第十九話 修羅場と浮遊
「あのさ、詩子ちゃんてセンセイの姪っ子なんだよね?」
少しだけ、間があった。詩子はまさかという顔をしていたから、とうに知っているものかと思っていると見えた。それは東京ミッドタウンのイタリアンレストランでの出来事で、隣の席にいた高橋が、小さく咳払いをした。
「そうですよ」
御船は横を向いている。ヒヤリとした空気が漂った。
赤坂のクライアントとの打ち合わせを終えて出てきた御船は、今日は詩子と一緒だった。飯行こう、と外に出る。ミッドタウン内に、いいイタリアンの店があったはずだと言うと、ええ、と詩子が嬉しそうに見上げてくる。御船は笑顔で答えて、二人で連れだって歩いていると、あら、伊野木さん、と詩子が声を上げた。六本木方面から歩いて来たのは、確かに真弓子だった。隣にいるのはコンサルタントの高橋だ。詩子ちゃん、すごい偶然、信じられないね、と向こうからも声が上がって、お互いに近寄って挨拶をした。
それだけで、もう虫の居所が悪くなったのに、詩子が余計な一言を言う。
「お昼まだならどうですか、一緒に。お二人とも」
真弓子はちらりと高橋を見て、お邪魔でなければ、と高橋が静かにほほえむ。二人もミッドタウンでの遅い昼食を目指して来たらしかった。
いつもお調子者の鈴木一平のおもりをしている高橋順也は、御船も高く買っていた。彼はよくあるできる新人のように、御船にライバル心を抱いたり、むやみに目標としたり、また過剰に媚びたりしない。彼は、自分は自分と思っていて、仕事ぶりは堅実でしっかりしていた。彼が真弓子を気にかけて、自分から声をかけて手伝うことはないですか、と聞いているのは知っていた。
食事が進むにつれて、御船が明らかにいつもと違っているのが見てとれた。不機嫌さが重く垂れこめて、詩子は気になってちらちらとこちらを見るが、真弓子はまるで気づかない風だった。茶封筒を高橋に渡す。
「じゃあこれ、小林さんに渡しておいて」
ついでに、と真弓子はバッグから小さな包みを取り出した。
「これを、桂木部長に。ごめんね子供のお使いみたいなこと頼んじゃって」
「かまいませんよ」
「ありがとう」
「どうやったのか言えないって、今は聞きませんが、いつか話して下さい。一杯やりながらでも。しかしこれじゃ、あなたがきつくないですか?真弓子さん」
「仕方ないよ、仕事だし」
社内の大抵の人間が、真弓子のことを伊野木さんと呼ぶのに、高橋は最初から真弓子のことを下の名前で呼んでいる。真弓子が高橋といたからといって、御船の虫の居所の原因はそこではない。いつもなら歯牙にもかけなかったはずだ。不機嫌さが最高潮に達して、高橋もさすがに気まずそうに体を動かしはじめていた。
そこで、真弓子が突然言ったのだ。
「詩子ちゃんてセンセイの姪っ子なんだよね?」
爆弾を投げ込んだようなものだった。
詩子が肯定すると、さらにそこで畳みかける。
「川崎にいたスーパー営業マンて、あんたのことなの」
「知らね」
誰それ、と御船は顔を歪める。高橋は、黙ったまま俯いて残りのパスタをかき分け、詩子は水を飲もうとして、グラスがからっぽなことに気が付いてまた置いた。
外目から見ても明らかにおかしい今日の御船のそのいらだちが、真弓子に対してのものであることに、詩子や高橋だけでなく、真弓子も目ざとく気付いていた。
「わたしもしかして、あんたの尻拭いやらされてんの?」
どうして今日のこの日に、この女はこんな所にいて、こんな事を言い出さなくてはならないのだろう。せっかくいい気分でいた所なのに。昨夜を別の女と過ごしても、詩子とはこんなに優しい気持ちでいられるのに、この女に会った途端、全てがぶち壊されたようだと感じるのはなぜだろう。
「うるせえな。何からんでんだよ」
凄みのある、重くて低い声だった。このシックで高級なレストランに似合わない、場末の男が因縁をつける時に出す声で、詩子がぎょっとして身を震わせる。だが真弓子はたじろがない。じっと御船の目を見据えたままだ。
