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汀より  作者: 天海 悠
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第十八話 魔女の住処

 もう終わりなのかなここも、とか、見放されるようじゃね、とか、事務所のメンバーが頭を集めて囁き合っている。扉が開いて、真弓子が入ってきた。一瞬、初夏の風が吹きこんで重い空気を払った。手には紙袋を下げている。


「ほんまかいな小松君、どうしたんやいきなり、月中に困るがな。嫁さんの具合が悪なったて、そんなわけあるかいな、離婚してもう連絡もないんやろ」


 黒沼の本当に困ったような声が聞こえてくる。切々と説得しているが、相手の声は聞こえない。


「何や今度はおふくろさんの介護や?アホ言いなや、とうに亡くなってはるやないか」

「どうしたのよ」


 佐藤が口に指をあて、陽介が囁いた。


「今、奥で、先生が話してるんです」事務所には、小さな別室があって、ほとんど物置と化していたが、小さな椅子と机が置いてあって、個人的な話もできるようになっている。

「とにかく困るがな、明日からの経理事務、どうすればええんや」

「小松さんが、今日で辞めさせてほしいって」

「小松?誰」


 真弓子は全然ぴんとこなかった。


「何言ってんですか伊野木さん」あきれたように陽介が言う。「経理の小松さんですよ」


 ちょうどその時、小部屋から逃げるように出てきた経理の爺さんは、顔を手に握りしめた毛糸のキャップで隠して真弓子の方を見もせず、足早に去って行った。



 日曜日の光降り注ぐ七里ガ浜で、真弓子が出したノートとコピーを、キリエは眉を寄せてじっくりと見た。


「何?これ?同じ日付で中身が違う?二重帳簿ってやつじゃないの?」

「そうでしょ。やっぱり。私もね、図書館に行ったり自分で経理の本買ったり、あれこれ調べてみたんだけど。だけどね、違うのこれが」

「違うの?二重帳簿じゃないってこと?」

「私が最初に疑ったのは、粉飾決算よ。脱税。黒沼に内緒でごまかしてるのか、黒沼がらみでやってるのかってね、調べてたの」


 話すうちに、真弓子の青ざめていた頬に生気が戻ってきた。ノートを覗き込みながら、熱心に言う。


「でも、どうも違うのよね。レシートが合わないのよ」


 じゃあ?とキリエが真弓子を尋ねるように見る。


「こいつどうも、会社の金を横領してるんじゃないかと思うの」


 真弓子の説明によると、


──毎日残業して誰もいなくなってから、経理の爺さんの机の鍵を開けてみて、ゴミ箱まで探して、レシート全部引っ張り出してさ。あと、社内は無線でつながってるでしょ?爺さん、あまりパソコンできないの。だから思いっきりわかりやすい所に残ってた。簡単な計算したエクセルのメモが、PCのゴミ箱に残ってたのよ。これが。差額が載ってるエクセルが。そして、これ!そのエクセルを書きうつしたメモ紙よ。無用心すぎるでしょ?


