第十六話 七里ヶ浜にて
上を見上げれば空は海と繋がって、一面に広がる青天井、うねり寄せて返す白い泡の中にいくつものサーフボードが浮いている。
朝早くから家を出て、江ノ電を楽しもうとキリエと藤沢駅で落ち合った。少し離れた江ノ電の駅まで歩いて、洗濯物をかすめて走るような電車の風景を楽しんでいると、目の前に一面の海の青が広がった。ビルズで朝食を取ると、二人は七里ガ浜の砂浜に出た。今日は江ノ島がくっきりと鮮やかに、灯台の網目模様まではっきりと見え、さらに向こうには富士まで見える。気持ち良さそうに体を伸ばす真弓子に、キリエは口を開いた。
「あの詩子って子なんだけど」
「調べたの?」
「聞きたくない?でも、いずれわかることよ。誰から聞くかの違い。あたしからの方がいいんじゃない?」
「うん、まあ。じゃあ、教えて」
ちらちら光を放つ波の動きが目に痛い。昨日までは右も左もコンクリートに囲まれていた。それなのに今は、突然、ぱっくりと口をあけた海と空にはさまれている。開けた視界がまぶしい。
「あんたの出向先の先生は、創業者で相談役の黒沼聡一郎の弟でしょ」
「それは知ってる」
「聡一郎と隆一郎。なんかそういう親いるよね。どっちも一番になってほしいとかでどっちにも一郎つける人」
漁船のマストに止まったうみねこのぎゃあとなく声が近かった。
「この間に、一人、女がいて、聡一郎の妹で隆一郎の姉ね。白砂家っていう所に嫁に入ってるの」
「そうか。なるほど。そうだったんだ」
うみねこが飛び立つと、今度はかもめが目の前を通りすぎ、しっかりして真弓子、とキリエが膝をゆすった。
「そうだったんだじゃないでしょ。プレゼント事件の姪って、あの子なのよ」
砂の中に開いた穴から蟹が顔を出す。音もたてずに横歩きで海に向かって走り出した。
「陽介ってオタクは甥っ子なんでしょ、いとこじゃないのその二人」
「キリエ、やめて」
「いとこの姪っ子って以前、そこの事務所に勤めていたんでしょ、そう言ってたよね」
待ってねえキリエ、ちょっとだけ止めて。サーファーが鮮やかに体を翻し、見事と思う間もなく、体がバランスを崩して海へ落ちた。御船の声が脳裏に響く。
──あのおっさん、頑固だろ。
「スーパー営業マンがいたのよね」
「やめて」
──男がええて、出て行ってしもてなあ。
「そいつ、次郎君でしょ」
海と空の間で、海風に吹き付けられながら、事務所の景色がはっきりとよみがえる。ウィスキーボトルとグラスが所狭しと並んだ埋め込み式の棚、マホガニーの机の磨き抜かれた色が光る。今、わたしが毎日歩いて、話して、歩き回っているあそこを二人、笑い合って、会話して、仕事して。狭いけど明るい給湯室。あそこで二人で過ごしていたの?武蔵小杉の簡素な事務所に肩寄り添って、仲良く立っている二人を見た時よりも、ずっと、重く沈む石が胸の汀に落ちてきた。
「どうして、話さないの?二人とも」
「話そうとしたんじゃないの?そういう気配なかった?」
「あった」
真弓子が聞こうとしなかっただけだった。見なかっただけだった。中身はまるで違うが、外見が似た少女ニーナと、なんとなく同じタイプの宇野は、二人がいなくなってから雇われた。センセイ、失った何をあなたは埋めたかったの?
