第二十一話 瀕死の白鳥
「大丈夫ですか?奥様の体の具合」
御船は、黒塗りのハイヤーの中で、気遣わしそうな声で尋ねた。相談役の長男でS研の専務取締役である、諒太が隣に座っていた。四十代の専務は、年齢としてはN総合商社の社長と同じだったが、しっかりとした経営者の顔をしている飯尾よりも随分と若く、頼りなく見えた。深くため息をつき、腰を折って膝に手をつく。
「本当に若手役員なんて、気苦労ばっかりで、あいつにも苦労かけてるんだ。この前、病院紹介してくれて助かったよ。いい先生で、奥さんもおれも診てもらったけど、本当に親身に診察してくれて嬉しかった。母もいつも喜んでて、御船さんがいつもうちにいればいいのになんて言うから参っちゃうよ」
「体にだけは気を付けて下さい。他に変わりをやれる人はいないんですから。あなたしかいないんですよ、この会社には」
御船の親身な言葉に、嘘はこもっていなくて、実際に本音を言えば、御船は次男よりはこの長男の方に好意を持っている。とはいっても、五十歩百歩程度の違いではあった。
ちょっとご相談があるのですが、と改まってから言う。
「お父上に会長になってもらって、あなたが代表取締役社長になる、その時期はもうちょっと早めてもいいのではないですか」
「そうかなあ。でもそんなことないよ、まだ若造だから、他の役員たちにも示しがつかないよ」
諒太も悪い気はしない。まんざらでもない顔をしている彼に、御船はさらに言った。
「そろそろ若返りの時期も来ているんですよ。上に年寄りが集まると、社内の空気が濁ります」
「社内の空気も読めないんだよね。弟もこそこそ動いてるみたいだし。この前、飲みに行ったんだろ?何か言ってた?あいつ」
御船はちょっとだけ考える仕草をした。
「社長には内密にと言われていたのですが、専務の耳にはどうしてもお入れしておかなければいけないですね。私は実は父上に、社内の構造改革の骨子を作ることを内々に申し付かっているんです。それで先日、弟さんのお考えも探りたくて飲みに行ったんですが」
諒太の目が、興味深げにこちらを眺めているのを感じて、御船は苦笑する。
「やる気が有り余っているみたいで」
「そうなんだよね、調子がいいだけのくせにさ、いい気なもんだよ。こっちの苦労も知らないで」
「役員たちにも煙たがられて焦っていらっしゃるようです。あの方はもっと重要ポストに就きたいんでしょう。今度の銀行への融資ですけど、連帯保証人に弟さんも名前を連ねてあげたらどうでしょう。今までは社長とあなただけですから」
居心地悪そうに諒太は体を動かした。
「でもそんな事したら、あいつ図に乗らないかな」
「これだけ期待をかけているんだっていう所を示してあげた方が良いのではないかと思うんです。上に立つあなたにしか出来ない事ですから」
御船は、詩子さんをお待たせしていますからこれで、と挨拶をする。車を降りる前に付け加えた。
「弟さんに、もし聞かれるようなら、幹部も弟さんを推していた、と言ってあげて下さい。いい気持ちにもなれば、少しは素直になられるでしょう」
御船、とクラウンから声がかかって、彼は振り向いた。
「頼りにしてる。色々相談させて、また」諒太は車の窓から手を出した。
「もちろんです」
心から出たと思える笑顔、暖かい握手だった。若い専務取締役は、ほっとした顔をする。御船は丁重に礼をして、車は走り去った。
御船が自分の車に戻ると、中には詩子が待っていた。長い髪が今日はバレッタもなく、白すぎるほど白い頬を隠している。ちらりと運転席を見てきたのをよそに、ぐっとギアを入れアクセルを踏む、御船の表情が遠かった。
「詩子、この前は」
「あやまらないで」
御船は詩子の方を見ない。詩子はその横顔に向かって、苦い涙をうちがわに噛みしめて言った。
「高橋さんが諭してくれました」
「高橋が?」
「先生」
「すまなかった」
詩子の唇が何か言いたげに動いたのに、上から重なるように性急な御船の声が響いてきて、彼女は唇を開いて、また閉じた。
