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汀より  作者: 天海 悠
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第一話 横浜の夜




 七時半にはスターバックスにいた。

 真弓子まゆこは、時間をいつまでも正確に覚えていて、後になってもきっちり思い出せるようなタイプではない。なぜその時間を覚えているかと言えば、横浜駅西口でビル上階のスタバを下から見上げたその時に、御船みふねが携帯メールをよこしたからだ。


『七時半には上がれる』


 その日の真弓子は汐留にある会社を定時にあがって、玄関ロビーで部長と別れた。新橋では普段探したこともないトイレを、散々探して泣き出したくなった。一旦会社に戻ろうかとさえ思いつめた。コートのファーの衿を立てても、一月の空気は肌に直接突き刺さる。ダウンにすれば良かった、と後悔しながら下腹の痛みに顔を歪める。


 御船に会う前には時々こうなる。緊張がゆるんできたらもうだめなのだ。一度、彼の姿を見てしまえば、ピリッと緊張感が背骨に戻り、真弓子は真正面を向くことができるのに。


 横浜まで道のりは長いし、作夜届いていたのに読む暇がなかった、ここ数年会っていない学生時代からの親友のメールをじっくり読みたかった。真弓子はラインはやらない。メールは手間取るが、長くてもじっくりと向き合える。手を触れると携帯の画面に日付が浮かんだ。二〇一〇年一月十五日の金曜日。


『あのDVDは、もう少し貸していて。来週末くらいに宅急便で送ります。真弓子は、紅茶が好きだったわよね?』


 あけましておめでとう、最近どうしてる?から始まったメールは、久しぶりの女同士なら長くなる。待ち時間もつきないやり取りになるだろうと、受信通知にキリエの名前を見たときからわかっていた。


『三十過ぎて不眠症気味よ。旦那は言い訳しかないの。女とは、たまに会ってセックスするだけ、恋愛感情ないんだって。妻は恋愛関係ではなく、他人でもない。家族や家庭ってむなしいわ。現状維持でいたい、仕事のためにも必要で、二人の生活基盤維持の為なんて言われたら、仕事してる私も辞めればなんて言われたくない。ごめんね真弓子、誰かに聞いてほしかった』


 やっとトイレから出て、東海道線下りに乗った。窓の外に光が流れ、伸びてはまた消えていく。電車の中で「今、横浜行きの電車の中」と題して長い返信をする。


『独身フリーのわたしに何が言えるかわからないけど、あんまりつらそうで私もつらい。あなたは我慢強いから、ずっと無理をしていない?』


 皮肉屋で物静か、いつでも的確、穏やかに的をズバッとついてくる彼女の、忍び泣きが聞こえてくるような連綿れんめんとしたメールの調子に、真弓子は多少とまどった。


『いつも格好良くてキリッとしたキリエが、ひがむ必要なんてない。つらくても、悩みや苦しみがなくて安らかなのは死んだ人だけ。わたしはキリエに生きていてほしい』


 横浜駅で立ち上がり、西口の表示を探す。ニ、三度通過したかしないか、降りる機会がなかったヨコハマ、濃い青褐色の夜空に、ブルー、オレンジ、レッドライトが入り乱れ、人波にもまれながらヒールを前に出す。


 西口を抜けて眼についたスタバに入り、真弓子はドリップコーヒーを頼んだ。真弓子は数年前に今の職場に転職するまで、塾の講師をしていたが、その頃付き合っていた前の男は、とにかくラテが大好きだった。もう二年を過ぎるのかと感慨深い。見馴れていたはずの教室、並ぶ学生たちの顔がおぼろげに浮かんでは消え、数名だけを除いてあとは、どうしても思い出せない。

 その、もうすぐ過ぎようとしている二年前の話だ、真弓子が御船次郎に会ったのは。

 空いている席がなく無理に窓際の狭いカウンターに座った。二階から下に西口が見渡せる。冬服はかさばるから、隣の人と袖が触れ合う。真弓子は細い肩をなお小さくして、携帯に身を屈めた。


 横浜の誇る夜景は西口のここからは限定的にしか見えない。スターバックスの窓から見えるのは、十分に華やかな高島屋とジョイナスの輝きで、さらに向こう側には、夜は比較的若者が集う、光が夜通し瞬く歓楽街があり、地下には巨大な地下街があって常に人があふれている。真弓子はその全てを知らなかったから、階下に人波が流れては消え、横浜駅に吸い込まれてはまた吐き出されていく様子を無心に見ていた。新年の横浜の夜は、どこか別世界の気配がする。真弓子は忘れようとしていた記憶があふれてくるのを押し返し、退け、努力してもう一度なんとか蓋をした。そろそろあいつが来るかもしれない、と思った瞬間にもう着信が入っていた。キリエとやりとりを続けていた所だったから、思わず画面を押していた。慌てて耳に当てると、男の声が流れ込んだ。


