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汀より  作者: 天海 悠
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第十話 ニーナから詩子へ


 黒沼は、一人だけ重厚なオフィスチェアをぐるりと回して呼んだ。


「ニーナ、これやっといてえな」


 はぁい、と明るい返事が来て、長い黒髪の女の子がこっちを向いた。どうして最初、はっと目を引かれたのか。黒々とした眉と目に、真弓子は一瞬、詩子ちゃん?と思ったのだ。昨日はそこまで思い及ばず、美人だとしか思わなかったが、よく見ると長い黒髪や、太めの眉、白い肉感的な肌など、そこかしこに共通点があった。名前は内田仁奈(にいな)

 メールでキリエにささやいた。

『もどき、とこっそりあだなつけてるの』

 しかし知るにつれて外見も中身も、まるで詩子とは違っていてむしろ正反対だった。詩子はもの静か、内側から輝く明るさが優しさを引き立てている。ひとみは夢見心地で、たまに人には伺いしれないエキセントリックな輝きを灯す。ニーナの明るさは、人の悪さを際立てているだけで、優しさはなかった。影で平気で悪口を叩く。手足は詩子より太めなのが、かえって肉感的だった。


 真弓子は陽介が作った事務所のホームページをのぞいていた。


「へーけっこうよく出来てるじゃない。こういう方面に才能あるのね」


 少し早め、二月に出向してから一か月半、事務所は真弓子を完全に無視するメンバーと、真弓子の存在に慣れてきたメンバーにはっきりと分かれた。無視しているのは、黒沼の情報によれば、主夫の長谷川チーフ、暗い顔をした、美人だがバツイチの佐藤、詩子もどきの淫乱ニーナの三名で、慣れてきたのは病弱な外回り宇野と眼鏡のひきこもりパソコン青年の陽介だった。宇野は外回りの上、二時には帰ってしまうから、ほとんど事務所にはいない。経理のじいさんは、いつも一番影に隠れているのかいないのかわからなかった。

 真弓子も黒沼について歩いているので、内勤の彼らとは、ほとんど顔を会わせることもなかったが、社に帰ってからは、観察を兼ねてもっぱら陽介を相手にしていた。キーボードをたたきながら言う。


「でもこのホームページ、検索しても出てこないわ」

「実は、まだ開設してないんです」

「ここまで作り込んでおいて?」あれこれ言いたい所を飲みこんで、天を仰ぐ。


 この事務所では、定期モニタリングを宇野が手伝い、市場調査や分析、財務状況のソフトへの入力が主夫の長谷川で、黒沼が意見という流れらしい。確定申告業務、決算処理、伝票などで手が回らない部分を佐藤かずみと陽介がやっていた。ニーナは雑用で、何をしているのかほとんどわからない。


「ここにフォーム作ったんですが、問い合わせが来るのが怖くてまだアップロードしてないんです」

「センセイがだめだっていうの?」


 陽介はもじもじしている。「まさか、聞いてすらいないの?」

 真弓子は隣に立っている衝立をノックするように叩いて、黒沼に合図した。聞こえているはずだ。


「ホームページ開設するよ。新規問合せがくるかもしれないけど、対応してね」

「好きにしいや」

「あれ絶対、意味わかってないですよ」


 陽介が声を潜めて言う。あとは、成功事例を乗せたいわね、と真弓子はかまわず、さらにマウスのホイールを探った。過去のデータとかないの?と話していると「ねー陽介、これコピーしといて」

 ニーナから声がかかった。

 彼女が自分に割り振られた仕事を、理由をつけてほとんど佐藤と陽介に巧妙に押し付けていることに、真弓子は気付いていた。黒沼も長谷川も、知っていて放任しているようだった。


「自分でやって。こっち手が離せないから。コピー機の使い方はわかるよね?」


 陽介はいつも雑用に追われ、誰からもパソコンのことで尋ねられてる。LANの設定、サーバーの不調、会計ソフト、ワード、エクセル、パワーポイント、果ては個人的なスマホのクラウドのことまで多岐にわたる。真弓子の横やりは落ち着いていて、決してきつい声ではなかったが、ニーナははっとして真弓子をにらんだ。見返した笑っていない彼女の大きな目に、ニーナはぶんむくれで、わかりました、と冷たい声でひとこと言い、バン!とコピー機の蓋を開ける。