あの日高橋は、ミッドタウンのレストランの外に出て、ガーデンの一角で顔に手を埋めた詩子を見つけた。そばに黙ってずっと座っていた。うずくまるようにした詩子の手の中から、くぐもった声が聞こえてきた。
「ほんとうのことを知りたい、そう思って六年間、ここにいます」
高橋は、思いやるように詩子を見た。
「だけど、それがこんなにつらいことばかりなら、叔父が酒ばかりに溺れる気持ちもわかるような気がするわ。この世って、どうしてこんなに綺麗に見えて、こんなに残酷なことばかりなんでしょう?」
詩子の見ている美しい世界が、この世にいる多くの者には目にすることのできない幻にすぎないのだと、誰も彼女には教えてはこなかった。高橋は、少し考えたが慎重に口にした。
「あなたがほんとうのことを知りたいと思うなら言いますが、こうして御船さんを思うあなたの気持ちも、ほんとうなんですよ。あなたをずっと側に置いて大切にしていた、御船さんの気持ちもほんとうではないですか」
詩子は手を離して、濡れて鼻が赤くなった顔を見せてたずねた。
「あなたの伊野木さんへの気持ちも?」
高橋は答えない。詩子は、ハンカチを取り出して頬にあてて言った。
「あなたは私にあきらめろって言わないのね。沢山の人が私にそう言いました」
尽きない泉の涌き出る音が今は悲痛な響きを奏でている。
「川崎の叔父も、秋社長も、広尾の伯母も、数少ない友達も、勉強会に来た何人かの人たちも。あの人は悪い奴だ、だまされている、あきらめろ、お前の相手になる男じゃない、そう言うの」
胸が張り裂けそうな乙女の慟哭だった。
「でも優しいんです。とってもとっても優しいの」
詩子の目前にあるのは、一つ一つが宝石箱に入れるように大切にしてきた、これまでの思い出だった。朝におはよう詩子、と言う声、資料をまとめてくれてサンキューという笑顔、試験の結果をよく頑張ったと撫でてくれる手、コーヒーを入れたなら、俺の好みを詩子はわかってるねと言った。物件を見に行くときはいつもときめきを隠せず、車の横でこれが私たちのデートと思う。電車での移動中、いつの間にか肩に顔をもたせかけて眠っていた。あの幸せを、どうしても手放せない。
──そして私に、キスをした。
「あんな風に優しくされたら、もう他の誰も、見ることはできないわ」
昼すぎのミッドタウンは静かで人通りも少なく、泣けるだけ泣くこともできた。後ろにそびえ立つ高級なショッピングエリアの沈黙が今の詩子には重かった。
「たった二回、キスしてくれたの」
こちらをはっとして見た高橋の顔に、詩子は自嘲的に微笑んだ。
「六年間で二回のキスで、ここまできました。ばかでしょ私。なのに、どうしても離れられないの。十八、九の時に、運命の人に出会ってしまったわ」
風が木々を揺らし、高橋は重く話し始めた。詩子が果たしてその意味を汲んで受け入れられるのかどうか疑問に思いながら。
「私の思うほんとうのことは、あなたの見ているのは、空の幻のようなものだということです」
詩子の労働を知らない手、その指にダイヤが光る。高橋は、詩子の顔を強く見つめた。
「あなたは捨てられますか?その服を、その靴を、その時計、そのジュエリーを。趣味のいいあなたが愛しているその付属品を、あなたを取り巻く世界を、彼のために捨てられますか?」
思いもしない言葉を聞いたように、詩子は顔をあげ、高橋の顔をまじまじと見た。
「今、御船さんのために、すべてを捨てていますか?何も失わずに、あなたの世界に、御船さんを所属させようとしていませんか?」
吹き荒んでいた風も消え、急にあたりにまた沈黙が落ちてきた。高橋の静かな声は染み込むように、詩子の中に入って来た。
「すべて捨ててなお、御船さんがあなたを振り向かなかった時に、あなたは一人で生きていけますか?」
詩子は少し考える。
「出来ない。無理だわ。先生のいない世界は考えられない」
腕に巻いたお気に入りの時計を痕がつくほど上から握りしめる。
