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汀より  作者: 天海 悠
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第十七話 詩子が妙に機嫌のいい日



 その日の詩子は、はしゃいでいた。

 もともとが行動も話し方も静かに、浮世離れはしていても、感情をあらわにしない、年よりずっと落ち着いた娘のこととあって、御船にはおや、と思わせる空気があった。


 詩子は定期的に等々力にある伯父の黒沼相談役の自宅に顔を出していた。相談役が現在社長をやっているシステム会社のS研、彼の息子たちはその役員をやっている。陽介の兄弟であり、彼女の従兄弟である彼らとも、詩子は仲がそう悪くない。今日は御船も一緒に挨拶に付き合い、帰り道にはクライアントが処分を検討している物件が近いからと、ついでに見に行くことになっていた。

 詩子はあちこち写真を撮っていた。都内とは思えない崖状になった岬の中で、詩子はヒールで苦労して降りる。こんなとこじゃ担保の価値ねえなあなんて話しながら歩いていたら、詩子が坂道でずるっとすべった。


 とっさに後ろから脇に手を入れて支え、詩子は御船にしがみついていた。お互いの顔が近い。初夏の薄い服越しに胸の鼓動が音を立てて打っているのがはっきりわかる。あやうい腰を抱いて顔を見たら、詩子のキラキラ、期待に満ちた真っ黒な目が狡猾に輝いている。これはさすがに顔を寄せ、目をつぶった好機だった。

 唇をそっと合わせるしかない。

 片手で頬に触れたら、吸い込まれそうなほど柔らかい、細やかな詩子の肌の感触だった。

 ここがオフィスだったら、きっとどうしようもなく胸元に手が延びてからだごと倒れていた。今だって、そうして悪い理由なんて何一つない。

 この世のものではないようなキスに、しばらく男は我を忘れた。

 女は泉で、いつも飢え渇きを満たしてくれる。涌き出でて、あふれて、流れ出す。黒髪を撫でて体を引き寄せ、目を閉じる。

 足元の砂利を踏むヒールの音に、ふと御船は目が覚めた思いで唇を離した。名残惜しげな詩子の身体をしっかり抱いて支えてやると、地面に立たせ、肩を抱いたまま、二人は車へ向かった。

 運転している間、ずっと二人は無言でいた。


「着いたよ」


 詩子が目を上げると、御船の車は大きな門構えの屋敷の前で止まっていた。わたし、マンションの方で良かったのに、と詩子は小さく呟いた。確かにここしばらく帰ってはいなくて、母は寂しがっているのかもしれないけど。


「おつかれ」


 お疲れ様です、と返した詩子の声は小さくて、ドアを閉じた時に、御船は口の端を上げて笑いかけた。詩子の目がじっとこちらを向いていた。ちょっと前にすくい取って喉を潤したあの泉の源だった柔らかなくちびるが、純粋にただ、なぜ?と問いかけていた。


──なぜ?


 御船は視線を無理に外して、ハンドルを持つ手に力を入れて、レクサスをバックさせようと後ろを向いた。携帯の通知ランプが青く光る。



 車を走らせていると、工事シートが立ち並ぶ武蔵小杉が見えてくる。御船が育った街だった。飲み屋街のネオンの中で成長した御船は、酔客の連れてくる女たちには随分と可愛がられたものだ。自営業の家では、自分のことは自分で何とかしないといけなかった。真面目で自律心の強い、年の離れた兄がいて、昔は口もきかなかったが、お互い社会人になり大人になってから、気が合うようになっていた。

 ちょっと考えてタワーパーキングに車を停める。駐車場から歩いて駅へ向かうと、駅南口の出口に、兄が仕事帰りの作業着のポケットに手を突っ込んで待っていた。約束通りの時間だった。二人を小さい頃から知っている親父さんがやっている、古ぼけた定食屋に入って、御船はから揚げ定食を頼み、兄はカツカレーを選んだ。親父さんと冗談を交わしながら、御船は上機嫌で、口ずさんで鼻歌を歌った。