「何だ?今日は出るのが妙に早いな」

「メール打ってたら電話入ったから、そのまま押してつながっちゃったのよ」

「プルッとも言わなかったぞ」

「こっちも音、鳴らなかったわ」

「モアーズだな?モアーズにいるんだろ?」

「?……多分。駅から出てちょっと歩いてみたんだけど、絶対迷うと思って引き返したわ。動かない方がいいと思ったの」

「スタバだな?」

「うん」

「十分待て。十分たったら下に降りろよ」


 いつもなら反発する切り口上が、今日は意識が他に向いているからなのか、何よ、と思うこともない。話をはじめると落ちついた低音に緊張が溶けていく。

 それからも真弓子は五分ほどスタバに座って、女友達へのメールの続きを打ちつづけた。ローヒールの靴先が揺れて、椅子の足にぶつかりコツンと音を立てた。


 彼女の家庭の悩みは、それこそまだ真弓子が塾講師をしていた、二年前から聞いていた。しばらく連絡の無かった彼女から正月にひょっこりメールが入ったのだ。当時は真弓子も彼女に助けを求めていたから、手を取り合うように慰めあって、会うこと数回、真弓子の再就職が決まったからバタバタする、身辺が落ち着いたらまた必ずねと約束してもう一年半が過ぎる。彼女の問題は未解決、そしてわたしは……。


 それでも真弓子は、話を聞いた当初から、離婚したら?なんてアドバイスだけはするまいと心に決めていた。彼女は自立して、仕事ぶりもきちんとした女だった。キリエは夜に誰かと過ごしながら、新しい男を自分の運命と思うことはできない。その不器用さが、曖昧あいまいな男を呼び寄せたのだとしても、辛さも虚しさも、キリエは自分できっちり、最後まで責任を取るだろう。


 わたしはただ聞いてあげることしかできない。


 本当は今、話を聞いてもらいたいのは真弓子の方だった。こうして女の会話はいつも螺旋らせんのように絡み合って果てがない。指を鼻から頬を隠すように当ててから、この指先かじかむ冬の日にふとまた、いきなり真弓子の記憶の蓋を押し上げて現れた男は、にやりとまぶたの裏で微笑んだ。最初のあれは世間では春休みの頃、奇妙に暑い三月で、ゆるめて肩に引っかけたネクタイが揺れ、汗ばんだシャツの下に動く御船の長身が真弓子の目の前でちらついた。


 思ったより早く催促さいそくの返信が入ってきたので、真弓子は携帯をコートのポケットに放り込んで立ち上がった。

 真弓子は横浜のモアーズを知らなかったので、「more's」という文字がついているビルの二階にわかりやすいスターバックスの文字が見え、階段で上がったまでだ。なので、御船へのメールも「モアのビル上二階に見えるスタバ」などという訳の分からないものだった。

 歩きながら、ファーコートのポケットからヒールの先へ、さっきのメールの言葉が、あふれ出してはほろほろ床にこぼれていった。


『今はやりつくしたし、前ほど彼女に興味もないし、会うこともそれほどないから安心しろって。去るもの追わず、来るもの拒まず。男ってどうしてこんなに勝手なの?』敷石の色が変わるにつれて、キリエのメールの調子も変わった。『わたしの愚痴はここまでよ。今度は真弓子の方。近況聞かせて。どうなってるの?転職後の仕事はどう?もうお互いに三十二歳よ!時の流れが加速していて、怖いくらい』

『私こそ聞いてほしい。今度こそ絶対、一緒に会おう。飲んで語り明かそうね』

『横浜西口にいるんでしょ、うちの会社の近くよ。残業でまだロッカーにいるわ。今、電話できる?』

『ごめん、人と待ち合わせ中』

『何、彼と?前に一緒に会ったことのある、あの彼?次郎君?』

『違う。いや相手はそうなんだけど、“彼”ではないよ。内容は仕事、色気なし。わたしは仕事一筋ですからね』


 そろそろ時間だった。階下に降り、目深まぶかに帽子をかぶったマドロス少年の像のかたわらで、周囲を見回したりメールを読み返したりしながら人待ち顔で御船を探す。ちょうど携帯に集中した時、彼は真弓子のそばにいた。

 真弓子は御船をまじまじと眺めた。お互いに仕事帰りだから、スーツ姿だろうと予想していたが、コートでは判別がつかない。普段通りの御船のようだった。いつもと少し違う真弓子の沈黙と、更にまた携帯をのぞくので、御船がもの問いたげに視線を送る。