「私がわがままなの?伊野木さんは捨てるかしら?先生のために。先生は伊野木さんのために何かを捨てる?私にはそうは思えないわ。私が私のままで先生を愛してなぜいけないのかしら」
言いながら詩子の脳裏にまざまざと浮かぶのは、土日も何かと理由をつけて真弓子を呼び出そうとしている御船、つい先のような、自分に向けられたならとても耐えられない、立っていられないような声を受けても尚、見返す真弓子だった。先生は、私にはあんな怒りも、膨れっ面もなく、全身で喜びを表す表情も見せてはくれない。考えれば考えるほど、全ての意味が開かれていく。
「伯父が、いとこたちが、結婚の準備をしろというの。いつまでもずるずるしないで、そろそろちゃんとしような、御船もそのつもりだよって。あんな風に言われたら、浮き足立って期待してしまうわ。今でも期待してる」
あの水道橋の真弓子の家の前では、ただ存在だけを知った。今は意味を知ってしまった。なぜあの時に気付かなかったのか、自分でもわからない。
「逆がわにいるわたしが囁く時もあるの。キスしかしてないのよ?そうしたら母が、あなたを大事にしているからよと言うの。今どき立派な青年、えらいわと、その言葉でまた期待に引き戻される」
あんな、真弓子に対して言い訳をするような、後ろめたい顔なんて見たくなかった。
「川崎の叔父の事務所で先生に出会ってから三年よ。独立して一年までが、夢みたいにしあわせ、だった」
恐れて言葉にしなかったものを、一度口にしてしまえば、溢れだして止まらない。胸のネックレスが揺れて、ダイヤに反射する光がこぼれ落ちる。
「あんなに自分も他人もコントロールできる人が、どうしても隠すことができないの。伊野木さんはなんて不思議、どうしてあんなに平然としていられるのかしら。とても想像できないわ。でも伊野木さんは」
高橋は穏やかに遮った。
「真弓子さんや御船さんのことを話しているんじゃないんです。私が話しているのはあなたのことで、あなたがそういう風に生まれついたというのは変えられない。真弓子さんはそのままで存在していて、きっと御船さんがいなくても生きていくことができるでしょう。御船さんもそうかもしれない。でもあなたはどうでしょう?」
「依存していると、言いたいの?」
「執着と愛は違います」
「重たいのね、わたしの思いは。だから先生は、背負えないの?」
高橋は口をつぐんでしまう。もし彼女がまだ男女のことを知らないのなら、キスの一つや二つでこれだけ思いつめてしまう女心の悲しみなど、深い海のただうわずみの泡をすくっているようなものなのに、と。
涙を払って、詩子は気丈に前を向いた。
「でも、執着なのか愛なのかって、わからないことよ。もしかすると執着だって過ちではなく、必然で、必要なことなのかもしれない。でなければ、これほどの吸引力を説明できない」
あのキスは、それだけのキスだった、と詩子は思う。私の人生をかけて、この人を求めさせてしまうような、この人以外、世界にいないように思わせた。
「受け入れます、全部。先生の全部。悲しい女心かもしれないけれど、私は先生のそばでしか生きられない。かまわない、先生が夜に彼女を抱きしめていても、朝にわたしのそばにいてくれるなら。それが愛なんでしょう?そうなんでしょう」
真弓子はそんなこと、決して潔しとはしないだろうし、御船もそれを知っていると高橋は思う。
「御船さんは、詩子さんのその気持ちに何と言っているんですか」
「まさか、聞けるわけないわ」
高橋の方が驚いた顔をした。
「だってそこで終わってしまうのよ。先生、私の事をどう思っているんですか、私は先生が好きです、愛しています、って。それで先生が、否、と言ったら?」
世界の終わりよ。
「もう、生きていけないわ」