「絡んでるのはあんたでしょ。ごまかさないでよね」
鋭く追及する目がわずらわしい。
今は真弓子に会いたくなかった。会うまで感じなかったのに、その目に顔に、姿形に突然胸がざわついた。今、せめて一日ぐらいは、体を満たす自信と力に酔わせてもらう時間が欲しかった。
「今頃そんな誰でも知ってるようなこと、気付いたからって、偉そうな口きいてんじゃねえよ」
怒気を含んだ声に、高橋がさすがに、御船さんと間に割って入る。詩子も、口を挟むことができなかった。手が微かに震えている。睨み合う者同士、お互い奇妙に胸の内部が揺れ騒いで荒れていた。いつもの二人でいられない。あの水道橋以来、何かが動き始めている。心地よかったバランスが崩れ、見えない誰かが二人を大きな手で掴んでゆさぶっているようだった。
ここで引くような真弓子ではなかった。追及の手を緩めない。
「上顧客を持ち逃げしたの?」
これには御船も苦笑した。
「誰に何を吹き込まれてんだよ」
女の勘も鋭いもので、真弓子も、今日の彼の体と態度に、別の誰かの匂いを嗅いだ。ただ少しだけ不思議に思った。あんたがわたしに後ろめたい気持ちになる必要なんてないじゃない?
「そんな生臭い話じゃねえし」御船は低い声は変わらないまま、目を逸らして言った。「そんないかれた独立の仕方したら、おれの事務所、本社が百%出資してくれるわけがない」
高橋の目がじっと御船に注がれている。こんな醜態を後輩の目の前で晒すことになるなんて、彼自身思ってもみなかった。
「ちゃんとお話して、誠意をもって、ご説明したんだよ。顧客だって別に、持って行っちまったわけじゃない」さらに、苛ついた調子で吐き捨てた。「勝手に来ちまったんだから仕方ねえだろ」
詩子がはっと顔を上げ、フォークが床に音も立てずに転がり、跳ねて、ソースを散らす。あっと高橋が声を上げる暇もなく、詩子ははじけるように席を立つと、レストランの外へと駆け出した。目に涙があふれていた。
残された三人は、じっと黙り込んでいた。店員が来て、何事もなかったようにフォークと皿を回収して去った。高橋がついに意を決したように席を立とうとすると、真弓子が待って、と言った。
「高橋くんじゃなくて、あんたが行くべきでしょ」
「お前に指図されるいわれはない」
御船は椅子に深く座った姿勢でポケットに手を突っ込んで、不貞腐れたように目をそらしたままだった。高橋が真弓子を制して、立ち上がる。
「今度また連絡します、真弓子さん」
身動きもしない御船に一礼して高橋が歩き去った後、二人は沈黙の中に残された。
真弓子は今まで、この一年と数ヶ月の間、御船と詩子のことを詮索するような言葉を口にしたことは一度もない。御船にしてみれば、恋人なんでしょとか、付き合ってるのとか、わたしのことは何だったのとか、何かあるはずと思うのだ。
一切、口をつぐんだままで、踏み込んだ部分に触れず、拒絶もしない。それは彼女が心の奥底に秘めた何かの誓いのようで、詩子が御船への思いを細い笛の音のように歌えば、黙って、ただ静かに聞いているだけだった。
彼女だってずっと平気な顔な訳はなくて、揺らぎも見える。どうにかしたいと御船が望めば、答えてきそうな、答えたいと思ってはいるんじゃないかと思わせるような、それは目に見えないほどのおぼろげな揺らぎだった。顔に出やすい、直情的な彼女とあって、その思いはこんなにわかりやすいように見えるのに、いつも引き結んだ唇、勝気な目のその奥に潜む何かに、手がどうしても届かない。かと思えばふと打ち明けた故郷の話に、肌に触れるように、静かに心を寄せて来る。
結局御船は押し黙ったまま何も語らず、真弓子は何事もなかったように、さっぱりした態度で立ち上がった。
「ほら。行くよ」
皿に手を付けない御船を促す。
「いい。食ってから行く」
「じゃあ食べなさい」
とっくに冷めたパスタをそれでも御船は何口かで掻き込んで、また真弓子に急かされ、嫌々、のろのろ立ち上がった。目があって、真弓子は困惑する。何よその、哀願?許しを乞うような、怒られた犬じゃあるまいし。相手が違う。
