第二十話 クラウドアプリ
「この事務所に隠し玉みたいのはないわけ?ドラマによくあるみたいな、在庫に眠ってる商品とか。売れる実態が欲しいわ。モノが欲しい」
黒沼には偉そうに、人を育てなきゃとはいったが、その人がない。スケジュールもこれ以上はギリギリで、宇野の負担を増やせない。棚の壺や壁の絵を売れそうねといじくったら、それレプリカだよと長谷川に言われた。
以前は、伝説の税理士として、口先三寸でやってきたと真弓子に語った黒沼は、そこで声のトーンが一回り落ちた。
「結婚して、守るものができるとな、変わるんや。冒険はできなくなるし、失敗しても、どこにも逃げる場所なんぞ見つからん。だから、守りに入る。しかも嫁さんには先立たれてな。年取って来ると昔、ガンガンやってたような、上澄みだけとってカスを捨てるような真似が、今度はできんようになったんや。昔ならこらあかんわって投げ捨とったような先に、わざわざ時間取って付き合って、延命どうしたら出来るやろうかと考えてな。愚痴につきあい、話に乗って慰めをするようになった。コンサルやのうて、カウンセリングやな」
手の中の茶色の液体が、グラス回りについた水滴一つひとつに映っている。その一滴が膨れ上がってぽとりと落ちてしみを作った。
「皆、つらい気持ちを抱えとるんや。商売うまくいかんだけでのうてな。客にはバカにされ、新しく越してきたお高く留まったやつらにもバカにされ、そういう奴らは口が達者で上から文句いってきよる。だが、ずっと毎日ここで生活をしてきよったのは、こいつらやからな。わしは自分を重ねてるのかもしれん」
「それでセミナーもやめたのね」
「だましてるような気になってきてな。心苦しくて、しかも自分の言葉にも自信が持てへんようになった。上段に上がると、真っ黒な頭が出揃いよって、その中に目が一斉にこっちを見よる。脚がすくんで動かん、舌も動かん、そんな夢を見るようになって、これはあかんと思うたんや」
黒沼は、ストレートをもう一度飲み干した。
「ねえちゃんが新規行け言うなら仕方あらへん、行くわ。けどな、講演だけは、もうどう足掻いても、無理やろうな」
仕方がないので、今度は真弓子はパソコンをいじくった。
「このS研の『四天王会計』ってどうなのよ?税務(確定申告)・決算書・給与計算・顧客管理の四天王」
佐藤が答えた。
「会計ソフトウェアですよ。大手むき、パッケージ販売じゃなくて、法人向けで大がかりに、サーバー構築から使い方まで、全部コンサルティングこみで請負います。ウン千万の大型受注ですよ」
それじゃ、ライセンス契約結ばせてもらって売るっていうのも厳しいか。真弓子が難しい顔をして考え込んでいる横で、のんきに明るく、陽介が携帯をかざす。
「うちはこれ。四天王を見よう見まねで作ったアプリで、クラウド型アプリケーション。スマホで入力。会社のサーバーへ直接送信するんです。僕が作ったんです。えへへ」
おもちゃみたいなものですよ、と子供みたいな笑顔を見せる。携帯に頬をすりよせ、もうかわいくって、と言い、ニーナにまじでキモいからやめてと言われている。
「経理さんいなくなってから、無理やりやらされてたでしょ。真弓子さんにどっさり経理の資料を渡されて。家とか、スマホで余暇使って出来たら便利だな~と思って…どうしました?真弓子さん?」
陽介は首をかしげる。真弓子がこっちを指して、口をパクパクさせている。
「取れ!ライセンス、取って!」
「ライセンス?」
「ライセンスじゃない。登記じゃなくて証明じゃなくて、えーと」
宇野が横から口を出した。「特許?」
「そうそれ」真弓子は指を鳴らす。見事に音が出てオフィスに響いた。「陽介、売るの。今すぐ売って。ストアにアップロードして、早くして」
「そんなに早く特許降りないですよ、っていうか特許ってどうやって申請するんですか?」
「降りようが降りまいが知ったことじゃないわ。出願中って言えばいいのよ、先に出したもん勝ちでしょ」
あ、競合調べよ、とパソコンに向かい、真弓子はしゃべり続ける。
「まあ、競合があっても関係ないけど。ダウンロードできるように!早く!今すぐ!」
「まあ待って、伊野木さん」宇野がなだめる。「陽介、そいつの仕様書とスクショをわかりやすくまとめてきて、明日、明日。トーンダウン、ね、伊野木さん」
真弓子の背中を軽く叩く。ついでに肩まで揉んできた。こいつほんとに気安いな、と眉を寄せ、身をひねって逃れたら、ニーナが鬼のような形相でこちらを見ていた。
翌日になると、確かに真弓子はトーンダウンしていた。
「落ち着いてみると、若干ダサいわね。それに細部の作りが甘いわ」
ショックを受けている陽介をよそに、資料をまとめて立ち上がる。
「ちょっと聞いてくるわ、コラボできるデザイナーが誰かいないか。キティちゃんとか」
「キティちゃんはやめて下さいよ!」
「ついでに特許関係の請負業者も紹介してもらう」
真弓子は陽介の腕をつかんで、引っ張った。
「あんたも来るの!」
いやですよ、御船さんになんか会いたくない、うるさい黙れ私じゃ説明できないでしょ少しは外に出たらどうなの……声が消えたあと、ニーナがひどく怒って長谷川相手ににわめいている声だけが事務所に響き渡っていた。あの女が来てから陽介、振り回されて、事務所のことも何もしないし、宇野さんを引っ張り回されて仕事は増えるし、全部の皺寄せがこっちにかぶってきてるんですよ!
