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汀より  作者: 天海 悠
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第十三話 株主総会



 ようお疲れ、とぬうって入ってきた巨漢は、顔色が土気色で目の下には黒いくま取り、しわだらけのすごい形相だった。社内にはっと緊張が走るのを、キリエはにっこり、むしろ機嫌よく語りかける。


「あら、武藤さん、お帰りなさい」

「どうよ、まとまったか、できてねぇべ」


 よしよし、と巨漢はキリエが渡した資料を手に取り、うなずきうなずき、指を舐め舐め、頁をめくった。梅雨を迎えた横浜に、この日は薄曇りにスモッグが立ち込めていた。社内はむしろ静かで、たまにかかる電話は、男たちの厳しい表情からその内容が窺える。


「弟がモメてるんです。連帯保証人になった覚えはないって」

「でも書類見たけど、自分でしっかり署名してたぜ」

「居酒屋で酒をしこたま飲まされて、ノートの下に複写のカーボン用紙置かれて、そこで書かされたと言ってるらしいんですよ」

「変な市議会だか県会議員だか関わってるらしくて、色々言ってくるんだよ。きつい督促とくそくをするな!とかね」

「悪い奴がいるんだよ、カネもらってて横やり入れてくる議員がな」


 資料を手に机へ向かう武藤は、キリエに言う。


「おめぇはよ、若い女のみそらで何が悲しくてこんな仕事選ぶんだよ」

「好きなんですよ、この仕事」

「この仕事、嫌味な金持ちから搾り取るだけじゃねえからよ」


 つながらねぇか、と電話をたたきつけるように置く。どすんと座って、椅子が壊れそうにきしんだ。今日は妙に元気がない。


「さっき行った先よ、年取った夫婦でやってんだよ。赤字がふくらんじまってよ」


 うなるように言う。


「自宅売らなきゃなんねえから、出て行ってくれって話だよ。奥さんが出てきて、茶を出すんだよ。この商売、茶なんか出さねぇ、出されても飲まねぇ、毒入れられかねねぇからな。だけどそこはよ、菓子まで出すんだよ。ちっきしょう調子狂うぜ、参っちまってよ。そんでこういう訳ですっつって説明すっと、最後まで一言もなしよ。黙って下を向いてじーっと聞いてやがる」


 キリエは柔らかい目を据えて、彼女こそ彼の話をじっと聞いていた。


「最後に、自分たちがしたことですから、仕方がありません、だってよ」


 巨漢は一吹き、それだけでも肺から吐き出せば嵐のようなため息をついた。


「茶をぶっかけてくれた方がましなんだよ」


 そういうの弱いのよね、とキリエは微笑する。見かけによらず人情深いんだから。


「廃業すんだろ?偉いよ」武藤の隣に座っている、ダブルのスーツを着て、ぴったりと頭をワックスで撫でつけた男が声をかけた。「奥さんパートで働いてよ。安いアパート借りりゃ、二人で働きゃ、充分返済できんだよ」


 人々を長年住んできた家から追い出し、さらに返済を迫るような真似もしなければならない商売だった。


「おめぇこの若さでこんな業界、脚を突っ込んじまったら、恨み背負って取りかれちまうぜ」


 キリエも、もし自分が真弓子に同じことをするようになったなら耐えられないと思いながらも、心のどこかが冷たくえているのを感じていた。

 わたしはあなたとはちょっと違う。ひとり笑う。ためらいもなく後ろから撃てるから。人としてお相手するわ、気持ちだってしっかり受け止める。でも、一歩離れたらけろりと全部後ろに捨てる。どうでもいい連中なんだって。結局は、飯のタネであるだけなの。相手の人生には踏み込むっていうか、踏みにじるけど、こちらの人生には指一本も触れさせない。


──次郎君、あんたもそうなんじゃないの?本当は。


「とりあえずよ、今日はいいから、おめぇの行きたいとこ行ってこい」

「いいの?」

「この商売はよ、玉がねぇときゃ暇なんだよ」


 キリエは、机をまとめて立ち上がった。


「じゃあ、株主総会に行ってくるわ」

「債権者集会じゃなくってか?」

「そう。ちょっと気になる先があるの」

「おおこえぇ。死人が出るぜ。その株主さんとやらによ」


 巨漢は体をゆすって笑った。


   *   *   *


 あの子はどうしてちゃんと調べないのかしら、簡単なことなのに、とキリエは思う。

 四季報には「総合サービス業」とある。N総合商事。社長は三代目。今のトップはやり手みたいね。経営・ITコンサルを主力にエンプロイメント・エージェンシー、人材派遣か。それと出版、主に自己啓発本と求人系雑誌、広告代理店部門も最近立ち上げ、キャリアセミナー、眼鏡の愉快な部長の部署はここね。ベンチャー起業のマネーサポート、M&A。