「あそこを抜けて、二人で独立したのよね。そういうことでしょ」
──あいつはアカン。
「上顧客を全部持って出て行った」
波に映る太陽の光が刺さる。陽介の言葉を思い出す。どうしてそんなひどいことができるんでしょうか。
「あの子と結婚したら次郎君、黒沼一族の仲間入りね。役員に食い込めるどころか、相談役の力で次期社長だって狙えるかも。黒沼税理士は、もう下降、あっちにいる意味はない。金持ち、お嬢、美人、オーナー、おまけにがっつり惚れられてる。おいしくって、とても手放す気にはなれないわよね」
彼の事務所を訪れた時、よくあるだろうこじゃれた内装も、観葉植物も、飾り棚も、あったなら糞食らえ、と思っていた。なのに想像していたのと違って、偉そうな自筆の啓発本が棚に並んでいる様子もなく簡素で事務的、ファイルと法律関係の専門書がぎっしり並んでいるだけだった。御船の好みはビール、焼酎、発泡酒、たまにリキュール、車もこだわりなどなく、中古の日産のセダンに乗っている。必要な時には、女社長のレクサスを借りている。演技達者なだけ、見せ方は心得ているが、黒沼ほど贅沢が染み付いてもいなく、意識してそうなるまいとしているようだった。わざと意識してる。わざと。
「真弓子、あいつと何があったのよ」
キリエの優しい声は、だからこそ反論を許さない。
「ただの仲じゃないでしょ。分かるわよ、皆わかってるよ、あの態度」
反射的に腕を抱いた。下腹に力が入って、体の奥が鈍く疼いた。
「あの姪っ子だってわかるわよ、とっくでしょ。マンション持ち出して嫌がらせの一つもしたくなろうってものよ」
「いや、そういう子じゃないから」
「意識下であんたをマウントしようとしてんのよ。本人にその気がなくてもさ。人間ってそういうことをしちゃうのよ、ぽろっと本音がさ」
固く口をつぐんだ真弓子の唇が、少しだけ動いた気がした。
「私が調べようと思ったのも、あれがきっかけだったのよ。あんたたち、どうしたの、何なのよ」
キリエが差し出してきた手を掴んで、真弓子の口から、ぽろぽろ、小石を吐くように次々と、言葉がこぼれだしていた。
「まだ転職前で、塾に勤めてた頃のことなのよ。生徒たちに食事をおごるって、私は飲んでたの。近くの席にあいつがいた」
真弓子はうずくまった。キリエも彼女の動きにあわせてしゃがんで、小さく呟くような声を聞き取ろうとする。握っている方とは逆の、真弓子の長い指が砂を撫でて模様をつけた。
「あれはみんな、難関に現役で合格した、本当に頑張ってきた子達ばかりでさ。そこに軽口を叩いて割り込んできて、これで将来順風満帆おめでとうなんて、バカかお前らって言われて、かっとなって口論になってるうちに、子供らはこっそりくわたしの酒を飲んでて、わたしは吐いちゃって。あいつに介抱されててそれで」
「それで?」
「それで、家まで上がり込んできて……」
「やっちゃった?」
声が大きい、キリエ、と真弓子は顔をしかめる。
「やっちゃったの!?」
「言わないで!もう二度と思い出したくないんだから」
キリエは思い当たる気がした。肌を合わせた相手の気安さ、か。海風は強く、たまに訪れる強風は、しっかり立っていなければ吹き倒されてしまいそうだった。しゃがんだままの真弓子に、キリエはゆっくり声をかける。
「そのあと、すぐ塾講師を辞めたよね。やりがいあるって言ってたから何でって思ったよ」
「生徒たちが酒を飲んでたのが塾にバレて、クビになったの」
「元カレ君が原因じゃなかったんだ。自分から辞めたのかと思ってた」
超難関に、合格した子としなかった子とがいた。不合格だったその子といえど、かなりの大学に受かってはいたのだけれど、本命ではなかったのだ。翌日、飲酒の写真がSNSに出回り、大学合格は内定取り消しになる可能性が出てきた。監督不行届、一言もない。
「あいつと再会したのは、偶然、みたいなものなの。もともと、転職ならこれが最後だって思ったら、ちゃんとした所に……」
言いにくそうに、真弓子は言い淀む。涙はなく瞳は乾いていたが、頬は真っ青、それから両手で口元を隠して、海を見つめた。
「もう忘れたことにしたい。私も。あの頃のことなんて全部捨てちゃいたい。つらいことばっか。青木は死んじゃうし」
「自殺した娘のことね?」
「ねえキリエ、昔話、もうやめたい。話変えていい?」
真弓子は砂にまみれたバッグを叩いて払うと、中を探って、ノートと何枚かのコピーを取り出した。
「キリエ、今日の相談はこれだったの。これなのよ。ちょっと見てくれる?」