「それ壊れたら、修繕費弁償してもらうよ」言いながら後ろも見ない。ニーナはクソババア、と真弓子に聞こえるように毒づいた。ネット見て遊んじゃってるクセに何さ。

「チーフ、宇野くん、ちょっと来てくれる」


 真弓子は眉ひとつ動かさない。こんなの蚊が止まったほどにも思わないのは、塾の生意気な女子高生や、本社でのチーフ業務で慣れているからだ。



 長谷川と、帰り支度をしていた宇野がやってくると、真弓子は書類を広げた。


「今、うちで顧客名簿が生きてるのはたったの五十で、十五社はほぼ放置、手が回らないから。もともとの収入が、コンサルタントの成功報酬中心でやってたから、普通の税理士事務所のような、確定申告や決算処理のような、事務系には弱いのね。処理が追い付かない。人員にも限界があるから、多くを請け負えない。システムの電気代と燃料費、接待経費も重たいわ」


 本社コンサルタントの高橋が手伝ってまとめてくれた資料をもとに、御船のアドバイスをそのまま言いながら、チクリと胸が痛んで、これが本当に自分の言葉ならと思う。


「駄目元で放置先を宇野さんに行ってもらおうと思ってるけど、本人じゃないし門前払いされるかもしれない。電話かけたところじゃ、既に見切られてる感じのが四社。いまさら何の御用ですかって言われたところもあったし。新規開拓もしたいし、長谷川さんも外回り手伝ってくれない?」


 長谷川の顔が曇り、口が重くなる。


「それはちょっと。それこそ、事務系がまわらなくなると思うよ。おれが六十%は引き受けてるから」

「いいよ、おれが回るよ」宇野がのんびりと言う。「そのかわり、伊野木さんも一緒だよ。ひとりはキツいし、女の人いると邪険に出来なくない?」

「いいわ」真弓子はうなずく。自分も一緒に動きたかった。



「長谷川さん、外回りできないんだよ」外に出ると、宇野は自車のシルフィに乗り込みながら、真弓子に言った。「トラウマがあるんだって」

「何があったの?」

「知らなーい。目標達成できなくて上司に怒られたとか何とか、んなとこじゃないの?神経がまいっちゃう理由なんてのは、色々あるだろうけど」たばこいい?と聞いてから、キャスターマイルドを咥えた。「仕方ないよ。珍しくもない話だし」

「顧問もらってる虎の子のうち、四社はもう契約切られるわよ。二社は倒産ね。年内かな。来年はもうないね」


 宇野は、ショックを受けたようだった。


「もうちょっともつかな~って、思ってた」

「事務所がなくなったら、長谷川さんもないのよ」


 二人は黙って、川崎の事務所の狭い駐車場で、車の中にいた。


「でも、外回りのことは、これ以上言わないことにする。新規開拓のこと、考えてみてもらえる?」真弓子は、体を運転席の方に向けて、宇野の横顔を見つめた。

「まかせてもいい?」


 宇野は、背中をシートにもたせかけて、できるかなぁ、とつぶやく。


「体に無理がない程度でいいから」


 宇野はシートにもたれたまま、助手席をちらっと見た。大きくて目尻の上がった真弓子の茶色のひとみは中の黒目も大きくて、すぐに感情を現してしまう。興奮するとすぐ赤くなる、すっきりとした頬が、今は心なしか青ざめていた。手足は細くて、指輪のない指はほっそりと長かった。宇野は前を向いて、今度はハンドルに体をもたせかけると、わざとのように声を出して窓の外を見た。