詩子に続いて、彼女も自分を置いて行くと思ったのに、真弓子はこんな御船を一人に出来ないとばかりに、側にいた。わざと距離を取ろうとしてくるなら、御船だってそうか、仕方ないなと思えるのに。今日は二人の間の空間は、今までのどんな時よりも近かった。
体まかせの欲望の浅ましさ、自分の弱さ甘さを、この女は存在だけで突いてくる。真弓子は持ち合わせている鋭い動物の本能で、男の指の匂いを嗅ぎわけた。でも、だからってそれが何だっていうのとでも言いたげだ。結局真弓子は、割り切ってのぞんでいた。あなたはあなた、わたしはわたし。その潔さがかえって御船にはひりひり響く。
昨日のことの全てに後悔はなくても、こちらがばつの悪そうな、後ろめたい顔をしているのを、思い切り怒ってわめいて嫉妬して欲しがっているのをよそに、真弓子は突き放しもせず、怒りもせず、無視もせず、ただ真っ直ぐに見つめているだけだった。このやましさも気恥ずかしさも、すべて男ひとり、個人の中だけで完結するものなのだと、目の奥で語っている。それを知ってわたしがどう思うかはわたしの問題、あなたではない。
こうでもないああでもないと、ないないづくしの螺旋階段をぐるぐる回らされ、何もないのは気が無いからと言い切れなくて、ただ、一言が欲しい。
それなのに言われればこいつもただの女と、侮る気持ちが湧くかもしれない身勝手な男の本性に、真弓子は気付いているのかいないのか、いつもの表情のままだった。
彼女の気持ちは御船には見えない。わからない。心はある、あるはずだと答えが返る。あの身体の奥に触れたときにつながれた糸は切れていない。彼女だって切ってはいない。御船がゆっくり慎重に、まだあるか、切れていないかと確かめるようにその糸を引けば、からだは静かに揺れるのだ。
「彼女を慰めてあげて」
駅で真弓子はただそう言って、去っていった。いつも背中ばかりを見せる女に、御船はひそかにつぶやいた。
超一流の美人に感心してうっとり見つめられるよりも、小気味いいお前の罵詈雑言を聞いてるのがいい。そんな憎たらしいくちびるにキスしてやりたい気にもなる。
何の言い訳も求めずに、なまのままの男を映してくる鏡のような女に、許されたような気になって、御船の叱られる寸前の子供のようなふくれっつらは、いつの間にか消えていた。
* * *
御船と別れ、真弓子は電車に揺られて座っていた。だがその眼は宙を見つめている。彼女の心はここにはない。ここにいるのは、いつもの真弓子ではなかった。
詩子の涙に、真弓子はキリエを思い出す。あんなしっかりした強いキリエ、いつでも静かで揺るぎない彼女があんなに揺さぶられないといけないなんて。男に全てを委ねるなんて、本当に怖い事だと真弓子は思う。女は結局、体だけとは割り切れなくて、心も一緒に委ねてしまう。
真弓子にも、一度はあった、確かにあったと、このからだの奥で、覚えていることもある。けれど、その記憶をまとめて飲み込んで、この体の淵に沈めた。化石となった思いをゆっくり燃やしきって、後は消し炭と白い灰をふっと飛ばしたらいい。そこで火が燃えたこともあったというほんの少しの痕を残して、わたしの中の景色の一つになればいい。
ぼんやり、周囲に目を向ける。稲村ヶ崎と江ノ島にはさまれた広がる砂浜の上で呼び覚まされ、今日、思ってもみなかった御船の姿を見て、激しく揺すぶられた記憶がさまよい、浮遊し、引き戻されていく。
N総合商社へ転職した直後に、御船が真弓子の顔を見に来た日があった。キャリアデザイン課までわざわざ来て、本社の下で落ち合った。お互いの姿を見ると、どちらともなくそっと寄り添った。
新橋の駅を目指して歩きながら、ありがとう、と小さく真弓子が言うと、相手はすまして、何が?と答えて、何も知らぬげだ。顔を伺うと眼をあわせて優しくにっこり笑いかけた。今のあいつは、あの時の彼じゃないみたいだ、と真弓子は思う。
──今日、友達が新宿でお祝いしてくれることになってるの。一緒に、食べない?