「友達から長いメールが来たの」

 覚えてるかしらキリエ、と言うと御船はうなずいた。彼は彼女を知っているはずだ。新宿で一度、真弓子と一緒に会ったことがある。


「あのキリエ女史か、どうした」

「女は色々、悩みがつきないの」


 つとめて普通を装ったのに、トーンが落ちる。うつむいた真弓子は、今日はローヒールだから目線が彼の肩に来る。


「言ってやれよ。頑張ろうと頑張るまいと、なるようにしかならない、ってな」


 突き放した口調でいるし本人もその意図なのに、例え口もとに癖の皮肉な笑みを浮かべていても、穏やかなバスボイスで静かに声をひそめて言われると、慰められるような心地にすらなる。

 反対側に見える華やかなエリアに行くのがさも当然のように歩き始めようとすると、御船は真弓子の二の腕をコートの上からつかみ、引っ張ってモアーズのエレベーター前に立たせた。文句を言う。


「スタバ?どこだ?って、モアーズなのかって何度も聞いてるのに、一人で話し続けてる、しょうがねえ」

「仕方がないでしょ、わたし横浜はアウェーなのよ」モアーズってね、モアーズ。口の中で何度か繰り返した。

「スタバなんてどこにでもあらぁ、どこだそれ?て思ってから、モアって書いてるから多分モアーズなんだろうなと思って、……があったと思って」


 ……の箇所が良く聞き取れないまま、最上階の食堂街へと向かう。混んでいるから、真弓子のすぐそばにこちらを向いたままの御船の体があった。見上げると彼は聞いてきた。


「本当は中華街でもと思ったが、こっちでもいいかって。どうして西口の方に出た?」


 友達の会社が西口の方向だって聞いたことがあったからと言うと、ふうんとそっぽを向かれた。エレベーターの扉が開く。


「アジア料理の店だよ、いいか」


 店に入ると、御船はチェスターコートを脱いだ。グレーのスーツが、あつらえ品らしく、体にぴったり合っている。席に案内され、眉根を寄せて真弓子が声を出したから、どうしたと聞かれて慌てて否定した。お先に来てました、そんな詩子うたこの声を想像していた。いつものように彼女も一緒なんだと、勝手に思い込んでいた。


 御船は武蔵小杉で小さな個人事務所を営んでいる。事務員は一人だけで、そのアシスタント、白砂しらさご詩子うたこは、黒くて長い髪の艶がさらりと落ちると、頬の白さが際立って、小さなくちびるが少しだけ尖る。化粧っけがないのに口もとはそこだけ赤い。黒目は大きな長いまつげにふち取られ、いつもどこか夢見ているかのような視点の彼女に、目をやった方もどこか夢見心地に誘われていく。歌うように柔らかく言う声が聞こえてきそうだった。


 先生は、最近アジア料理にハマってるんです。特にココナッツが好きみたい。でもシャープな味も好むでしょ、バランスを取っているんですね?って聞くと「やっぱりココナッツの方がいい」って答えるの。

 コートを店員が机下の籠へ置き、二人で座ってメニューを眺めた。トムヤムクン、ナシゴレン、ガパオを頼み、とりあえず生ビールふたつ。最初に飲み物が来ておつかれの乾杯をする。土鍋がやってきて、ろうそくの炎で煮立つのを待ちながら、御船が口を切った。


「部長が、お前の力になれってよ」


 玄関ロビーで別れた部長は、今日中に答えが欲しいと言った。真弓子はまだ何をどう考えていいのか、わからなかった。黙っている真弓子に御船は言う。


「転職二年で出向命令、あの会社じゃ珍しくもないことだ」


 まぁ食ってる時ぐらい、仕事の話はやめようやと御船は言った。彼が汐留にある真弓子の会社を独立して、神奈川に個人事務所を構えて三年になるという。真弓子の転職前の話だ。今期、収入が前期より二割落ちているらしい。でもそんなの、よそも落ちてるでしょ?と聞くと、それでも一.五割くらいじゃねえか。今は厳しいよ。マジで、と答えた。

 トムヤムクンが辛かった。ナシゴレンもガパオも辛い。彼はビールをとっくに飲みほして、真弓子の方の飲み物にまで手を出した。


「さてと、部長の話、聞かせろよ」

「今日は色々あったから、まだ考えがまとまってないの」




2016.11.09

突然何を思ったか書き始めた人生初書きのオリジナル小説

冗長、稚拙、調査不足、慣れていない、などなど。あえて手を入れたりもせずそのまま。

読んで頂ければ幸いです。

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