第十五話 汀より
「あいつ、来てないのか」
イライラした口調で御船が言う。勉強会を迎え、本社の会議室に早めに来ていた。真弓子と報告がてら打ち合わせをするはずだったのに、時間になっても真弓子は現れない。秋社長は今日は急な仕事とのことで、欠席の予定だった。
水道橋はここからそれほど遠くない。秋葉原から総武線に乗り換えてすぐだ。携帯も通じないし、ちょっと行ってみて、いたら連れてきてくれないか、と御船に言われて、詩子ははい、と立ち上がった。
新橋から山手線で秋葉原へ行くまでの短い間に、詩子はバッグを取って、中から文庫本を取り出した。揺れる列車の中でも慣れた手つきで器用に本を開く。短い行程だから急いで文脈を探した。ダンテの『神曲』。突然、飛び込んできた文字があった。詩子は目で追い、口を動かさずに、脳裏で声を出して読んだ。
──"汀より底を見れども沖にてはこれを見じ。されどかしこに底なきにあらず、深きが為に隠るるのみ。曇り知らぬ青空より来たるものの外光なし。否、闇あり。すなわち肉の影またはその毒なり"※
東京駅で、どっと人が降り、また乗り込んできて、詩子はぐいと押される。人が混み合う電車の中では、誰も皆平等だった。ホームにいれば通りすぎる電車が線のかたまりになり、電車に乗れば、さっきまでそこにいたはずの景色が線状となって走り始める。止まっているのはいつも自分なのだ。
空を見た。
田園調布の贅沢な調度に囲まれた家でもずっと、家の中でグランドピアノの閉めた蓋の上に座って、大きな棚に並ぶ本ばかりを読んでいた。少し疲れたり、心を揺さぶる出来事があるたびに、彼女はいつも空を見る。
詩子は自分でも思う、特にいじめられたわけでもないけど、とにかく私は浮いていたと。高校に行かなくなったのも、単に行く意味を見いだせなくなったからだ。詩ちゃん、詩子ちゃんともてはやされ、いつも周囲には華やかに少女たちが満ちていたが、誰一人、本当の友達と思える人がいない。本から学んだ価値観の中で、世間知らずの少女たちの会話が、ばかばかしくしか映らなかった。争うこともないが会話もない父と母、この二人の間に何が存在しているの?と詩子は思う。
この世に潜む、ほんとうのことを、見定めたい。
ここでは駄目だ、ほかの高校に行くこともできないし、大学だって父が勝手にどこかの女子大に決めてしまう。ここじゃないどこかに行きたいと、ずっとずっと思いつめて、そんな時はいつも空を見る。
今、ほんとうのこと、を見定めていられているのか、詩子にはわからない。ただ、“ここじゃないどこか”はもう詩子は見つけてしまった。もう、ここ以外のどこにもないという場所を。
水道橋の駅を東口で降りて、携帯の位置情報を頼りに、真弓子のマンションを探した。電車の中から、大学生の姿がちらほら見受けられる。高架下からむっとラーメンの匂いが立ち込め、詩子はハンカチを取り出した。稲荷神社を通り過ぎ、何度か電話をかけてみたが、真弓子が出る気配はない。
詩子がおずおずと立ったのは、築五十年はたっていそうな、賃貸マンションの前だった。マンションというより、安アパートと言った方があう。コンクリートにはひびが入り、階段の鉄の手すりは錆ついている。それでも、いくらもある古い建物と比べれば、ここはまだきちんとした清潔さは保っているのだが、詩子の目にはそこまではわからなかった。
玄関ロビーをそのまま抜けて、入っていくことができた。オートロックではなかった。
伊野木、との表札があるドアで、玄関チャイムを押してみたが、何の音もせず、バネがきかなくなりかかっていて、壊れているのかどうかもわからない。耳をそばだてて、また押した。鍵がかかっているのかどうかを試す勇気が詩子には出なかった。どうしようかしらと迷って周囲を見ると、詩子、と呼ぶ声がして、御船が階段下に立っていた。
「こんな所にお前一人でやるの、無茶だったかなと思ってな」
追いかけてきてくれたんだわ、先生、と詩子がほっとする間もなく、汚れたコンクリートの階段を上がってきた御船は、いきなり玄関のドアを乱暴に叩いた。音が反響してマンション内に響き渡った。凍り付いている詩子をよそに、鍵穴に口を近づけて怒鳴る。
「おい、おれだよ!開けろ!」
びっくりして先生、と袖を引くが、御船はやめない。部屋の中はしんとして、気配一つない。
「何、どしたの。うるさいな」
めったにものに動じない御船が、柄にもなく動揺した。
ぐるっと振り返った二人の後ろに、買い物袋をいくつかぶら下げた真弓子が立っていた。ラフな部屋着姿だった。
