの厳しさとは打って変わった朗らかな調子で言った。


「お前の素質をうまく生かせなかったら、経営者としては失格だ。そんな奴に率いられる会社はない方がいい」


 社長はソファーに戻ると、何気ない調子で聞いた。


「大塚君は何て?」


 副社長のことだった。御船は苦笑して、廊下で交わした彼との不機嫌な会話を思い出す。



 詩子との婚約を目前に控える御船は、黒沼一族にあまりにも近かった。社長が内心煙たがり、本音では手を切りたがっているはずの相談役のお気に入りで、多くの社員を鍛えた黒沼税理士の直弟子だった。お前は腹黒い奴だからな、と副社長ははっきり言った。若い社長の側にいて、内側を統率しているのは自分という自負がある。大阪支社を成功させたのも彼だった。社長と御船が共通の展望としている、外国に目を向けるのは悪くない。だが、銀行も内部に経営支援班を持ち、競争が激しくなっている今、まずは国内地盤を固めないと、海外も絵にかいた餅になってしまう。

 廊下でしたそんな話のことを御船が語るのを、社長は笑みを浮かべて聞いていた。


「言わせておけばいい」


 明瞭かつ、厳然とした声だった。さっきの御船に逡巡がなかったように、社長の声にも迷いはない。御船の目を覗き込み、きっぱりと言う。


「お前のことは、僕がケツもちする。必ず。だから全面的に、自由にやっていい。いつまでも」


 社長室を辞する御船に、社長は声をかけた。


「マネーサポート部の小林君が探していたぞ。後で顔見せていけよ」


 ああ、それから、と付け加えて微笑する。


「黒沼税理士事務所が、棚上してた融資の返済を再開したそうだ。市税滞納で差し押さえられてた物件も解除だよ」御船の顔をからかうように伺った。「さすがだな」

「社長、そんなんじゃないっすよ」御船はつい声を出す。相手は声を出して明るく笑った。それからふと真面目になる。


「いつまでも幽霊引きずってては、足引っ張られて憑かれるぞ」


 お祓いに行けよ、と指をさす。それ以上は口をつぐんで、秘めた意味はおくびにも出さない。御船は廊下に出ると、そっと口の中でつぶやいた。祓いたまえ浄めたまえ。

 マネーサポート部の小林隼人が廊下の曲がり角から、ひょっこり顔を出した。御船の方から声をかける。


「おっさんとこ、融資の返済再開したって?」

「あれから、したんですよこれが。ビックリでしょ。て、知らなったんですか?伊野木さんから聞いてないんですか?」

「おれの方がびっくりだわ」


 真弓子は日報にも、経理のことや回収した札束のことは書いていなかった。



 それは去年の秋、十月の出来事だった。本社を訪れた御船に、小林がマネーサポート部から出てきて声をかけた。


「ねえ御船さん。あそこ、本当に大丈夫ですかね」

「おっさんとこ。だめだろ」


 小林は眉を寄せる。「御船さんから、話してもらえないですか」


「一括返済を?あといくら?」

「一千二百万」

「うーん、今たぶんあそこ、五千はあるよ銀行に。追加融資するかねえ」

「おまとめローンとかでなんとかなりませんかね、五千もあったらこのくらい」


 御船はあきれたように言う。


「今のあそこに銀行が真水入れるかよ。しかも、このカネは、ただのカネでもないから」


 真水とは、ニューマネーの事で、まだ借り入れがあるのに追加で融資を増やすことだった。


「カネはカネですよ。それ以上でも以下でもない」

「いやいや、うちとの関係を示すものっつうか、うちとの信頼つうか、これだけ少なくなったのも、がんばってここまで返済したあかしっつうか」

「だからおまとめなんでしょ」


 それはうちはもう関係ないです、おたくを見捨てるよって言ってるのと同じなんだよ、まったく、数字しか見ない連中は、と御船は心に毒づいた。


「相談役は?話通してるの?」

「かまわないって」

「へえ、弟をね」


 見捨てるか?吸収か?と考える。連鎖倒産は避けたいはずだ。保証人をやっている。はした金でも、相談役は懐が痛むのを嫌がるだろう。銀行はどうせ拒否だから、本社と言えど結局どうにもならないのがわかっていて、板挟みの嫌がらせを仕掛けているのかもしれなかった。わざわざプレッシャーかけて何が楽しい?あそこに欲しいものなどないはずだ、と考える。


──いや、あるな。


 息子か、と御船は思い当たった。前から、彼が実家を嫌い、弟の事務所に出入りしているのを気に入らなかったはずだ。


「考えてみてくださいよ、シャア少佐」小林が言う。

「おれ少佐じゃねえし」

「御船さんは、うちのシャア少佐ですよ。ララァもいるし」

「せめてランバラルぐらいにしといてくれよ」


 とりあえず、おっさんの動向は探りたいが、下手なやつではダメだ、と思い、そこに真弓子の顔が浮かぶ。


──あのおっさん、美人にてんで弱いからな。




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