 ホームページの沿革にあった名前が大株主にあるわ。キリエの指が四季報の下の方に下がっていった。創業者か。黒沼聡一郎、株式保有二十一%。


──真弓子の出向先、何て言った?黒沼なんとか事務所、じゃなかったっけ?


 エナメルの指が、キーボードを打つ。どうせ夫は今日も遅くて、他の部屋は電気も落としているから、一人の夜は暗くて寒い。

 創業者、黒沼聡一郎は経営を二代目社長に譲り会社を離れた後に、金融系のシステム開発会社を立ち上げている。


──根っからの起業体質なのね。いるねこういうの。


 今日はここまでにしておくとして、その真弓子の事務所の先生は、創業者の黒沼一族なんだろうな。株主総会では、役員一同、顔を揃えるだろうと期待する。



 当日の株主総会で社長の顔を見て、キリエは少し驚いた。三代目社長の飯尾良二、若い!四十代じゃないかしら。二代目も思い切ったものね。会場に入ろうとした時、ベンツが止まるのを見た。雨のしたたる六月の只中だった。

 車中から出てきた重々しい顔の役員、キリエは年齢を思い浮かべることができた。確か今、六十五歳だったはずだ。相談役の黒沼聡一郎、税理士の黒沼の兄だった。傘を差すのが遅れた運転手に、顔をしかめて頭ごなしに叱りつけているのが見える。


──ずいぶん偉そうね、部下や使用人をあごで使ってる。ああいう所に人格って出るのよね。あら、迎えに来たのは次郎君だわ。


 御船は、今日は身なりに随分気を使っているようだった。上質なネイビーのスーツで、一回り大きな傘を横から差しかける。こっちには気づいていないようだった。今日は雨で採光も薄暗い。人もまばらで、まぎれているから、観察しやすい。

 相談役の態度は鷹揚、笑顔を見せていた。将来嘱望(しょくぼう)の若手、実力があるって、目をかけてやってるって感じかしら?とキリエは考えた。飯尾社長も後から、ゆっくりと迎えに出た。周りを見回すと、キリエのすぐ近くに、機嫌が悪そうに睨んでいる男がいた。社員の一人が近づいて、副社長、と語り掛ける。ふうん、副社長か、確かにあんなタイプはライバルからすれば脅威、すごく嫌われそう。

 相談役と御船が、階段を上がってロビーの方にやってきた。社長が後ろに続く。

 キリエは柱の後ろに回って、携帯を手に何かを打ち込んでいるふりをした。相談役が振り返って社長に話しかけている声が聞こえる。


「……あまり手を広げすぎると自滅するから、気をつけた方がいいよ」

「そこは肝に命じております」飯尾社長は穏やかに軽く頭を下げた。


 あなた、と声がかかって、五十代後半と見える婦人が後ろから近付いてくる。しぐさは上品、ただ身体の重みで顎がたるみ、肌は白粉でにごっていた。贅沢をしなれた目は、笑っていてもどこか心からのあたたかみを知らなくて、他人に対して貧と富を目ざとく見分ける視線はどこか人間味がなく、冷淡だった。


「素敵なバッグですね」夫に無視されている彼女に、横に控えていた女性社員が気を使って声をかける。「私もヴィトン、大好きなんですよ」

「これね、イタリアで買ったの」少女のような言葉遣いに、無邪気に身体をねじって見せた。「今度もね旅行に行くの」


 甘えた言葉遣いと、贅沢な身なりと、肉の付いた中年女の姿かたちが不自然で、言葉にできない不協和音をかもし出す。無遠慮な人間は、顔を背けて後ろで笑っていた。本人は気付きもしないまま、今度は夫の後ろに控えている御船に満面の笑みで声をかけた。