    "愛をあげよう 君にあげよう

     僕はいらない お金を頂戴"※2


 何その歌、と兄が聞くので、キラーストリート、と答えた。何だサザンかよ、兄弟の会話がはずむ。


「今日はあれだね、従業員二百人越えの企業だと、役員も途端に偉そうになって、相手すんのも大変、参るよ」

「あんま無茶すんなよ、体壊したら元も子もないから」

「ガキは元気?」

「もうすぐ、小学三年だ」


 アニキ、オヤジの顔になったねと御船は言う。御船以上にぎらぎら、とげとげしていたところが、いつのまにかすっかり消えていた。


「すっげえ悪ガキ。お前そっくり」

「おれはおとなしかっただろ。悪いのはあんた」

「そんなことねえよ」兄は興味深げに聞いてくる。「その企業の役員、どんな感じだったんだ?」



 詩子が聡一郎に顔を見せている間、彼の二番目の息子、陽介の兄の一人がゴルフに行くのにタクシーを呼ぶというので、御船は運転手をかって出た。その車内でその息子、栄生は、助手席シートを傾けて無遠慮にしゃべる。二人は年が近いので、仲が良いとみなされていた。


「でね、俺は結構遊ぶけど、兄貴は堅いの。酒も全然飲めないし、役員たちに影でバカにされてるよ。お袋と一緒。純朴つうか真面目っつうか。時と利を見れないっていうか。決済だって根回しは俺の方に先に回ってくるし。部長から担当役員抜かして、おれのとこに先に話が来るよ。なあ御船、営業部長に言ってくれたんだろ」

「何も言ってませんよ」

「隠すなって。営業部長が言ってたもん。御船さんから、この案件はおれに話通しておくように言われたからって」

「栄生さんの方が、的確な判断ができると思ったから、そう言っただけですよ」

「お前はおれをよくわかってるよね、ほんと。なかなかいないよ、そういう奴」


    "誰もがほぼ満足♪"※3


「プログラマーたちの統括なんて、やってらんねーよ。華がないんだよな。俺がやりたいのはやっぱり企画、宣伝。メディア露出の方」


 御船が、車のラジオを変えると、バブルガム・ブラザーズのカバー曲が流れ出した。


「こないだ良かったよ、あの店、絶対また行く」

「いや、喜んでもらえて光栄です」

「お前ってどこであんな店見つけてくるの?」


 そういう悪友がいるんで、と御船は信号待ちの間に機嫌良くちらりと相手の目を見て微笑む。


「いい子(そろ)えてるよな、サービスも良かったわ」

「相手も商売、そこまで、酒の料金に入ってますから」

「あのレベルで超お得だよ。でもあの女、俺なら店のこと抜きでいつでもいいって言ってくれたよ」


 足をボンネットに投げ出しかねない格好で、彼のリラックス度が知れた。これでも兄の取締役専務と父親の取締役社長の前ではかしこまったものなのだ。


「同伴なんてしてくれなくてもいいからまた会ってほしい、抱いてほしいって。普通にデートしたいんだって。みなとみらいとか行って、観覧車に乗りたいんだってさ俺と。かわいいこと言うよな。女は可愛いのが一番だよね」手で卑猥な形を作る。あっちもいいし、と御船の耳にささやいた。

「なあ詩子ってさ、あんまり可愛げないと思わない?」

 御船は至極明るく答える。「そんなことないですよ」

「詩子とやる時あいつどんな顔してんの?あいつでも喘いだりとかすんのかな、脱いだらすごい?」


 御船はその質問には答えずに、曖昧に微笑むだけだった。

 ゴルフ場の端に差し掛かったころ、栄生はまた御船に聞いた。


「オヤジ、N総合商事の相談役やめるって?」

「そういう話が出てるみたいですね、本社との間に」

「もうそろそろ、いいだろ。だってあっち今、異常に入れ替わり激しいらしいじゃん。五十代が肩身狭いってすごいよね。こっちなんて六十代ごろごろ。Nの方はもう役員にも自分を知ってる連中いないし、お前がいてくれてまじで助かるって言ってた。影響力も薄くなってただのお飾りだってぼやいてた。役員報酬は魅力だけどね」

