第十四話 スキッパー・イズ・デッド
横浜のパブ、黄金町のショットバー、中華街で紹興酒を舐めたら、馬車道のジャズバー、所変わってガード下をくぐれば、響き渡る電車の音に会話が途切れ、轟音が過ぎたならまた、賑やかな会話が始まる。戻ってきた光に照らされ、談笑している、サラリーマンにほっとする。ちょっと気取って葉巻に手を出す年輩の男にはスコッチ・ウィスキーを。
黒沼は、美しい夢を見ていた。
「あそこね、仕方ないですね」なじみの銀行マンは、お客が飛んだ、という黒沼の話を聞いて、しみじみとした。「倒産、知り合いだと、きついですよね。気持ちも沈む」
黒沼さんはよくご存じでしょうけど、と前置きして「つぶれかかった小さい店の経営者を変えるってのは、本当に難しいことなんですよ」と彼はぼやく。
「銀行ももうほったらかしてたら利息入れてくれるって時代ではないので。あれこれ経営支援をしろって上は言って来るんですが、出来る事なんかしれてます。店構えをしゃきっとしろ、ブログ作れ、販促の手段、リストラ策。小さくても自分の店持ってやっていこうって人は口出しを嫌います。自分のやりたいようにやって何十年きたんだから、いきなり出てきた銀行勤めの若造に、ああしろこうしろって言われても、はいそうですかって聞きたくないのは当たり前なんですよ。人に指図されるのがいやでサラリーマンやってないんだから」
ひれ酒はたまらん。泡盛も好きや。獺祭はそのままがええ。山崎のオンザロックと水割りにはそれぞれの良さがある。今の気分なら、ストレートや。
「今まで社長、社長って言われてきて、まわりの人目もある。ベンツを売却、土地を手放す。そんなことをしたら、周りの人間からは、あそこは傾き始めてるんだなって見られるわけですよ。誰もそんなところに好き好んで行こうとしなくなるって、強迫観念で、疑心暗鬼になっちゃって」
穏やかで丁寧な、なじみの銀行マンの声が、途中から別の男の声にすり替わった。
「坂道なんだ。ただ転がり落ちるだけ。金と時間をかける価値があるのかどうかは、一目でわかるものなんだ」
ぎょっとして黒沼は顔を上げた。
「ちょっと!センセイ」
黒沼はそこで我に返った。寝てはいない。ただ、白昼夢に陥っていたようだった。
「もう、一度こちらの要望を伝えて、予定をもらっているんですから、ここで変更は無理です。信頼を失うわ」
真弓子の声は、内容はともかく、きつく咎め立てする様子はなくて、むしろ気がかりそうだった。
「無理か?無理なんか?」
「無理というより、ダメです。やっちゃいけない。ルール違反です」
「ルールなんかあるかいな。んなもん気にしとったら商売でけへん」
「ダメです」
思ったことをはっきり言う真弓子の言葉が、ふいに黒沼の癇に障った。ガタンと椅子を鳴らして机が、パーティションがいつになく激しく揺れた。黒沼はふらつく脚を前に出して、事務所の真ん中に立つ。事務員たちが、彼を見た。黒沼は振り返って前に立つ女の、腕を組んだ一歩も辞さない構えを見た。肩越しに、ショットバーの棚を見た。
氷が溶けて沈み、グラスにあたり、ゴトンと置かれて机に丸い輪を描く。美しい歌を奏でる。フィルハーモニーや。コンサートや。
あの音楽と紫煙、輝きとざわめきの間に立ちはだかる、邪魔をする。さっきの銀行マンの語る物語は、誰か他の人間の話ではなかった。黒沼自身、ほかでもない自分自身の物語だった。目覚めればその続きを演じなければならなくて、この美しい音楽は、少しは夢を運んでくれる。途切れなく続く痛みを忘れさせてくれるのに。黒沼は、自分の前に立つ女をもう一度見た。表情には困惑と不安があるのに、今の黒沼には見えなかった。ただ、こう思う。
──おれの全てに反抗しくさる。
それはいつかどこか、違う誰かの姿に重なった。
黒沼は低い声で、下からすくいあげるように見て、言った。
「ワイのいうことがきけんなら、あんたもう、来んでええで。帰りや」
はぁ、とチーフが笑いか溜め息かわからない吐息を大きくついて、後ろを向いた。「やった。ついに」
ニーナの満面の笑みが、パソコンの向こうから目だけをのぞかせている。予想外に不安な顔をしているのは、佐藤かずみだった。
一言も言わず、席に戻って荷物をまとめている真弓子の後を佐藤は追った。声をひそめて肩越しに囁いた。
「大丈夫、きっと平気ですよ。いつもそうなの。気分でコロコロ、あとで言うことがすぐ変わるの」
「なるほどね」
「本当に帰るんですか?」
