第十一話 カウントダウン
キリエの家は小田原にあって、静かで閑静な住宅街そのものだった。その住宅街の中の一つ、小さな白い家と広い庭の中、キリエは膝を抱えて、小さくうずくまっていた。手には携帯が握られていて、コールの音が鳴り響いている。闇夜に月がおぼろげに、雲がかすかにかかって光は遮られ、彼女のもとまで届かない。彼女は灯りから閉ざされている。あるのは、手に握られた携帯から漏れるディスプレイの光だけだ。指が動いてコールを消し、自動的にまた何度繰り返したかわからない動きで再度発信ボタンに触れた。頭は膝に埋まったままだった。はだしに土が点々と泥の痕をつけている。
まどろみの中の夢は物狂おしい。
あたしの目の前で、いちゃいちゃやらないで。何、その笑顔、私が嫌がってるの、わかってやっているのよね?
あなたの昔なじみの女。またそんな事言って、とか何とか言いながら、しなをつくり、そんなことはないよなんて、甘ったるい返事が飛び交う。このあたしの胸を焼く救いがたい苦しみをよそに、腕を組んでしなだれかかる。ここでこっちが見ていなけりゃ、今すぐ腰を引き寄せて、ホテルへ直行してそうね。何と言っていいかわからない、茫然としてるから、こうして黙っているだけなのよ。目の前に浮かぶのは、リアルにからんだ、からだとからだ。二の腕のやわらかいところに、あなたの指が這う。嬌声、愛撫、激しいキス。全部知っているから余計に鮮やかに想像が浮かぶ。したくもないのに。
キリエの、まなじりがあがる。この火照る腹から喉まで突き上げるのはどす黒い焔で、耳の後ろを灼く。ひとみに、夜叉が宿る。顔が歪む。
あたしがあたしでなくなっていく。自分の変化が恐ろしい。
こんなのあたしじゃない。あの人があんなに大事にしてくれていた、あたしじゃない。こんなの見られたら嫌われる。いっそう心が離れていくだろう。かといって背中を向けることも出来ず、ただ目の前の服を着ているだけましだという、夫と女との痴態を見つめ続けているだけだ。
この五月の日曜日、晴れやかな天気の中でキリエは、目の前で女と親しげに話してこっちを振り向きもしない夫に、苦い思いで家の中へ逃げるように戻った。それでも、夫は戻って来なかった。追いかけても来なかった。
こんなに落ち着かずにいるのに、ただ過ぎていく時間が、夫が彼女と楽しく話し、歩いて肩を抱いて笑いあい、密着を増していくさまに埋められて行くのが手に取るように読み取れる。夫を焦らせてやるつもりで一人で先に帰ったのに、待てよ、どうしたと、ひとこと声をかけて欲しかった。まさか気付きもしないなんて。想像が四方から迫ってぎゅっとキリエを押しつぶした。
それなのに、この夜になって、夫はちょっと出かけてくるよの一言もなく、家から抜け出して、消えた。
どうしてよりによって、こんな近くに住まなければならないのか、あたしにはさっぱりわからない。どうして今もまだ同じ職場にいるのか。異動願いはちゃんと出して受理されたみたいだよって、そんなのは全部、うそ。
──彼女が入院したんだって?嫌だ。行きたくない。
──そう言うなよ。仕方ないだろ。
──あの人と会うでしょ。会わないってできないんだよね。仕事と絡んでるから。お隣さんだから。話さないってのも無理なんだよね。彼女にいなくなってもらうのも無理なんでしょ。
泣きながらこんな事話してる自分が醜くて嫌い。いちいち否定しない、彼の肯定を示した沈黙がむかつく。どうしようもない事実を一つずつ連ね槍玉にあげて、自ら墓穴を掘っている。彼の腕にすがって泣きながら、そんなのあたしが一番したくないことなのにと思う。こうして一番彼の心に届く効果的な言葉を必死で探すのに。頭が涙で麻痺してうまく回らない。浮気でも何でもしていいから気付かせないで、そしてあたしをほっとかないで。無視しないで、何か答えて、って泣いた。
──浮気でも何でもしていいから。
一瞬、夫の表情に歓喜が宿ったようで、喉がつまってまた言葉が出ない。被害妄想なんだかどうなんだかもう何でもいい。違う!嫌なんだよ絶対。嘘だから、頼むからしないで、ここにいて、って撤回したい。
この悲しい女ごころ、わかってくれないの?あんなにあたしの気持ちを手に取るように理解してくれたあなたはどこにいるの。今はあなた、あっちにしか視線が向いてないのね。だから無視しないでって言ったのよ。二人とも・なんで・あたしがいるのに、いない・気づかない・ような振り、してられるの?
涙にむせぶ嵐は、膝を抱えたキリエの顔からは窺い知れない。顔色はひどく冷たく、冴えている。雲が濃くなるに従って、住宅街はいっそう深い青に沈み込んで行く。春の気配が生暖かく庭の土の上を張って、キリエの腕にまとわりついた。江の島、鎌倉の小町通り、箱根の温泉……美しく明るく輝いていた思い出の写真がすべて、キリエの姿から別の女の顔に入れ替わって塗り替えられ、やがて真っ黒に塗り潰されていく。
この苦しみ、うらみに本当に気づいたら。そしたら二人は結局、隠れてやるんだろう。どんどんあたしの知らない所で、二人の時間や思い出を育てていく。わたし無視で。疑心暗鬼になって余計耐えられない。先が見えなくて状況は悪化の一途だ。彼女が天変地異で目の前から消えない限り続くのかな。実力で排除すれば二度と振り向いてもらえないだろう。
あの時まで、あんなに二人で幸せだったじゃない。甘んじていた平和のあまりの心地よさに、手放すことができないのだ、どうしても。夢なんじゃないかと思ってしまう。むしろ、平和な生活こそが夢だったのかもしれなかった。
今のキリエに、夢とうつつの区別はつかない。
手に握られた携帯から、コールはとうに消えている。静けさに包まれて、彼女は溶けて闇と大地の一体となってしまっているかのようだった。