「うちの帳簿は、手書きよ?すごくない?いつの時代よね。センセイ、どんだけなめられてるんだって思ったわ」


 キリエの顔が見ものだった。優しい顔に歓喜が広がって、めったに見られない満面の笑顔が輝いた。


「真弓子!そういうの。私、大好き」

「まあ、楽しいよね。けっこう楽しかった」


 するとキリエは、じゃあ、行こうよと立ち上がった。


「どこに」

「経理のジジイの所に決まってるでしょ、回収するのよ、この横領分」


 キリエちょっと待って、だってどうすれば、ととまどう真弓子に、この女友達はニヤリと人が悪そうに微笑みかけた。


「あんた私の仕事を何だと思ってるの?債権回収担当なのよ?」



 不安げな事務員たちを制して、真弓子はこう言った。


「あんたたち、いいから仕事に戻りなさい。とりあえずは、経理の代わりはしばらくわたしがやる」


 そして、紙袋から経理の参考書を、たくさん取り出した。陽介の腕にどさっと預ける。


「ここに資料あるから、あんたも経理、勉強しといて。あとはこれ」


 紙袋から、大きな紙封筒を取り出し、佐藤に渡す。


「これを入金して。市税滞納の差し押さえが解除できるから」


 紙封筒からは、札束がいくつも出てきて、事務員たちは仰天する。


「真弓子さん!銀行強盗はさすがにダメでしょう!」

「どうやってこのお金、手に入れたんですか伊野木さん」


 失礼な、と心底心外な顔をしながら、真弓子は黒沼のもとへ説明に向かった。



 おカネの威力って、本当にすごいんだな、と真弓子は思う。タンス預金なんてはじめて見た。札束のぬめりと重みが生々しくまだ手のひらに残っている。キリエが慣れた手つきで札勘定していた。サツカンていうのよと、こともなげに彼女は言った。あれを目にして札束を手にしたら、通り過ぎていくだけのお金でも、奇妙な力が湧いてきて、よみがえった過去の思い出に対しても、また跳ね除け、ふたをして、前を向くことができそうだった。ありがとうキリエはいつでも、私の力になる。


「そいつの家、わかる?」


 控えておいた真弓子のメモを見てキリエは言う。


「何よ、平塚じゃないの。それほど遠くないわ。今、行きましょうよ」

「今!?」


 心の準備がまだ、という真弓子を引きずって、キリエは七里ヶ浜から小田原の家に一旦戻った。一軒家に入ることなど、真弓子にとっては久しぶりで、福岡の実家を思い出したのか、懐かしそうに目を細くした。


 キリエの家は平屋建てだった。そのため周囲よりも低かったが、その分外装には凝っていてレンガ調の玄関に、ウッドデッキからはヘデラと呼ばれるつたがなだれ落ちていた。キッチンからリビング、広いベランダまで家の中はどこもかしこも、草花でいっぱいだった。特に庭は初夏とあって、新緑には力があり生命にあふれていた。

 コニファーが柵となって塀一面にそびえ立ち、食虫植物のような筒状だが薄紫が美しい花をつけているのはジギタリスだった。ガザニアのオレンジ、バーベナは可憐に、ポーラチュカはとりどりの色の乱舞、育て合わせもあるのだろう、少し離れた場所にはハーブが所狭しと植わっている。


 キリエがいかに家と庭を愛しているかが知れた。そして、結婚と共にここにローンを組んで買ってしまったからには、もう容易には離れられないであろうことも想像がついた。ここはキリエが入念に作り上げた巣で、この庭はキリエの子供のようなものだった。

 真弓子の尋ねるような目に、キリエは苦笑して言った。


「旦那は夜遅くでないと帰ってこないの」


 帰って来ても夫婦に会話はない。夫は悪びれた様子もなく、普段どおりにさっさと風呂に入って、服を着替えて寝る。放り出した服を片付けないと明日の仕事にさしつかえるから、妻はのろのろ、ネクタイと上着に手を伸ばす。習慣になっている仕草でしわを伸ばしハンガーにかけ、洗濯したハンカチにアイロンをかける。

 クローゼットから、キリエはパンツスーツを出してきた。真弓子もタイトスカートを履かされる。丈がたりないけど、まあいいかとキリエはつぶやく。それから桂木部長のような、銀縁眼鏡をかける。


「もしサングラスだったら、殺し屋みたいよ。でも、いきなり家なんて」

「こういう奴は、普通は家に来られるのを一番いやがるの。人目もあるしね。相手の嫌うことを探してやるの。プライベートエリアに踏み込んで、先手を打つ。恫喝どうかつは法に触れるから、そういう所でプレッシャーをかけるのよ」


 ほほえむキリエを複雑な顔をして真弓子は見た。


「きつい仕事ね」

「相手が嫌な奴ほど楽しいよ。私、性格悪いでしょ」


 キリエはつい癖で時計を見た。基本、督促とくそくが禁じられた時間にはまだ間があるが、どうせ今日は同じく禁じられている休日だ、関係ない。東海道線で小田原から平塚まで行き、住所を頼りに住宅街をうろついていると、真弓子がいきなりキリエの腕を掴んでささやいた。


「あっ、あいつ!あれよ、あのじじい!」

「今日は自宅だけ確認できればと思ってたけど、ラッキーだわね」


 キリエは眼鏡を押し上げる。



 キリエと二人、踏み込んだ経理の爺さんの家は、門構えだけなら随分立派な造りだった。チャイムを押して出てきた老人は、真弓子を見て顔色を変える。キリエは相手が帰れと言わない前に素早く、わたくし、こういう者ですが、と名刺を差し出した。あまりにも素早い仕草に、爺さんは思わず名刺を受け取ってしまう。肩書に書かれた弁護士の文字に真弓子は驚く。