「ええ。取りあえず、帰れって言われたから私は帰るわ。あとはよろしく」
佐藤は、逃げる気なの?と声を荒げようとして真弓子の顔を見てやめた。真弓子の顔はいたって平静、この程度の事態は折り込み済み、とでも言い出しそうで、諦めとはまるて無縁のようだった。
家に戻った真弓子は、ポストに詰まっている新聞に顔をしかめてから、古くてひびの入ったコンクリートの階段をヒールの音を立てて上がっていった。まだ陽が高い。真弓子はシーツを洗濯機に投げ入れ、ついでにその辺りにある放置していたすべてを投げ入れてスイッチを押した。コンビニで飼ってきた発泡酒の缶のストラップを起こして一息に飲む。
梅雨時だが、もう暑くなりはじめていた。次の発泡酒を開けながら、下着から滑らかな白い胸元が覗いているままの姿で、もう一度経費の資料に目を通した。どうにもよくないのよね、それに何かが変。アップの髪にクリップを突っ込んで掻く。
──何かおかしい。もうちょっといってもいいはずなんだけど。あいつに渡した資料からすると、もうすこしもうけてるはず。
預貯金の取り崩しを減らそうとして新規を増やした。なのに、利益率の上げ幅が思ったより鈍い。女の勘のようなもので、ひどく背中がざわざわする。駄目だ、これはもっと専門的な知識がどうしても必要だ。もう一度あいつに聞くのも癪に障る。誰か経理にすごく詳しい人いないかしら。キリエは、私は財務諸表なんて見ない。見る必要がないからよ、なんてすましていた。私がチェックするのは、客の戸籍の附表、登記簿謄本、現在地の住民票、預金残高だけ。
通帳のコピーの中の一行に、指が止まる。この入金はなに?と黒沼に聞くと、ひどく不機嫌な顔が返ってきた。
──小遣いや。
──誰からの?
不機嫌がいよいよ、ひどくなる。うるっさいわ!と言いたげに、頭を爪を立てて掻いた。
──アニキのや。
ここが立ち行かなくなったら、という話題は、真弓子が来る前から、黒沼がいないときの皆の雑談の種であるようだった。給料の未払が発生するかも、と長谷川か言うと、「わたしいやですよ、そんなの」真っ先にニーナが叫ぶ。
「本社に言って何とかならないんですか」
「本社はもうここ見放す気よ。返済を再開しない限り」
すると、佐藤かずみが口を出した。
「そんなはずありません。先生は本社の創業者の弟なんですよ」
えっ、真弓子はあっけにとられて、口を開けた。
「黒沼ってもしかして黒沼相談役なの?」
「何だよ、そんなことも知らなくて、今まで先生に喧嘩売ってくってかかってたの?」
口々に事務所メンバーに信じられない、ありえないと言われて、そうか。これか。皆の黒沼に対する遠慮の種は、と、真弓子ははじめて腑に落ちた。
援助は、相談役のもの。傾きかけてからなのか。本社は無担保。だから私がここに?考えていると、陽介が細い体を折り曲げるようにして、あの、さっきの話、とささやいた。真弓子は、彼を見上げて言った。
「陽介、あんたって、黒沼相談役の息子さんだったのね」
陽介はなぜか、ひどく泣きそうな顔をして下を向き、長い前髪が眼鏡を隠した。
「センセイはお兄さんから援助を受けてるのね。それで、なんとかやりくりしてきたのね」
──こいつを振り込んでくるのは、陽介の面倒を見てる代金のつもりなんや。だが、陽介の上の兄弟らは、ワイの兄の会社の役員やが、陽介がうちに来とるのをいい顔してへんし、軽蔑しとる。こんなん、いつ切られてもおかしくないんや。
黒沼の口は重くて、苦々し気だった。
──アニキは事務所の建て替えのときに借りた資金、うちの連帯保証人やっとるからな。うちが倒れられても困るし、不承不承くれよる。感謝もしとるが、いっそなくなってくれたらと思うこともあるんや。
「父はここに僕が来るのが嫌なんです」陽介は心底、憂鬱そうに言う。
「帰って来い、やめろやめろって言われ続けてて、父の方の会社で働けって。ゾッとしますよ。兄も二人いて、役員やってます」
頭をうなだれて、陽介は体を縮めた。真弓子は表情を変えないまま、キーボードに向かっている。この青年が話したいだけ、話させてやろうと無言のままでいた。
「あの家、僕は肌が合わないんです。本当に、気持ち悪くて無理なんです。最低のクソオヤジで。顔を合わせたくなくて、今は家を出ちゃってて。母も感覚のおかしい人で。カネの話題とか、いかに金持ちかって話題ばかりするのが本当にいやで、パソコンとゲーム、携帯やネットばかりに逃げ込んでました。やめてくれっていっても、きょとんとするだけなんです。言葉が伝わらない、あそこは人間の住みかじゃない」
