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汀より  作者: 天海 悠
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第十二話 陽介と佐藤



 先生、真弓子さぁん、事務所に突然、陽介の泣き声が上がった。


「ホームページを見たのですがって、問い合わせが来ちゃったんですけど」


 このひょろっとした青年のあまりの慌てぶりに、真弓子の方が困惑した。椅子をそちらに向けて立ち上がる。


「どうしたのよ、対応して?」

「先生、お願いします」陽介は、半泣きだった。「宇野さん、いないんです。先生しか応対できない」

 しかし、パーティションの向こう側からは、ぶっきら棒な返事が返ってきただけだった。

「気が乗らん」

「ふざけないで?」


 口にあっさり出してしまう所が真弓子で、あんたもおいっ!とチーフの方を向いて鋭くにらむ。長谷川は、そっぽを向いていた。真弓子はぐるりと、事務所を見渡した。


「あんたら皆、ナメてんの?」


 あれからずっと真弓子を無視していた佐藤かずみが、珍しく急いでやってくると、袖を引いて声をひそめてささやいた。


「先生、今朝、長年の付き合いだった顧客に契約打ち切られたばかりなんです」


 真弓子は手を伸ばすと、陽介の手から電話をもぎ取るように奪い取り、事務所の全員がびっくりして凝視したほど、たった今毒づいていたのとは百八十度違った美しい高い声で、お待たせ致しました大変申し訳ございません、ご用件をお伺い致します、と言う。それからひとしきり客の説明を聞くと、電話口を抑えて「陽介!」と呼びつけた。


「こことここ、この説明文をつけたのはあんたでしょ。内容も精通してるよね」


 恐怖にぞっとして陽介の身体中の毛が逆立った。指の先から血の気が失せて痺れが来る。苦しくて立っていられない。それでも横には、鬼の形相で睨み付けた真弓子がいるので、陽介は仕方なくもう一度受話器を取った。おどおどと、はい…はい、と泣き出しそうな顔で聞いているうちに、ふと、陽介の顔が明るくなった。


「はい?ホームページですか?そうですか、すみません。それはですね、フォームの位置がわかりにくかったんですね」


 真弓子が、陽介が喋っている間に素早く走り書きしたメモを、陽介の前に突き出す。


「いま、お名前を教えて頂ければ、登録はこちらでやらせて頂きます。日にちも言って頂ければ、その日にこちらから伺います。本当に申し訳ありません」陽介は、これはメモにない言葉を自分自身で付け加えた。「フォームの位置、変えておきますね。ご指摘、ありがとうございました!」

「できるじゃないの、電話対応」

「陽介、すごい、本当にできた」

「絶対、そういう何かの病気だと思ってたのに、やったじゃん」


 たったこれだけの電話ごときで、皆がわっと集まって陽介を祝福した所を見ると、彼の電話恐怖症はよほどの事だったらしい。

 真弓子はそれより、黒沼の様子が気になった。パーティションから出てこない。むっつりと黙って、一日中棚の酒をすすっていた。



「赤字続きで身を削ってる。フィアットの燃費は仕方ないとして」

「そうなのよ。この収入でよく給料払えてると思うわ」


 下町の雰囲気が好きと言った真弓子に、御船はまた別の大衆酒場が集まる辺り、行きつけの店に彼女を連れていくと言った。彼と資料の上で額をあわせて相談する。


「銀行の返済は、これは猶予してもらってるな。月二十五万を五万とかにして。これだといつ完済できるか分からない上に、これ以上の借金もできない。回すのに苦しいはずだ」


 無精髭が生えかけている顎を撫でる。梅雨時に晴れ間の見える土曜日で、御船はTシャツにジーンズ姿だった。真弓子だけが、わざとのようにビジネススーツだ。


「もともとの借金は、事務所の建て替えとシステム代が大きかったんやって言ってたわ」


 真弓子は店員を呼んで、ビールの追加を注文した。前よりもさらに混み合い、煙草の煙が漂う店に、御船はここには詩子は連れて来たくないようで、真弓子も流石にそれは仕方がないかと思う。事務所に行くのが本当は気が重かった。彼と詩子との時間が垂れ込めていて、聖域を侵しているような気分で、かえって疎外感を強く感じるのだった。