「退職金も魅力ですよ」

「でも、お前あそこの社長になりたかったんじゃないの。オヤジが相談役やめたら、後ろ盾なくなって困らない?」

「私はね」と御船は内緒ごとを打ち明けるように栄生の方に体を傾けた。「沈む船には乗らない主義なんです。今期の決算、来年見たら驚きますよ。役員には嫌われてるしね」

「ああ、あっちの副社長だろ、いたいた肩身の狭い五十代。あの陰険な顔した奴。でも俺は、お前と一緒にやりたいな。うち来れば?お前と俺が手を組んだら、相当の事やれると思わない?おれが、ここの社長で、お前が幹部。どう?よくね?」


 微笑んで答えない御船に、栄生は声をひそめて語り掛けた。


「アニキを追い落とそうぜ」

「いいんですか、そんな事言っちゃって。お兄さんなのに」


 栄生はゴルフ場で降りると、車の窓から御船を覗いて機嫌よく言う。


「また頼むよ。今度はぴりっと辛いやつ。可愛いだけでも満足できないからさ。お前もいるだろ?何人ぐらい?そのつらで、口はうまいし、もてるだろ?」

「いや、まだ囲うほどの甲斐性ないんで。コレが足りないから」言いながら指で輪を作る。

「お互いもっと上、行きたいよね。じゃあね」


   *   *   *


 御船は兄と今度は飲もう、と約束をして定食屋で別れた後に、秋社長の持っている店に直行した。レクサスを返してから部屋に上がり込む。


「ありがとう、アキ。あの店も女も喜ばれた」

「そう、良かったね」

「おれ、ああいうのわからないから」


 本当に?と聞いてくる、秋社長の流し目だった。


「行かないもん。金の無駄。どうやって見つけるって言われたぜ?」

「なんて答えたの?」

「悪友がいるって」

「悪友?」秋社長はおかしくもなさそうに笑った。「私だって知らないわ。でも調べたらぼろぼろ出てくる、そういう需要もありなのよ」

「いるんだね、ああいう所行きたがる奴、おれの周りにも本社にもいないからなあ。普通行かないだろ」

「行くでしょ。あたしのだんなだって行ってるわよ」


 今日、機嫌がいいのはおれの方、と御船は思う。十九の年からずっと見ている詩子の若々しい粗さが、いつのまにかびっくりするほど成熟していて、女の体に幻惑された。


「最近あたしの所来なかったのにね。珍しいね」


 アキは笑う。今日はここにいてもいい、と聞いたら、あら禁欲生活終了なの、と聞き返してきた。それ以上何も言わない。馴れた女のからだにまとう、蠱惑の光が目に今は宿っている。どこかの反感を持ってる女に対するつかの間の勝利を感じている。似たような眼の光を、あのキリエ女史の中にもいつか見たことがあるかもしれなかった。アキも一緒で、おれが詩子を打ちのめすことをいつも期待している。女に嫌われる女っているものなんだな、よくわからないが。あいつがおれにぼろぼろにされて涙を流して絶望するのが見たいんだな。詩子はそんな女じゃないのに。おれにそんなことは出来っこないのに。

 御船は目を閉じる。夢の中でも、ビジネスの声はこだまする。


──リーマンショック以来きついよ。

──どんな時も、波があるさ。


 急激に変貌していく故郷、どんどん白くて目に新しく、いつまでたっても見慣れない建物に浸食されていく。御船の心にも胸につまった石のようなものはあるのだ。例え壊れていくのでも、郷愁を感じながらも仕方ないと口にして、どうしても懐かしい古ぼけた赤看板の店を目が追ってしまう。