「お仕事の途中で申し訳なかったんだけど、あなたの顔を見るために来たの。お礼を言おうと思って」


 御船は丁重に礼をする。低い声での返事は、ここからは聞こえなかった。


「御船は、うちの家内のお気に入りだから」

「以前、彼に紹介してもらった旅行会社の担当がすっごく良くしてくれてるの。私と主人の趣味を本当によく理解してくれていて」

「ネットじゃ予約できない、別邸を準備してくれたんだ。普通は行けない所だよ」

「主人は小汚い場所はいやだから、最近はいつも必ずその人を通すようにしているの」


 飯尾社長、聞こえないふりをしているのが笑えるわ。キリエは楽しくてたまらなくなる。この少子化時代に実力主義で行く、優秀な若手で固めた革新的な会社にしては、いかにも俗な相談役だと思う。三代目とは気持ちの上で距離があり、確執がありそうだった。

 相談役と御船、社長と副社長で小話を続けている。


「さあ、はじまるからあっちに行ってろ」相談役がわずらわしげに合図したので、御船さんまたね、と婦人はにっこり笑顔を見せて、運転手に傘を差されて付き添われながらベンツへと戻って行った。


 キリエさんじゃないの?と後ろから声がかかって、キリエがはっと振り向くと、秋社長が立っていた。すらっと背の高い姿で、趣味のいいロングスカートのスーツが、清涼な風のようだった。ひとしきり挨拶を交わすと、秋社長は言った。


「勉強会、あなたなら大歓迎よ。いつでもどうぞ。むしろ来てほしいわ。せっかくあたしが会長をやってるのに女性が足りないし、若手も自分たちが扱っている案件が、うまくいかなかった時の行く先を知っておくのは、仕事に対する姿勢に違いが出ますからね」

「アキさんはビジネスの視点で見ることができるんですね。普通はこの商売、近づかないで欲しい、知りたくもないって、嫌がられますよ」

「関係ないでしょ。飯のタネで、好きでやってるならなんだって」


 秋社長は、ドライに答えた。本当にそれ以上何も思っていないようだった。


「あたしだって専門はM&Aよ。乗っ取り屋と言われるのよ」そう言って目尻の皺を深めて微かに、笑顔を見せた。キリエも笑顔を返す。

「副社長、気に入らなさそうな顔ですね」


 水を向けると、「御船は相談役のお気に入りですからね」とあっさり返事が帰ってきた。


「入れ替わりを考えれば、四代目は誰とも、そろそろ考えますから」静かに、キリエの腹を見透かしたように言う。「気が気じゃないのよ。副社長も」



 そう金持ちなんて、みんな同じ。あの、鼻持ちならないお嬢様もよ。むらむらと、キリエの心に反感が湧きあがってきた。何がマンションのオーナーだ。役員の親戚だなんてどこの誰だ。奇妙に食いついている理由は、鮮烈なイメージだった。


 二年前に真弓子に御船を紹介された時、真弓子は否定したがキリエはああお似合い、いい相手を見つけたんじゃないの、そう思った。この二人には、何かが通じ合っていると。自分は不幸でいたとして所詮家庭でのこと、傷付いてもたった一人で立っている真弓子にはどうしても幸せになってほしい。

 あの新年会での態度を見ていても、二人の間には、奇妙な気安さがあった。女の勘などという曖昧なものでも、願望や思い込みでもない。周囲の人間にもその気安さに対する意識は漠然と共有されていて、またあの二人かと苦笑い、そういう空気が流れていたのだ。

 なのに、いかにもしたたかで皮肉屋な、人を食った御船のような男が、詩子には黙って言うままになっている。それがキリエの反感の芯だった。こみあげてきてたまらなかった。挙句の果てに、マンションね。


 PCの電源を落とし、キーボードを立てかけて、物思いに沈む。本当は調べてもどうにもならないことかもしれない。きっと真弓子は、見ないようにしているのね。ああいう野心のある男が利害を考えたら、何だってやるし手駒は絶対手放さない、よく知っている。そしてわたしの真弓子は、遊びで相手になる女じゃない。


──それでも真弓子、気持ちはどうなの。あんたの本当の気持ちってやつは、どこにあるの。わたしは、知りたいと思う。見たいと思うわ。自分のことも、相手のことも、現実を見据えたいわ。たとえつらいことでも。見たくないことでも、夫が今どこで何をして過ごしているかも。胸を焼くこの思いの行き場のなさを、少しだけこっちに向けることで、今は少しだけ、安らいでいるわ。





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