詩子が川崎の叔父の事務所に、突然訪れた日があった。工業地帯の川崎は、そのころ再開発が進み始めていたとはいえ、彼女には全てが物珍しかった。東口に降りて、アトレの傍を通り過ぎ、地下街に降りる道の横を抜けるバスターミナルの横を通り過ぎると、仲見世通りの商店街が見えてくる。詩子は、チネチッタの方角ならば、人通りの質も少しは違うと知らなかったから、そのまま仲見世通りに入ってしまう。飲食店に交じってそこかしこに風俗店が目に付いた。横に抜けたアーケードを越え、看板から微笑みかけるキャバクラ嬢の横を通り抜けて、路地に入ってまた曲がると、そこに事務所があるはずだ。歩いている人も、昼なのに汚れた身なりの痩せた男たちが多い。川崎競輪と川崎競馬場が近いのだ。
「どうしたんや突然。びっくりするわもう」
甲高い声がして、叔父が慌てて入ってきた。
「仲見世を抜けて来たんか。お前の家からここに来るには、南武線に乗るしかないんやで。お父様に怒られるがな」
「お父様は気づかないんですよ、そういうの」
「じゃあお母様はどうや、姉さんはどうしてる。元気か」
そうね、と曖昧に答えて詩子は座った。ぎごちなく、周囲を見回した。何もかもが物珍しい。ここには生きて動いている職場の空気があり、働く生活があった。どれも詩子には今まで縁のないものだった。
「戻ったか、次郎」
扉が開いて入ってきた若い男は、175から180ほどまでの長身が印象的だが、圧迫感はない。それほど恰幅がよいわけでなく、かといってひょろっとしているわけでもない。均整のとれた体つきに、薄い茶色の鋭い目が笑顔になるとくしゃっと歪んで、何とも言えない愛嬌を宿す。
「田園調布のお嬢様やで」
「へえ、家近いね。おれ武蔵小杉だよ」
「まあ、たったの三駅なんですね」
「三駅いうても、えらい違いやがな」
土地の名前で相手の声のトーンが変わるのに慣れていた詩子は、御船の気さくな挨拶が嬉しかった。低い静かな声が、胸に染み込むようだと思った。
白砂家に嫁いだ詩子の母は、おっとりとした世間知らずの典型のような人間で、詩子は田園調布の中では普通の子と思われていたはずだ。家もそこそこ広いが、豪邸ではない。だが、父と母の仲はよくなかった。父は母を馬鹿にしていて、母は父を優しさのない人、と思っていた。どちらも真実、詩子だけが二人の絆で、特に母は詩子を溺愛した。母方の実家に出入りすることの多かった詩子は、一風変わった美しい少女として伯父伯母にも、従兄弟たちにも愛された。
その頃からもう、川崎の叔父は何とはなしに一族の鼻つまみ者で、事務所の位置や、わざとのような関西弁だけでなく、等々力の伯父が公認会計士や銀行マンなど有志五、六名で創設した会社の中で孤立していたこと、勢力争いを拒否して個人事務所を立ち上げ、中小企業に寄り添うように営業をしていたことなど、詩子には知るよしもない。だが詩子は川崎の叔父が好きだった。彼は自分を本当に理解していてくれると思えるのだった。
十九になって、このままでいるわけにもいかない、と詩子は考えた。そろそろ自分で決めたいの、と詩子は母に言い、川崎の叔父の事務所で働き始めることにした。詩子の頭の中には、あの男の姿が浮かんで離れなかった。
川崎、しかも東口の競輪・競馬が近い場所でなんて柄が悪いと、父は絶対に反対するだろうから、詩子はお習い事に行っている、ということになっていた。詩子をかわいがっている父方の伯母が、生前贈与で高級マンションを一つ、くれていた。川崎の叔父は詩子を早くに上がらせる。時折、御船が駅まで送ってくれたり、車で送ってくれたりした。それだけで幸せだった。
それは、迷って歩いて歩いて歩いたあげくに死んでしまいそうな草の海の中のこと。
御船の独立の決心を止められなかった黒沼は、それでも不承不承、次郎の決めたことやから、と言った。詩子と陽介は、お別れにと野外ピクニックを企画して、めったにいかない所と宮ケ瀬湖まで足を延ばし、事務所の者たちも参加した。
詩子は川を求めて歩いていた。周囲には誰ひとりいない。川辺に腰を降ろし、魚たちを見つめる。さっきまで陽介がいたが、どこかではぐれてしまったようだ。
ふと草原の中で「陽介?」と呼ぶ声がした。息が詰まって立ち上がれない。
「陽介、大丈夫かあいつ」
草をかき分けて現れた御船と歌子は思いがけず顔を合わせ、二人、何も言えずにお互いを見つめていた。