暑くなりはじめて差し込む日の光に、ニーナが立ち上がってブラインドを下ろしに向かう。ふっと強い太陽が陰り、電気を誰かがつけたようでまた明るくなった。
「僕をまともな人間に育ててくれたのはおじさんとネットの人たちです」
それから、心配そうに真弓子の方を伺った。
「僕、ズレてますか?」
「まともすぎるぐらいよ。けどまあ、感謝しよ?そのおかげで今は首の皮、つながってるんだから」
「たまにうちに帰ると、ここの借金。かわりに返済してやってるようなものだ、あいつはお荷物、終わってる、つぶれかけがこっちに迷惑かけてくんな、毎回イヤミです」
ねえ、と真弓子は穏やかに遮って、今入力しているディスプレイを陽介に見せた。
「この支援先の資料、あんた見たことある?中小企業の典型みたいな先。銀行にリスケで条件変更して対応してもらってるけど、借入肥大が年々膨れ上がってる。それでも必死で働いて、ものを作って、売っているよ」
ディスプレイの上にちらちらしている文字は、陽介が目を細めて何かを見ようとしたが、それはただの数字の羅列にすぎず、真弓子が何を言いたいのか、彼にはわからなかった。
「僕は働くとかそういうの、向いてないんです」
「向いてないわけないでしょ。これだけのもん作れるのにさ。こういうの、いくらフォームつけたって、なかなかひっかかるもんじゃないよ。誘導がうまい。わかりやすいし、説明もきちんとしてる。ここで何かを作ってるのはあんただけ」
言い捨てて真弓子は席を立った。
「蚊みたいな連中の言い分にいちいち傷つくよりも、プライドを持ちなさいよ」
残された陽介の背中が、背は高いのにひどく小さく、しぼんで見えたた。
シーツの洗濯が終わって干した頃、真弓子の携帯に着信があった。ベランダから慌てて入って、電話に出ると、「そのへんにいるけど、家よくわかんないから出てきて」と男の声がする。
真弓子を連れにきたのは宇野だった。
「あら、あんたなの?」
「先生が、すまんかったから、戻ってきてくれってさ。ま、当たり前だけどね」
手早くジャケットに手を通し、先生はどんな感じよ?と聞くと、最初はむっつりしてて、それから歩き回って、おろおろして、それで俺に、何で止めへんのやって怒ってた。
水道橋駅に向かい、中央線から京浜東北線へ乗り換える。おれね、とホームの隅に立ち、宇野は周囲に聞こえないようにこっそりと真弓子に耳打ちする。
「資格、税理士も会計士も、本当は何もないんだ。黒沼さんと回りながら、教えてもらっただけ」
自嘲の気配はなかった。あっけらかんとしたものだった。
「あんま本気になれないんだよねえ。何に対してもいい加減でさ、縛られたくないからこの仕事やってるだけ、バイト扱いで気楽だし」
電車が轟音を立ててホームに入る。一瞬、真弓子のジャケットも宇野のゆるく結んだネクタイも、舞い上がる。つり革につかまって揺れながら、宇野は真弓子に真面目に言った。
「あんたってよくここまでやれるよね。強いなって思うよ。どこでも生きていけそう」
「生きていくつもりだよ」
「ジャングルでも砂漠でもサバンナでも、生きていけそう」
無視して足早にヒールで歩くと、宇野は笑って追いすがりながら言う。
「氷河期がまた来ても、生き延びそう」
事務所に戻ると、真弓子は開口一番言った。
「センセイ、禁酒してくれるわね」
黒沼はパーティションを取り去っていた。棚が正面の入り口から見ると豪華で壮観、事務所は突然、二倍も広くなったかのようだった。
「全部は無理やで。ヘビースモーカーでも減らすとこからやるがな、ましてワイはアル中やで。禁断症状で死んでまうがな」
つぶやく黒沼の方に真弓子はつかつか近づいて、机を回り込み、椅子の肘置きに手をつくと、目をまっすぐ見つめた。
「センセイ、あなたは手も震えてないし、口だってしっかりしてる。ただちょっと今疲れて、心が折れかけていて、あきらめかけて、ちょっとすねて腐っているだけよ。断酒。業績持ち直した時に、浴びるぐらい、その時はもう卒中で死んでもいいから飲みなさい。おごってだってあげるわ」
──ねえ真弓子、悪いことは言わないわ。
影が耳元でこっそり、ささやいた。
──人と同じで、会社にも死に場所があるのよ。そして、人と同じで、苦しみもせず、醜態もさらさず、ぽっくり大往生なんてケースの方が珍しいのよ。
──苦しいの?