「それもここまで返したんだってことで、銀行も対応してる。今は円滑化法案もあるからな」

「何それ」

「銀行の勝手でズバズバ切るんじゃなくて、業況ぎょうきょうをちゃんと調べて返済猶予(ゆうよ)しろって法案だよ」


 なあ、と御船が箸で網の上の肉を指す。


「焦げてるだろ!」

「焦げてない」

「焦げてるよ」

「ちょっと軽く焼き色を付けたのよ!私的にこれは、セーフ」

「アウトだよ!」



 私がどんなに頑張ったって、まずは黒沼が覚悟を見せないと、従業員の尻を叩くこともできないわ、と真弓子は思う。仕事取って来たわよ、どうだって出すと、姉ちゃん頑張るなぁと言って笑顔になる。少し胸に来る。けれど、仕事を取っても焼け石に水な気がしてきた。今更気付いたって遅いよと、チーフに言われた。うんチーフには嫌われてるから。

 帰り路で考え考え、武蔵小杉から水道橋の自宅へ向かうため東横線で都内へ向かいながら、人間、急激な変化は無理くらいは分かるけど、このケースは何か違うと感じた。


「元あった場所へ戻せばいい」


 突然、ぽんと言葉が浮かんだ。

 そうよ、もともとあのジジイはできるって言ってたじゃないの。傾いた大企業を持ち直させて、今の二度目の天下に導いた伝説のコンサルタント、と桂木部長に聞いたのだ。


「伝説なんかないさ」


 黒沼はシングルモルトをストレートで、流し込む。


「ワイがどうやったか、わかるか?」皺の寄った口を突き出してみせ、指で叩く。「この口や、口一つ。この口先三寸や。とにかく、むちゃくちゃ、しゃべりまくった」


 棚に並んだ酒の瓶を一つひとつ、指の腹で舐めていく。ジョニーウォーカー、バランタイン、コニャックのヘネシー、それぞれの瓶に刻まれ、黒沼の記憶によみがえっている過去があるようだった。


「本当にしっかりした奴ならひっかからん。他人が披露するご立派な口説くぜつなんぞをな」


 酒瓶に背中を向けると、手をかざしてグラスをくるりと回す。中で琥珀こはく色の液体が音を立てた。


「講演なんざ聞きにくるやつらはみんな、自信がないのよ。ワイだって自信なんかないわい。それでも客の前、壇上に上がったら、身一つでいつでも逃げ出す覚悟でやる」


 その覚悟を取り戻して欲しかった。



 酒におぼれる黒沼をよそに、陽介に問い合わせの内容を確認しながら、真弓子は誉めた。「ちゃんとした会社なんだなって感じに見えるよ」


「失敬なこと言いなや」

「センセイはこれからアポがあるわ」


 そこ、電話出て!と長谷川とニーナに指示しながら、宇野を呼んだ。


「新規先?おれにもっと働かせたいの?」


 あっさりいいよと言う宇野は、人との間の距離がまるでない。個人差のあるプライベートを示す半径を、見えないようにすっと手を入れて踏み込むのがとても上手かった。


「伊野木さんがやれって言うなら行ってもいいよ」


 センセイとじゃなくて僕と一緒にもっと回ろうよと、笑顔で肩に手を回されて、本気で殴るしぐさをしてもへらへらしているから、相手にならない。

 長谷川は事務仕事が増えてブーブー言っているようだったが、佐藤はさすがに、新規先が増えただけ増えた仕事も完璧だった。あれから佐藤は、真弓子に一切、口をきこうとしない。むっつりと反発してはいるが従うし、出す資料も的確だ。そこは真弓子も認めていた。ありがとう、さすがねと声をかけてみても、無視される。ニーナが長谷川と佐藤に、憤懣を煽るように悪口を吹き込んでいるのはわかっていた。


「前に、成功事例が欲しいって言ってたじゃないですか。あれ、見つけたんです」


 陽介は、事務所の使われていない机の隅に立てかけてあった、古い型のノートパソコンを持ってきた。コードを差して電源を入れ、立ち上がるまでの間に言う。


「このパソコンて、ぼくのいとこが使ってたんです」

「あの例の姪っ子、プレゼントの相手のこと?」

「そうです。前ここで働いていたんです。いとこの方が先にここに勤めてて、僕もそれで来るようになったんです」


 つぶやくように、僕、引きこもりだったので、と言う。宇野の言う通り、長谷川と同じで珍しくもない話、と陽介の細長い姿を見上げたら、その顔やめてくださいよと顔をしかめられた。開いて中身を確認していた真弓子が小さく声を上げた。