長谷川のなだめるような声、そうキーキーなりなやとのんきに言って、余計に彼女を逆なでする黒沼の声も、押し黙ってニーナを暗い顔つきで眺める佐藤もほったらかしのまま、宇野がかまわずに帰り支度をしようとしていると、電話が鳴った。
「センセー、電話だよ」
「誰からや?」
宇野は片手で電話を上げながら、もう片手でタバコを探す仕草をした。
「桂木さんて人」
陽介を引っ張って人を避けつつ、川崎の路地を抜けながら、真弓子は途中で御船に電話をする。今会える?という彼女の声、その向こうから陽介にも覚えのある、 あの低い落ち着いたトーンの声がかすかに聞こえる。
「昼過ぎ、今クライアントの所から出た所で、少しなら事務所に戻れる、詩子ちゃんはちょうど用事でいないそうよ」と真弓子は言った。武蔵小杉に着いて駅を抜ける辺りで、陽介は既に蒼白になっていたが、真弓子はかまう様子はない。
事務所のドアは御船によって開かれた。陽介が知らないことではあったが、真弓子にとってはあの時の争いなど、嘘のような御船の明るい笑顔だった。それが真弓子の真面目な顔とぶつかり、はじけて、それから御船ははっとして陽介に気付く。一瞬のとまどいを隠して、こちらも愛嬌のある笑顔で迎えられた。
「よう久し振り、陽介」
それだけでもう、陽介は動けなかった。前ほど顔色青くないじゃん、あれからどうしてた?と御船は声をかける。温かく、彼を気遣う声だった。
「こいつにしごかれてない?容赦ないだろ」
こんな所にまで連れてこられて、とまた慌ただしくパソコンに向かう。
「だが俺も忙しいんでね、手短に頼む」
「こっちだって、企画書なんて作ってる余裕ないの」
真弓子がきびきびと言う。
「またおれ、タダ働きか?何かくれんの?」
「成功報酬で何%か言ってもらえたら正式契約結びましょ」
御船は無造作に手を振った。
「もう来んなお前。仕事のジャマ」
答えがないので、視線だけあげたら、真弓子は何やら携帯に向かっている。御船は声をかける。
「企画書メールしろよ」
「いま送った。企画書替わり。見てよ!見るのよ!」
あわただしく去っていったヒールの足音を確認して、仕事の振りをしていたPCから顔をあげ、通知が光る携帯の電源を入れる。
『デザイナーと、特許が欲しい』
「……んだよこれは」
通知が光って、真弓子は携帯を取り上げた。
「ほらきた。あいつ本当はこういう展開、大好きなのよ。スクショは電車で移動中の間に送っておいたの。見てないはずがない癖に。アポ取れたわよ、IT特許専門コンサルは本社、デザイナーもそいつが紹介してくれる。行くよ」
ちょうど来た電車で都内に移動しながら、陽介の真っ青で震えていた足はやっと感覚を取り戻して、普通に話せるようになっていた。陽介があれほど恨んでいると思っていた思い出の中の御船が、突然目の前に血と肉を持った生身の人間としてよみがえった。彼は陽介が川崎に来た当初から彼のことを気遣い、よく声をかけてくれていた。彼と詩子がいなくなってから、黒沼の叔父は酒におぼれ、誰も構ってくれなくなった。真弓子がここに来るまでは。
つり革につかまったままで無表情の真弓子に、ねえ真弓子さん、と語り掛けようとした時、真弓子の携帯に、着信の通知が入る。
「桂木部長だ」
ちょうど横須賀線が品川駅に乗り入れた所で、真弓子は携帯を耳にあてながら足早に降りる。
「ええ、今品川にいます。本社に今から行きます。そうですか?わかりました」
電話を切ると、陽介に言う。
「IT特許のコンサルとデザイナーとの打ち合わせは任せたわ。私は本社で別口の用があるから、よろしくお願いね」
「僕が!?」
あのね、と真弓子は陽介のシャツの胸を掴んでこっちを向かせた。ひょろりとして、御船より背の高い陽介だが姿勢は悪いし、真弓子もそれほど背が低いわけではない上、ヒールを履いているから、陽介の鼻の頭ぐらいの所に、真弓子の大きな眼があった。
「前にも言ったでしょ。あんた今まで、IT系ならパソコンだってソフトもハードもクラウドも、誰に何を聞かれても全部答えられたじゃないの。私がその専門コンサルとの話にいたって、ただそばにいるだけよ。いい、あなたなら絶対に大丈夫だから。もう一度言うわよ、もっと自信を持ちなさい!」