──いいの?付き合うよ。
真弓子は何も知らなくて、御船はとても優しかった。
キリエの待つ店へ、駅から移動する。どちらともなくそっと手を繋いで、夜道を二人、歩いた。
幸福がからめた指から立ち昇り、腕から伝わり胸へ、全身を満たしていった。夜の新宿はまるで水族館の水槽に沈んだようで、ネオン、喧騒、雑踏、靴音、クラクション、すべてが空から落ちてくる闇の中、下から当てられたライトの中に浮かび上がり、そこかしこから種々雑多な魚の群れたちが押し寄せる。
こんなにたくさんの種類があるのかというほど、ここは海が閉じ込められ、見えないガラスに仕切られた四角い箱の中、そこにはペンギンの群れ、ここにはあざらしがのたうつ。あっちの道は深海ゾーン、こっちにはウミガメ、また魚群がざあっとよせ、寄せてまた去る。波に合わせて体をうねるように揺らす鮫の姿が見えては消える。
こんなに居るのに全部、知らない顔ばかりだ。
この横の男だけが現実のようで、それでも、と真弓子は思う。わたしが持つ最後の枷だけは決して忘れないようにしよう。この手のひらの上に落とし、心臓に当てて刻んだ、自分が自分に課した掟がある。
それは、明日を思わないこと。すべて今だけ、この時起きているだけのこと。未来は知らない。過去は関係ない。彼とだって、約束なんて何もないし、することもない。明日なんてどこにもない。この時だけを楽しんで、この指から伝わる幸福だけに身を任せて歩く。
キリエの前で連絡先の交換なんて恥ずかしく、二人になれる機会もなかった。真弓子もそんなものは求めていない。考えないから、大丈夫。一回、何かがあっただけで彼女づらなんて出来るわけない。まだお互いのことなんて何も知らない。
それからしばらく、キャリアデザイン課のイベントで忙しかった。そのうちセミナー講師として来た御船に再会することになった。彼の顔を見るのは、三人で食事して以来だった。腰が引けるから、ほとんど話さず、向こうも目で合図するだけだった。
アシスタントの女の子が、あまりにも美人で驚いた。遠くから見ていると、人とすれ違う時に、彼が彼女の肩をさっと抱いて庇った姿が目に焼き付いた。トイレの前の休憩用のベンチに、しばらく座り込んでいた。あら、かなりのダメージ受けてるのかも。
あれはどう見ても、只ならない仲としか思えない。さてこうしているわけにもいかないと、会場へ戻ろうとしたら、トイレ前で御船にばったり会った。アシスタントの美人も一緒にいた。
──もうすっかり、仕事は慣れたみたいだな。
彼は気軽に挨拶をしてくる。
──でもなあ、お前おろおろしすぎ。壇上で笑っちゃうとこだっただろ。
見られてたと思うとかっとなって、言い返す。
──ちゃんと集中してないってことでしょ。そもそも何よあの内容は、胡散臭い啓発セミナー、だまされる人いるのかしら?