 御船は、これはと思った顧客相手には、とことん親身で丁寧だった。こいつなら信じられる、絶対見捨てない、と思わせられたらこっちのものだ。本社でやるような大企業をさらに堅強にするのではなくて、小さな所、昔の赤看板や町工場の二世、今から生まれようとするベンチャーを応援したい。神奈川、関東周辺の小さな所、ここはという所を回る。あるはずの市場を掘り起こす。おっさん、おお御船、と呼ぶような付き合いをして、親身になって話を聞いた。


「あのじいさんも、まだそんな年で頑張ってるかあ。後継者はどうなってんの」

「違う所でサラリーマンやってる。でも戻って来ようかどうしようか迷ってるみたいでさ。こっちを継いだって苦しいの分かってるし、無理な稼業を押し付けたくはないんだよね」

「今は法案も整備されてるし、銀行もそうそうすぐにとどめはさせないよ。だからって手をこまねいてはいられないよな。出来ることを探そうぜ。いくらでも見直す所あるじゃん。販路拡大から会計提案まで、幅広く面倒見るよ。そして、持ち直すだけじゃなくて、先を見よう」


 付き合いの深い小杉の二世を渡り歩き談笑、商工会議所の頭の固い連中に頭を下げて回った。


「けっこう借り入れが膨らんじゃってるよね。でもじゃあ、別会社を作ろうぜ。名前も今風にしてさ、のれんもなんとかなるよ。いいとこだけ使うわけ。創業支援、請け負うよ。まかしとけ」

「でも高いんじゃないのか」

「成功報酬型も請け負いしているよ。後でたっぷりおかえししてくれるだろ」


 アキに言った。おれ、禁欲なんだよずっと。遊び人風も演じるよ。そういう風に見せておいた方がいいこともあるから。でも演じているだけなんだ。


「今、すげえ開発ガンガンしてるだろ。ちょっとやりすぎだよな。古い商店や店は地上げされまくって、活性化するどころか、追い出されて行ってる状態だからな」

「むしろチャンスって考えろよ」

「新しい奴らが来たら、必ず軋轢あつれきが生じるからな」


 地上げの手伝いもする。もう終わってるなと見た所は、説得を手伝ってマージンをもらう。


──見極めなんや、そう言ってたよな、おっさんも。



 秋社長が目覚めてみると、もう夜も更けたのに、ベッドの上は冷たかった。起き上がって周りを見ると、瀟洒しょうしゃなマンションの片隅に置いた自分の机で、御船はカタカタ、パソコンを鳴らしていた。部屋着をまとって起きてきた秋社長を見て、起こした?とにっこりする。


「寝た方がいいわよ、あなた働きすぎなのよ」

「今日、物件を見に行った先のおかげで、落ちた二割減の収入はなんとか盛り返せそうだけど、あの円滑化法案が出る前から、地域金融機関とはじわじわ競合してるしな」

「本当は、アジアに出たいんじゃないの?夜遅くまで、中国語や英語を勉強してさ。でも仕事に手は抜きたくない。本社からの仕事もある。そうでしょ」

「社長には恩がある。おれはサポートタイプなんだよね。自分が上を取る人間じゃないんだ。ああいう人がおれを使って、引っ張ってくれるのが一番いいんだよな」

「相談役は?」


 御船はその質問には答えない。唇から流れ込んだ何かに呼び覚まされたようにここに来て、性欲は満たしたからといって、安心して眠れる場所なんてないと知っての上でのことだった。何の約束もしていない女と寝るのは、鋭いナイフの上で眠っているのと同じだ。

 あっちもこっちも、八方(ふさが)り、いつだって崖の上だと、冷たい机に頭を乗せて目を閉じた。今日、唇を潤した泉のことも、今、側にいる女のことも、自分を揺さぶるどこかの大きな瞳のことも、束の間、すべてを忘れ果て、御船は寝息を立てていた。



引用


※1・2・3

「The Track for the Japanese Typical Foods called “Karaage” & “Soba” キラーストリート (Reprise)」 サザンオールスターズ


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