品川駅の人込みはいつもながらに凄まじく、立ち止まっている二人には、次々に肩がぶつかり人が通り過ぎていく。真弓子の目を見る陽介の前髪と眼鏡に隠れた顔は泣きそうで、それでももう、陽介が自分でも気が付いたのは、もう手も足も、あれほど震えはしていないという事実だった。
本社で陽介を特許専門のコンサルタントに預けた真弓子は、小会議室に向かった。扉を開くと、懐かしい銀縁眼鏡が両手を広げて待っていた。
「真弓子ちゃん!おみやげありがと、愛してる。バリバリやってるみたいでとっても頼もしいわ」
真弓子はかまわず、性急にさえぎった。
「部長、お願いがあるんですけど、経理いなくなって人員が足りないんです。派遣をひとり、お願いできないですか?」
「御船はなんて?」
「実はまだ言ってなくて」真弓子は顔を赤らめてしまう。キリエの力とはいえ、ほぼ脅迫か詐欺のような事情で金を出させて追い出したとは、さすがの真弓子も言いづらい。
「ケンカでもした?」
「違いますよ。言いそびれちゃって」
「いいわ、あたしから人事にも御船にも話しておく。いま、御船はちょっと忙しいみたいだし。でも奇遇ね真弓子ちゃん、グッドタイミング!あたしたちって本当に気が合うよね」
「部長が言うと怖いです。嫌な予感しかしません」
またまた、と肩をバンとやられて、「あたしからも話があったの」と振り返ったちょうどその時、小会議室の扉が開いて、入ってきたのは黒沼だった。真弓子は凝視してしまう。
「センセイ、ここで一体、何してるの?」
「今廊下でも聞こえたが、伊野木のねえちゃんを怖がらせるって相変わらずみーちゃんもかなりのもんやな」
みーちゃん?と桂木部長の顔を見ると、すまして言う。
「そうよ、私も前、あそこにいたの」
「部長が!?あそこに?初耳ですよ、どうして話してくれなかったんですか」
「だって真弓子ちゃん、人の過去の話なんで全然自分から聞いてくれようとしないんだもん。あたしだって言いそびれちゃったのよ」
やっと席を勧められて三人が座ると、桂木部長はさらに言った。「御船とも、ちょっとだけ時期が重なっていたのよ。ララァちゃんはあたしを知らないけどね」
「誰?」
知らんがな、と黒沼も首をかしげた時、また扉が開いて、今度入って来たのは、コンサルタントの高橋順也と、若手アナリストの鈴木一平だった。桂木部長が黒沼を振り向いて言う。
「黒沼先生、この二人。またよろしくお願いします」
二人が丁重に黒沼に頭を下げ、黒沼がニコニコしながら二人を受け入れているのを唖然として見ている真弓子に部長が言った。
「昔はあそこが、うちの修行場だったことを知っている?こここそが、もとの勉強会の受け入れ場所だったのよ」そして声をひそめた。「いま、御船も忙しいって言ったでしょ。そして副社長が、ここを復活させたがっているの。あたしも賛成」
それから、また普通の声に戻って明るくガッツポーズをする。
「返済再開、売れそうな商品発見、先生禁酒。ね、あたしが言ったでしょ。真弓子ちゃんはやっぱりできる子!」
「本社があんたのような玉を捨てるかいな。クビやて思いつめとったんかい、アホやなあ」
黒沼があきれたように言う。
「真弓子ちゃんならそれくらのプレッシャー、逆に力に変えてくれるって、信じていたわ。若干、人が悪いとは思ってた。あたしもあえて黙ってて」
どう事態を飲み込んでいいのかさっぱりわからないまま、こめかみを指で押さえたまま動けなくなっている真弓子に高橋が近付き、笑顔で手を差し出した。
「お手伝いをしたいと思います。真弓子さんと……」少し間があって高橋は色白で面長の顔をそれとわからないほど微かに紅潮させる。「白砂さんのためにも」と、きっぱりと言った。
静かで穏やかな、高橋の想いが伝わってくるようだった。
「で、なんであんたも来るの?」
「伊野木さんヒデェ」
おれずっとこんな扱い受けるの?この怖そうな人の所で?お調子者の一平も加わって、賑やかに会話している横で、黒沼は去年の暮れにかかった一本の電話のことをはっきりと思い出していた。
──黒沼先生!