ついツンツンした返事をしてしまった。
──少し前に入った、キャリアデザイン課の方ね?私、先生のアシスタントの白砂詩子と言います。
詩子の笑顔が割って入った。
──ええそうよ。伊野木っていうの、よろしくお願いします。
笑顔で、しっかり答えられた。詩子の目も、真正面から見て微笑むことができた。
二人と別れてから手が少し震えていることに気が付いた。下腹が痛くなる。トイレにしゃがんで、足にきてる、と呟いた。ストッパーかけといてよかった、と思い返す。本気になる前でよかった、あぶないわ。足をすくわれないように、しっかり仕事に集中よ。まだいける。
「出棺です」
耳をふさいでも、声は脳の中に直接こだまする。青ざめて木の箱のなかにとじられ、運ばれて行った娘、青木のことを思えば、こんなことは、なんでもない!
一年たってすっかり戦力になったころ、真弓子は勉強会に参加を命じられた。
御船にはそれから、月一で会うようになり、圧倒される。ただ座っているのも悔しいし、油断のならない世界だと思って警戒した。最初から反論を探し論破するつもりで、とりあえずは飛び交うビジネス用語に慣れようとする。
いつも容赦なくこちらの見込みの甘さを鋭く突いてきて、からかうか、バカにする御船に腹を立てて歯向かううちに、わだかまりや騙されないわと構えた気持ちも少し消えた。メンバーの中でも、秋社長と少し仲良くなって、色々教わるようになった。容赦ないのは、見込みがあるからよと言われて半信半疑ながらも、期待に応えたいというより一泡吹かせたい、その一心で勉強した。
秋社長が詩子をほとんど無視していることを、どうしてなのか不思議に思う。
休憩室で、新人アナリストたちが会話していた。
──体が資本ですからね。御船さんは?ヨガは?ランニングは?
──ヨガなんて女の趣味。ランニング興味ない。時間もない。
お調子者の一人が、御船さんは違う運動でしょなんて言い、あとで少し年上の仲間に手ひどく小突かれる。
──バカ調子に乗るな、あの人そういう冗談大嫌いだから。詩子さんがいるんだぞ。
──詩子さんは役員の親戚で、十九のときから御船さんといるって聞きましたよ。
──はっきり彼女だって聞いたことはないけど、間違いようはないよね。婚約発表いつにするかって感じだよね。
秋社長は不機嫌そうな顔をしていた。
──事務所の社長がアシスタントと出来てるって、すぐそういうことばっか言う。役員とか関係ないし。
秋社長がその場を去ると、またささやきは波のようによみがえる。
──本当は、アキさんと出来てるってうわさもあるぜ。
──最低だなあいつ。この勉強会に来てる女に、手を出しすぎだろ。
シッ。唇に指をあてる。真弓子の方をみてとまどう顔、顔、顔。
やめてわたしは違う。心に叫ぶ。あれは違う。名前も知らない時だったから違う。
絶対にそう見られたくない。プライドを振り絞った。絶対やらせない、もう二度とない。そういう相手にわたしはならない。
ある日休憩室で詩子と携帯のアドレス交換をしていると、突然御船が入ってきた。お前はいい加減俺にも教えろ、連絡つかないと女子の会話に割って入って、不本意にもアドレス交換をした。胸がかすかに高鳴った…気がした。
でも、連絡しない。メッセもメールも、何も送らない。絶対に自分からなんて、送らない。用があるなら詩子へ送る。今度のいついつに臨時の会があるとの連絡は電話で時たま、それだけの仲だった。
なのに、押し殺したからだの隅が、奇妙にざわめく。
『七時半には上がれる』
待っていた。ずっと本当は待っていた。電話よりも、文字のことばを。でも、待っていたのは、決して、決して“お誘い”なんかじゃない。残る何か、思い出、よすが、火が消えた後のほんの少しの痕として、記憶のかけらのようなものを欲しがっていた、わたしのからだ。