詩子は声を上げそうになる。真弓子はいつものアップスタイルをほどいていて、緩いウェーブの髪が肩になだれ落ちていた。アイラインもマスカラもつけていない薄化粧に、目尻の上がった大きな目からはきつさが消えて優しく見え、くちびるも霞がかった桜色に光っている。まるで別人のようだった。
ジャケットに隠れていた胸の膨らみがくっきり、細い腰との対照が目を焼いた。夏物の薄いリネンのカーディガンの下にあらわな細い肩をまわしてバッグから鍵を取り出そうとする。御船の声も、心なしかうろたえていた。
「今日は定例会だって、伝えてあったはずだぞ」
「秋社長にちゃんと連絡はしたわよ。今、忙しい。今日は欠席にしてちょうだい」
御船は手を伸ばして、真弓子の手にあるいくつかの買い物袋の中から、書店の袋を奪い取る。返してよとの声も聞かずに中を開くと、何冊か経理の本をつまみ出した。
「会社に必要な知識を仕入れて、付加価値を自分にも、とか考えてるんだろうが。頭冷やせ。経理の知識は必要だろうが、今やることは、それじゃない」
勉強して経理の資格を?取ろうとしたのかしら、伊野木さんが?と詩子は考える。本当に?地面に御船が落とした経理の本を拾おうと、詩子はかがんだ。本についた埃を丁寧に払ってはたく。
「だからお前はバカなんだ。行くぞ、これから会合なんだ」
「黙って」
本を拾いながら詩子が見上げると、真弓子の手の中で買い物袋が鳴った。
「余計な口を挟まないで。あんたの考えと、わたしのやり方は違う」
握りしめられた真弓子の手を見た詩子は立ち上がり、本を抱えたまま二三歩下がる。真弓子の胸が上下しているのが見えた。
ただならない空気だった。
「あんたはいつも、自分のやり方が絶対だと思ってる。それを人にも強制する。けれど人が違えばアプローチも変わる。マニュアルに乗ろうとした方が失敗することもある。私のやり方が間違っていたとしても、それは私の問題、自分で失敗を重ねながら、最善を体得していくものでしょう」
御船は黙っていた。口をつぐんで、眉を寄せているだけだった。
「あのね、世の中に絶対なんてものはないの。絶対なんて、絶対にないの」
三人が佇む世界が突然、静止して音が地に沈み白い光に包まれた。足元から影が延びてそれもまたすぐ光に溶けた。
「明日なんて、ないの!」
真弓子の何かが破れたような叫びだった。
詩子は息をのんで見つめた。でもそれは一瞬で、真弓子の平静は変わらなかった。幻は消え、いつもの東京の風景が戻ってきた。神田川沿いを走る総武線の電車の音が微かに届き、真弓子の声はしっかりとして、硬かった。
「それはわたしの考え方で、あんたのじゃない。あんたはあんた、私は私。あんたの理論を私の上に押し付けないで」
御船は物も言わずに、真弓子の顔を見ていた。真弓子も負けじと見返した。
彼の潜めた眉の下、いつも酷薄で冷たい目の中に、いつにない煌めきを見、勝ち誇っていた真弓子は虚を突かれて思わずひるんだ。
男の目から散っている火花は、隠せない歓びだった。
うるせえよとか、バカ野郎とか、勝手にしろとか、いかにも彼が言いそうな千の台詞一つなく、ただこっちをいつになく真面目な顔で見つめている。口を真一文字に引き結んだ仏頂面の顔の下、その目だけから滲み出てこぼれ落ちる、嬉しそうな輝きがある。今にも漏れ出しそうに光っている。まるで涙のように。
何よそれ。意味わかんない。
真弓子の頬も興奮に染まって薔薇色に燃え、沈黙がかえって、この真っ直ぐに防御していた胸に焼き付いて、今にも打ち砕かれそうになっている。彼の表情は、顔にパチパチ当たってきたあられの粒のような女の声が小気味良くて、こんなに気持ちがいいなんて、男にとっても理由のない高揚と歓びを、なんと呼べばいいのかわからない、とでも言いたげだった。
そんな二人を詩子はじっと眺めていた。
ただ見ていることしかできなかった。心のうちで呟いた。
──髪を下ろした伊野木さん、とてもきれいだわ。こんなに可愛い人だったかしら?
この世に潜む、ほんとうのこと。それは、世界のどこにでも転がってあふれていた。目を開きさえすれば、見えるはずのものだった。その中のちっぽけな一つを目の当たりにしただけだったが、詩子は、見たいと願ったはずなのに、今は見たくなかったかもしれないと思っている。だが不快でもない。見たからといって、どうにかなるものではなく、ただ存在しているだけなのだと詩子は知った。
詩子は繰り返す。頭の中で。呪文のように何度も繰り返した。汀より底を見れども沖にてはこれを見じ。されどかしこに底なきにあらず、かしこに底なきにあらず……と。
引用
※「神曲 上」ダンテ・アリギエリ、山川 丙三郎 訳(327ページ)