「弁護士先生が?何の用だよ」爺さんの声は震えていた。

「こちらに、覚えはございますか?」


 キリエは真弓子が持ってきたノートとコピーを提示した。


「こちらがあなたの筆跡、印鑑もありますね」


 眼鏡の奥から、優しい目を細めて、じっと爺さんの顔を伺う。それから腹の前で手を組んで、おもむろに、ゆっくりと言う。


「これは、ご存じでしょうけども、横領罪、と言いまして、立派な犯罪に当たります。会社はあなたに損害賠償を請求する権利があります」


 キリエは相手が考えたり、反論をする時間を与えずに畳み込んだ。


「ですが、今ここで和解に応じていただければ、こちらもおおやけには致しません。示談にしますか?どうなさいますか?示談でしたら、こちらの納得のいく金額をご提示下さい」



「びっくり、まさかのタンス預金よ」


 小田原に戻り、顔色一つ変えないキリエが淡々と札勘定している横で、真弓子は震える脚を抑えて興奮していた。真弓子はキリエの首に飛びついた。


「すごい、キリエ。ほんとにすごい。尊敬する」


 爺さんは震える手で札束を三つ、出してきた。「これでどうだべ。文句ねえだろうがよ」

 真弓子は、この爺さんの声をはじめて聞いた気がする。キリエは何も答えなかった。ただじいっと目を据えて見ただけだった。


「足りねえつうのかよ。老後の蓄ええんだよ」


 爺さんは哀願するような声を出したが、ついにキリエの沈黙に屈服して、更に札束を投げ出した。ドラマを見ているようだった。老人の皺の中に含まれた憎しみをキリエは平然と受け止めていた。もう顔見せんなよと二人の背中に叫ぶ声も、かすれて弱々しく力ないものだった。



「嘘みたい。凄い。まさか六百万も回収できるなんて」小田原まで戻った真弓子は興奮のあまり、声まで震えているた。キリエは第二ボタンまで胸元を開いて一息つく。


「日曜日に突撃とか、こっちも違法だし弁護士とか詐欺だけど、とことんやったら時間がかかる。このくらいが妥当かな。もうちょっと絞り出せたかもしれないけど、ごめんね真弓子。あっちも後ろめたいから警察には絶対、行かないわよ」

「信じられない、夢みたい」

「何言ってるの、四ヶ月、給料払ったら終わりよ。しかも六本もぽんと出してくる所を見ると、相当長いことやってるね、常習犯だねあれは」


 キリエはまるではした金のように言う。


「でも、あの名刺で足がついたりしないの?」

「名刺は回収ずみ。カネを取るとき、一緒にいただいたわ。残さないよ足跡なんて」

「ナニワ金融道みたい。主人公が灰原じゃなくてキリエってだけ」

「これでとりあえず税金滞納、回避できるわね」

「何で知ってるの?」真弓子は目を丸くした。「センセイの持ってる不動産の一つに、差し押えがかかっちゃってるの」


 キリエはおかしそうに笑った。


「蛇の道はへび、と言いたい所だけど、ただのひっかけ。だいたい、銀行にはカネを返しても、税金とかそのあたりからあやしくなってくるから」

「だって税理士なのに。税理士が税金滞納って」

「落ちていくって、そういうものよ」キリエは何でもなさそうに言った。

「この業界、人的資本によりすぎる、って言ってたんでしょ、あんたの部長も」


 この会話と、庭にあふれる緑が夕陽に照らされる景色とあまりにもちぐはぐだった。


「一発逆転なんて無理よ。隠し玉でもない限り」



 ここでいいよという真弓子と小田原駅で別れ、自宅へ向かいながらキリエは心から真弓子に幸せになって欲しいと願った。どうしてあの子はそんなに、自分の恋愛感情に背中を向けるんだろう。

 素直で信じやすい金持ち女なんて、彼の相手にはならないよ。意地っ張りで馬鹿な真弓子。キリエは思う。意地っ張りはきっと、次郎君の方もなんだろうね。あの子供のような絡み方と、真弓子の反応を伺う目の奥の光が忘れられない。


 あなたが絶対、私に離婚を薦めなかったように、私も口出しはしたくない。あの、御船次郎と白砂詩子だ?なんて虫の好かない男と女って思っても、気付かないふりをする。気付いたら女がすたるわ。

 むらむらと激しい怒りがキリエを支配する。それは夫と女を御船と詩子に重ねているからで、自分でも自覚していた。

 そう、私は虫が好かないの!あの傲慢な自信たっぷりな男のことが!ふわっと三万円超えるカーディガンを羽織って、カルティエの指輪とネックレスにフランクミュラーの時計をつけてるような女のことが!