「陽介を探してたの?」
詩子は、にっこりしていた。どこか所在なげに。川から少し離れた草の海の中、詩子は膝をかかえ、御船は寝転んでいた。ぽつりぽつり、会話を交わす。
こんな近くに二人きりでいるのは初めてのことで、どんなに詩子が緊張に緊張を重ねて死にそうな気持ちでいたことか、御船は知らない。二人でいること、詩子がこんなにも近くにいることを、御船が拒むだろうと思っていたからだ。なのに、御船は何も言わない。
「頑張ってきたな、俺たち」
心でだけ、子供みたいに泣ける。ぐっと我慢して詩子は歯を食い縛った。今ならこの気持ちを解き放って言えるのかもしれないと。起き上がって草を払い、背を向けた御船に、後ろから真っ白な柔らかい手が回った。
「先生」
腕に包まれた背中は、詩子の熱い声と押しあてた頬に反応した。その緊張に、詩子は何も言わなかった。御船もただ黙って抱かれていた。
「御船さん」
詩子はもう一度つぶやいた。優しい響きだった。その声と腕の強さに、御船は詩子が恐怖を必死で押し殺しているのを知った。御船はゆっくり振り返った。
川崎の叔父の声がする。
「詩子──」
二人は、草原の中に伏せていた。
「いいのか?」
「しっ」
かすかな笑い声が聞えたような気がして黒沼は足を止めるが、また歩きだした。
御船は上体を起こして、詩子の顔を見つめた。彼の顔が降りてきて、詩子の顔にキスをした。羽が触れるくらい、頬骨、まぶた、ひたい、耳の上、性急さの影もなく。
そしてゆっくりと、唇を重ねた。
「先生だけが、現実と私を結ぶよすがのように感じることがよくあるの。でなければ、私は糸の切れた風船みたいに、空想の世界を漂うしかない。私は確かに、お金に困らないわ。働く意味も本当はないの。ただ生きていて、相手を適度にピックアップ、結婚して、子供を産んで、なんとなく暮らしていくなんて、怖いの。想像するとすごくこわい」
まぼろしを追う詩子の目が、沈痛で優しい高橋の目と合った。
「そういう時はいつも、夜もすがら、先生のことだけを思い浮かべているの」
詩子は空を見上げた。この喧騒に満ちた東京の只中で、今彼女は自分が何の音も届かない穴のような場所にいると感じた。
「ふわふわ、どこにいるのかわからない。自分がどこにいるのか、全然、わからない。ただわかるのは、私を今いる世界に引き戻してくれるのは、先生がそばにいる時間だけ」
また目に涙があふれてくる。
「伊野木さんにすがって頼みたい。あの人を連れて行かないで、彼女は一人で生きていける。私にはあの人しかいないんです。一緒でなければ、生きていく意味もない。伊野木さんが先生をはねつけてくれたなら、私のところに戻って来てくれるかしら?彼女ならきっと、何を心配しているのよ大丈夫って言ってくれる」
またハンカチに顔を埋めた詩子に、高橋は言う。
「人は認めたがりませんが、終わりは必ず来るもので、人生と同じです。いつかは終止符が打たれるもの。それは僕たちも御船さんも一緒で、別れや死は真正面から正視できない。この世の中に、ほんとうもうそもないんです。そう私は思っていますよ」
"僕たち、死んだらどうなるんだろうか"※1
──カムパネルラだわ。
"僕たちもあの星も同じ炭素体なんだって。
だから、死んだら空にもどってこんどは別の星になるんだきっと"※2
空にひらめく白い翼に向けて、愛する詩を繰り返す。「想稿・銀河鉄道の夜」。夜の空のように青い、この本を読むたびに空に手を伸ばしている気持ちになる。この本をいつまでも手放せないように、御船への気持ちもまた手放せない。
"素粒子の位置と速度が同時に求められないように、素粒子で出来ている僕たちは自由自在だ"──※3
詩子は唇を噛みしめた。
北村想のこの本のこの言葉が、わたしの中で一つになって生きるように、あの人への気持ちも一つになって安らかに過ごせたら。きっと私もあの空で、カムパネルラと一つになれるわ。きっとなれる。
引用
※1・2・3
「想稿・銀河鉄道の夜」北村 想(絶版)(192ページ)