「頑張っちゃおうかなあ。ガミガミじゃなくて、ニッコリ応援してくれたらいいな」

「いいわよ。減るもんじゃないし」真弓子は車を降りた。あれ、付き合ってくれないのとの宇野に微笑して言った。

「いきなり今日はやめときましょ。宇野さん、帰る所だったんでしょ」


 ニーナの視線が気になった。宇野のことが好きなのかしら。御船もどきを好きな詩子もどき。でも、詩子ちゃんと一緒にするのは失礼だわと思う。だって彼女はぜんぜん違う。天と地ほどに違う。ニーナに覚える反感の泡から、真弓子の持っている詩子のイメージが鮮やかに浮かび上がってきた。



 勉強会の中休みで休憩室へ行ったら、詩子がひとり、机にぽつんと座っていた。長いまつげが頬に落ちて、まぶたは閉じられているようだった。微かに疲れを宿す目の下に(かげ)がある。うっかり触れられない清廉さが漂ってきて、手を伸ばすのもためらわれる。若いアナリストの男たちも何となく遠巻きでいるし、御船が席をはずせばいつも彼女はひとりだった。秋社長はなぜか彼女に対して、わざわざ来なくていいのにぐらいの態度を取っている。詩子の方から気が付いて、あ、伊野木さん、と笑顔を見せる。隣、いい?と真弓子は座った。下を向いていたのは、膝に文庫本を抱えていたからだとはじめて気付く。


「邪魔しちゃった?悪いわね」

「いいえ、うれしいです」

「詩子ちゃんて、本が好きなのね」


 大好き、と微笑む笑顔が、学生のようにうぶで可愛かった。


「今読んでいるのは、フォークナーなんです。訳もすごく素敵」


 ねえ伊野木さん、聞いてくださいここを。桜色に塗った指先が、頁の中の羅列をたどった。


──"ハンサムで優雅で猫みたいで、若くてその癖妙に世馴れていて、やるだけのことはやったと、知った快楽の限りはいちいち覚えていないとでもいうような、羨望ではなく絶望を呼び起こすタイプ"※


「これね、似ていませんか」


 誰?とたずねると、詩子のくちびるが、言葉に出さずにかたどった。せ・ん・せ・い。重大な秘密を打ち明けたように、僅かに下を向いてはにかんだ。


「詩子ちゃんにあいつは、そんな風に見えるのね」


 真弓子に微笑んで言われて、え、見えませんか?不思議そうに聞いてくる。


「よくわからないけど、そこまでではないかな」

「じゃあ、伊野木さんに先生はどんな風に見えるんですか?知りたいです」


 可愛げがないかなと答えたら、ありますよとむきになって言うから、真弓子はおかしくなって声に出して笑った。


「疲れてると、上を向いて椅子で寝ちゃうんですけど、いつの間にか口があいてたりするの。寝ぼけまなこで慌てて歯磨きしてる時とか、とっても可愛いです」


 私の男は素敵でしょうとでも言いたいのかしらねって、キリエなら言うところだっただろう。真弓子は恋する乙女は純粋にかわいいと思う。私もこんな時代があっただろうか。


「わたし、知りたいです。先生はどう見えますかって世界中の人に聞きたいです」


 横を向いた真弓子の表情がふと曇る。窓に映る夕暮れの中に、見え始めた光がひとつ、二つ。

『七時半には上がれる』

 目の奥に残る黒々とした文字に、横浜のきらめくネオンが重なる。あのとき、必死で心に蓋をして耐えたものを、そのままにしておいて良かったんだ。あいつの言うとおり、崖から崖に移動をしていると、足元に気をつけないと脚をすくわれる。一度いったら、あっという間にさらわれ、深い闇へまっさかさまだ。


 わたしの目にあいつがどう映っているか、って?

 あのコートのポケットに手をつっこんで横浜西口に立っていた姿がまざまざと浮かぶ。それは皮肉なくちびるをひねる笑い方、ひどく冷たいように見える瞳が、時に表情を浮かべ、何かを語ろうとするしぐさ、一歩、二歩下がって背中を向けた時の、おい、と言いかけた声、だった。



引用


※「アブサロム・アブサロム!」ウィリアム・フォークナー、高橋 正雄 訳(476ページ)


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