 そっと抱いたら、そっとうなだれて欲しいわけ?すうっと頭を回して、その下のくちびるにキスしやすいように頬のラインをを見せて欲しいわけ。


 キリエは、さっき真弓子には見せなかった、手元の資料を眺める。

 黒沼聡一郎(第三株主)21%

 黒沼隆一郎(第六株主)3%

 聡一郎の息子は、長男が諒太(四十一歳) 次男が栄生(三十六歳)。三男が陽介(二十三)の三人兄弟。長男もN総合商社の株式を持っていたようだが、今は市場で放出したようだ。


 かろうじて自分を保って立っている真弓子の郷里は福岡で、ずいぶん遠いことをキリエも知っている。気軽に帰ることもできないし、厳しくて声の大きい父親がいたと、弟を溺愛する母がいたと言っていた。男尊女卑の風潮に反発して、家を飛び出したと。学生時代の恋を経て、でも女の子の方がいつでも早熟、私も同年代の男の子は相手にならないと思っていた。今はいっぱしのキャリアウーマンを気取ってみて、手探りでも自分の手一つで必死に切り開いてきた道、なのに今、男たちはさらっとそれがいかにも当たり前かのように先に行く。


──ねえキリエ、あの一晩は、ほんとうにどうでもいいことなのよ。向こうもそんなのあったことも忘れてるでしょ。


 真弓子が努力して蓋をしたものを見た。忘れてしまいたい、忘れようと、頭の後ろに追いやって、あの一晩から逃げるために、毎日前を向いて仕事しているのが見えた。

 寄り掛かりたくなる自分を叱咤しったして、今更この年になって、かわいがられたい願望なんて似合わない。そんな時もあったよねと笑う。自分を結婚市場に売り込んだ時期もあった。もう昔の話だわって笑ってる。結婚の夢を捨てた時、恋愛も捨てたと言って。



 さらにキリエの指が資料をなぞる。左手の薬指には指輪が光る。黒沼相談役は、弟の税理士が事務所の建て替えおよびシステム導入した時の、借金の連帯保証人になっている。連帯保証人になっているのは、嫁に行った先の白砂家の姉もだ。この程度なら当時は社長だった相談役の聡一郎一人で十分だったろうに、どうしてこの姉はわざわざ保証人になったのだろう。しかもそのことを、白砂家の夫は聞かされていないようだ。


 税理士が飛んだ(=倒産した)ら、相談役も飛ぶかも。本社に飛び火する。これはいけないわね。

 さて、あの素敵な銀縁眼鏡の部長さんは、どこまで知ってる?御船はどこまで関与してる?真弓子が聞こうとしないから言わないけど、ただの片思いとも言い切れないが、あの男は絶対、まだあの女と付き合うとか、恋人になんてしていない。既婚の女の確信だった。あの男が手駒の女に対してためらうか?宙ぶらりんでそのままにしてるのには、絶対、何か、その方が都合がいい何かがあるはずよ。

 あんなに自信満々な風を装って、男たちって一体、何を怖がっているの?どうしてそんな風に、おおらかに微笑みながら、すべてを包みこむ腕を求め、すきを見せて襲いやすく、女からわざわざスカートあげてやらなきゃいけないの?


 真弓子にあの女に一泡ふかせて欲しい。その一心で冷たい瞳で資料を握るキリエは大地に縛られてどこにも行けない。真弓子が御船と関わることで血を流し傷つき倒れてしまえばいいと、本当に一度も思わなかったのか、この美しい庭に囲まれて復讐をき散らし、死の匂いを足跡に残して徘徊してはいなかったか、彼女はただ瞳を赤く光らせて、いつまでも紙の上の文字の上にうつむいていた。




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