第二話 出向
「黒沼税理士事務所、ですか?」
真弓子はただ、鸚鵡返しにつぶやいた。
「伊野木さんがうちに転職してから、およそ二年だね」
人事部長と直属の上司であるメディア部長に、仲良く膝を揃えて並ばれた。
居心地悪く机の下で足の位置をずらして、真弓子は、飛び込みの中途採用なのに、働かせていただいて本当に感謝してます、と一応殊勝な返事をしてみせた。
キリエに送ったメールにはこう書いた。『そうねあの会社、今いる部は女性が多いの。小綺麗だし、活気もあふれてて、私の直属の上司も女性なの。銀縁眼鏡をかけて、キャリアウーマンて感じ、でもひょうきんで冗談が好きよ。仕事はすっごく出来るひと。気があうし、可愛がってもらってると思ってる。IT化も進んでて、決裁や報告も、全部グループウェアでやってるわ』
『今時っぽい会社に聞こえるね。うちなんておじさんかお爺さんかって感じなのに』
『何より、給与が上がったのが本当に大きいわ。塾講師はどんなにがんばって節約してもキツかった。中途採用扱いでもオッケーって、超ラッキーだったかも』
N総合商事は経営・ITコンサル中心の中堅企業だった。銀色に光る高層ビルに囲まれ、スーツ姿のビジネスマンが行き交う汐留で、二十六階建てオフィスビルの中上階四フロアーを使用している。配属になったメディア部キャリアデザイン課では、真弓子は営業活動もやって、課外の月八回のセミナーやイベントのスケジュールもこなした。去年の十月には、アシスタントのチーフを任されるまでになっていたのだ。途中採用で雇われたからには、期待に何とか応えないとと必死になり、忙殺されてもいたけれど心から充実していた。
「こちらこそよ、真弓子ちゃん」
部長は細い銀縁眼鏡の四十代で、キリエよりよほど女史という言葉に似合う。だが明るくて闊達な人柄で、真弓子とは肌が合った。
「うちの勉強会にも出入りするようになって一年よね、つかみはどう?慣れてきた以上に、利益出せる仕組みを自分なりに企画できると思う?」
この質問は危険だった。真弓子は答え方を間違えたくなかった。
「あの勉強会では、飛び交う業界用語と、その意味、理論にまず慣れるのが大変で、とりあえず今は、ついていけるようにはなりました」
『その代わり、実績には凄くシビアなの。外資並みって言われてるらしい。今のトップが厳しいって』
入社しておいて何だが、コンサルタントなんて実は苦手な部類に入る。コツコツ何かを作る職人気質に憧れるのだ。今はキャリアデザイン課だからやっていけてると真弓子は思っている。外部の御船も所属している怪しげな勉強会に、無理やり入れられ緊張の連続だった。遠慮のない御船にいつもバカ呼ばわりされて終わりだから、予習だけはいつも欠かさなかっただけだった。
部長二人は意味深な目配せをしてから、手を前に組み、さて本題に入ろうとしていた。
「実はね、難しい仕事を請け負って欲しいの。それも、出向という形で」
「出向後の業務内容は何ですか?」素朴な疑問をぶつけてみる。まさか税理士事務所でキャリアプランニングをするわけでもないだろう。
「黒沼先生のアシスタントかな」
私、税務の知識はちょっとと言いかけ、企業人として無理という単語がはばかられて、そこは飲み込む。頬骨が張った人事部長が口を開いた。
「誤解しないで欲しいけど、決して左遷ではないから。あそこには、うちからのジョブトレを兼ねての出向、以前はよくしてたんだけど、最近ね」
言いにくそうに口をにごした横から、銀縁眼鏡の部長がケロッと吐いた。
「あのね真弓子ちゃん、実はそこ、うちからの融資がまだ一千万ほど残っててね、このままじゃ踏み倒されちゃうかもしれないの。そこをね、真弓子ちゃんの力でね、一つバアァーンとね!業績をアップさせちゃって」
胃が飛び出るほど仰天したのは、数秒後のことだった。
「出来る訳ないじゃないですかそんなの!入社して2年のペーペーですよ私?しかもコンサルティングファームに所属してるわけでもないのに」
「できる!真弓子ちゃんなら」
部長は、体を前にのめらせて、テーブル越しの真弓子の手をしっかりつかんだ。
「真弓子ちゃんはやればできる子!大丈夫!」
「部長の大丈夫ほどあてにならないものはないじゃないですか!危ないイベント企画バンバン立てちゃって、スケジュール繰りにどれだけわたしが苦労したと思ってるんですか」
「そうよ、でも真弓子ちゃんはやってくれたよね。真弓子ちゃんが来るまで、若い子たちにけっこう苦労していてね」
「部長の要求が無茶だからですよ」
「真弓子ちゃんが来てから、うまく回り始めたの。あなたのすごいところは、普通の人なら言いにくいから我慢ちゃうところまで、ガンガン指摘しちゃうところ。……普通の人なら若干、引くぐらい」
「ほめてないでしょ」
「いい大学出のカリカリばっかりやってた子は動かない・人まかせ・指示待ち。真弓子ちゃんはできる子!ぜったい、ぜったい、だいじょうぶ!」
* * *
「本社、そんなんばっかだな」御船が笑う。「桂木さん、相変わらず」
「それで、あとはあんたに聞いて指示を仰げって言われたのよ。どうして?あんたはあんたで、横浜まで呼び出すしさ」
御船は黙って口もとに笑いなんだか蔑みなんだか得体の知れない歪みを浮かべ、楊枝をただ咥えていた。とりあえず行くか、と立ち上がるのを畳み掛ける。
「今日は詩子ちゃんいないのね。アシスタントの仕事内容とか、参考になる話を聞けると思ったのに」
「税理士事務所っても、俺の所と同じコンサルティングや講演中心で売ってる先だって所までは、聞いたんだ?」
人を見透かし、レベルにあわせて噛み砕くようにする説明の仕方が、人を小馬鹿にしているわと、真弓子はいつも思っている。