──そうよ、苦しんでもがいて、からだのうちも外もズタズタになって死んでいくのよ。
下唇を噛み締めて、真弓子はささやきを後ろに追いやった。
「こっそり家でちびちびやる分には、私だって文句は言わないわ。二十四時間見張れないからね。でも、次の日にかかるような飲み方は、もうやめて」
真弓子の真剣な目を黒沼は見上げ、むしろこの女が今はワイにとって酒のようや、と思う。いつの間にか、このほっそりとしているのに生気にあふれた姿、弾む綺麗な声が事務所にないと、酒を飲んでも酔えず、砂を噛むように味気ない。苦笑いしながら尋ねる。
「飲み仲間にはどう言えばええんや?」
「肝硬変になったとか、怖い鬼アシスタントが怒ってるとか、何とでも」それで壊れるような関係ならそこまで、と真弓子は言う。「今こそ口先三寸の出番よね」
「約束、破ったらどうなるんや?」
真弓子ははっきりと言った。
「棚の酒瓶、ここで、全部たたき割ってやる」
「本気やでこの姉ちゃん」
黒沼はほな、やるだけやってみよかと、それでもしぶしぶ約束した。事務員たちが帰って、真弓子と二人になり、黒沼は棚の酒を名残惜しげに矯めつ眇めつ眺め、指ではじきながら誰に向けてともなく、独り言のように言う。
「あんたは猫や。熱いトタン屋根の上で飛び跳ね続ければええわ」
真弓子は黒沼を振り向いて言った。
「マギーのためと思って、お願いします」
その言葉に目を開き、あっけにとられた黒沼の側を彼女は通りすぎ、声をかける暇もなく、扉は開いてまた閉じた。幻聴だったかと束の間呆然とした男は、確かに真弓子の唇に笑いがかすめたのを見たと思う。猫の尻尾が扉からちらりと覗いてすぐ消えたように。
──何や、あんな古い映画をよう知っとるな、あのねえちゃんは。
「洗い出しが終わって、新規も含め最新の顧客名簿で生きてるのはどのくらい?」
「五十五ってところです」
「少ない!七十に上げて。捨てた所で復活できないかも検討をして」
いい、と真弓子は机に手をついた。
「自分たちで、自分たちのために、洗い出すのよ。本社の専門コンサルの意見を頼っちゃって、おとなしく言うこときいてるようじゃだめ。明確な目的意識を持たないと。そのためには、目標を設けるの。達成率をあげていって。センセイからごほうびがあるわよ。臨時ボーナス、点数化するからね」
「成功報酬型って難しいんやで。もうけたらそれは、こっちの手柄やないゆうてくるし」
黒沼が横から口を出してくる。顧客名簿をぱらぱらめくる。
「そこをもぎとるのがあんたの仕事でしょ。甘えたこと言ってたら、全部のノウハウも人脈も引き上げて、じゃあやってみろよってぐらいやんないとダメじゃないの」
そんな台詞をいっぱしに吐きながらPCを叩き、ちょっとそこ、電話出る、あんたよニーナ、と鋭く指摘する。周りも無視しないで!三コールも待ってないで。
──問題は、わたしも一蓮托生ってことなのよ。ジジイと心中する気はないの。
手を握りしめ、低くつぶやく。まだいける。ふと、隅の隅から、嫌な顔をして覗いている経理の爺さんが目につくが、構わずに言葉を続けた。
「そもそもこの名簿、成功報酬型とは分けて。全部混ざってる。企業規模と報酬額でランク付けして」
このねえちゃんなら、きっと伊丹作品も網羅してるやろうな、と黒沼は想像しつつ、その後ろ姿を眺め、そこに昨日の尻尾が揺れたように思う。
──猫のためと思えば、少しは我慢してやってもええか。何せ美人やからな。
鞄の中のウィスキー瓶に革の上から触れて、独りごちた。