──みーちゃんかい。久々やな。ワイのこと忘れんといてくれたんかい。
──そうそう、みーちゃんよ。久しぶりに一人、預けたいの。
──今更ワイの出番はないやろ、Off-JTかて次郎がやっとるやないか。
──もうね、そっちが厳しいのはわかってるし、どうかなぁって思うんだけどね、御船の人選で私のお気に入りでもあるの。これが最後だと思って、鍛えてやってくれない?
──給料払うてやれるか厳しいで?
──そこは、全額うちで持つわ。
──えらい太っ腹やな。相当のしろもんかい。
──ええ。名前は伊野木真弓子。相当のしろもんよ。きっと黒沼先生、気に入るわ。
今はまだ、うちうちの話だから、顔合わせだけで誰にも言わないでくれと頼まれ、黒沼を後に残して真弓子と陽介は先に事務所に引き上げた。新橋から東海道線で川崎へと戻る。外はもう黄昏、電車の窓には最後の陽光がガラス越しにまぶしく射してきていた。
陽介が口を開く。
「あのね、真弓子さん」
「何?」
「あの時の何かくれって言うのは、真弓子さんに、デートとか、そういうの期待してるんじゃないんですか、あの人は」
真弓子は目もくれなかった。一笑に付した。
「いとこちゃんに悪いじゃない、どうしてそういう事言うの。知ってるんでしょ」
陽介はちらりと真弓子の方を見た。久しぶりに目にした御船は、いつの間にか陽介が想像の中で作り上げていた彼の姿と、あまりにも違っていた。陽介が見た、扉を開いた御船の真弓子を見る目、打ち解けた表情と話し方は、懐かしさと、楽しかった頃の記憶が流れ出した以上に、ひどく彼を驚かせた。御船は陽介が来るとは知らなくて扉を開いたから、無様な姿を受け入れられて許されたと感じた男が女へ持つ心が、そのまま見えてしまったのだ。
「昔から、詩子さんは御船さんに合わないって、思ってました。夢中になっちゃってるのはわかってて、遊ばれてるっていうか、本気を感じないっていうか」
「わたしならいいわけ?」
「違います、真弓子さんは対等です。詩子さんは、下からうっとり仰ぎ見てる感じです。僕もそうなってしまう。萎縮してしまうんです。でも真弓子さんは」
「何とも思ってないからよ。あっちもそんなつもりで言ってないでしょ」
あんな表情と声、決して詩子には向けることはないだろうにと、陽介は詩子の気持ちを思い胸がつまった。純粋培養の容器の中だからこそ、見えたのだが、彼には知るすべのないこともある。
真弓子は知っていた。たとえ意識が蓋をしていても、からだは知っていた。
つい前日に唇を重ねた当の詩子の目前で、真弓子に後ろめたさを感じていることを御船は示した。夜を過ごした女ではなく、他ならない詩子を御船が泣かせ、傷つけてまで真弓子に感情をさらけ出した意味をわかっていた。
だから真弓子は御船を許したのだ。
二人の間の距離を越えて届く男の心を全身で受け止めて、一指も触れさせないまま、彼のために泣く女の涙さえ気持ちがいいと感じている女のずるさ、卑怯さ、残酷さに、真弓子は自分で気付いていない。
もう十分に真弓子は御船の腕の中にいた。このままで終わるはずがなかった。
それでも真弓子はそんな好意など気紛れに、すぐに過ぎていくものであるだろうと、蓋をして座り込んだ意識の上では思っているようで、ただひたすら黙ってつり革につかまったままで前を向いていた。