「ねえ、君が作ってくれるより前からの顧客名簿もここにあるじゃない。これ古いやつ?まあ、これ使えるんじゃない?」


 真弓子が元気づいて、何年前の日付なのか確認すると、三年前になっていた。


「その顧客名簿。使えないです」唐突に、陽介は言った。

 真弓子が陽介の顔を見ると、彼の細長い顔にかぶさる前髪にすけて、いつも透き通った純粋な光を宿す目が今は歪んでいた。


「うちの顧客、ほとんど持っていかれたんですよ」

「チーフの言ってた、スーパー営業マンのことね」

「残ったのは結局、カスだけなんだ。あんなひどいこと、どうしてできるんですかね?良心が痛まないんでしょうか?人には、やっていい事と悪いこと、あるって思いませんか?」


 真弓子はそっと陽介の背に手を置こうとして、やめた。彼は、まるでガラス容器に入った純粋培養のテラリウムで、人の悪意や身勝手に傷付けられると、どうしても、許すことができなくてガラスの中で身悶える。このガラスから、出るすべのない、自分も苦しいのだろうと、真弓子は思った。


「つらいなら、思い出さなくてもいいよ。過去と比べたって仕方がないわ。今は今で、やっていくしかないんだから」


 努めて明るい声を出す。そして、少しだけ声をひそめて、お願いがあるのとつぶやいた。


「ここ、LANで全部つながってるよね。ついでに経理のPCも見てほしいの」

「なんでですか?」

「給与体系、財務状況、きちんと調べたいの。だってあの年金じいさん、手書きで渡してきた癖に、たまにパソコン開いてるのよ?ちゃんとデータがあるんじゃないかって思うのよ」


 陽介はその言葉に、ふと訪れた過去の記憶の苦痛を忘れ、熱心にうなずいた。



 ランチで外に出た長谷川チーフと佐藤とニーナは、近くにあるファミレスに入っていた。ニーナはしゃべりっぱなし、ひどく腹を立ててずっと真弓子をののしっている。


「何あれ。おとこにばっかり色目使って。先生もあきらめちゃってるし、チーフ何とか言って下さいよ。ねえ佐藤さんもそう思うでしょ、あいつなんとかして追い出しましょうよ」


 佐藤かずみは、下を向いて暗い表情のまま、ランチプレートにも手を付けず、ニーナの憤懣に答えなかった。

 あのプレゼントのことでもめた翌日の夕方に、残業で書類の入力を終わらせて机の整理をしていると、別机でやはり残業していた真弓子から、佐藤さん、と呼ばれた。


「昨日のこと、謝るわ。ごめんね、皆の前で」


 気にしてませんからいいです、と、切り口上で冷たく、関わりたくないと知らせる。真弓子は椅子を回して、こっちに体を向けた。


「あなた、仕事ぶりが本当にきちっとしてるから、尊敬してる。何をしても完璧。数字も細部まで目が届いてるから、安心して資料も使えるよ」


 佐藤は何と言っていいのかわからなかったし、ありがとうと喜ぶ気にもなれず、ただ、とまどっただけだった。


「別に仲良くしてくれなくてもいいし、する気もないでしょうから、わたしがあなたを認めてるってことは、ちゃんと知っておいてほしかったの。それに、できればこの事務所を助けたい。手伝ってもらえる?」


 佐藤は短く、不機嫌に答えた。


「言われたことはしますから、気にしなくて大丈夫です」


 真弓子はこちらも、そう、よろしくねと言っただけで、すぐにまたディスプレイの方を向いて、入力を続けた。佐藤が踵を返すと、後ろからもう一言、声がかかった。

「それとね、内田さんにも、もっと仕事を割り振って。彼女、わたしの言うことはきかないでしょうから、あなたが言って」

 真弓子の黒目がちな目にひいたアイラインを、佐藤はじっと見た。


──佐藤さん、これどうなってんですか?

──ああ、これ、いいよ、私がやるから。

──すいませーん。


 いいんですか?も、そんな事言わないで教えて下さいよも、こちらが期待していた言葉は何もなく、あっさりと引き下がって宇野を相手にお喋りを始める。入力に疲れてはぁ、と溜め息をついたら、お疲れ様ですって後ろから肩を揉んできて、思わず笑顔になった。いいように使われちゃうんだよね、わたし。いっつも。

 長谷川チーフは、自分の役割をここまで、と決めているし残業はしない。今日の残りの作業も、真弓子がやっていた。真弓子は結局、システムのマニュアルを読み、税理士事務所の仕事について検索すると、作業もさっさと覚えて入力もやるようになって、佐藤はやっと一息つけたのだ。

 目の前のニーナの嵐のような悪口を聞きながら、佐藤は真弓子の言葉を思い出していた。


「教えるのが面倒だなぁと思っても、そこはあえて、彼女にやらせなさい。負担なら、それはチーフに聞けとか何とか言って断って。もう、抱え込んだらダメだよ。あなた、このままじゃパンクしちゃうよ」




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