3
スルール王国とカルナット帝国の国境にはまるでそれに沿わせて作られたような森がある。その森は時空のひずみが至る所に点在し『魔界樹の森』と呼ばれていた。
スルール王国辺境に所領を任せれたシャルルット伯爵家領内にも当然のようにその森は存在する。本来なら遮蔽物のある国境は奇襲を仕掛けられやすいため衛兵を常駐させるべきなのだが、魔界樹の森には人影すらひとつもない。
カルナット帝国と同盟を結んでいるわけでも、ましてや侮っているわけでもない。
魔界樹の森に警備を割く必要がないのだ。
魔界樹の森は他の場所と比べて非常に精霊が存在する密度が高く、魔界樹の森と同時に精霊の住処としても名高い。しかし、そのように外界と隔てる何かがある場所は総じて無事に森を抜けることが出来ない。
商人や冒険者ですらその森をわざわざ迂回して通るのだ。
悪意を持って森に侵入するなら、一個師団まるごと神隠しにあっても不思議ではないと言われていた。
そのように誰も近寄らない森にリシールは捨て置かれたのだ。普通の五歳児ならパニックなっていても可笑しくなかった。
リシールは普通の五歳児ではなかった。しかし方向音痴であった。森を抜けるために歩いていたはずなのにどんどん森の奥地へと進んでいくほどに彼女の方向感覚は壊滅的だった。
だからだろうか。伝説級の、それこそ神話レベルと言われそうな強大な魔力を持つ魔獣と出会うことができたのは――。
青がかった銀の体毛に、夜空を切り取ったような黒い双眸。静かであるのに、まるで生き物すべてを威圧するような雰囲気。
『小娘。我の眠りを妨げたのは貴様か?』
脳に直接響く声にリシールは答えられなかった。
ただふらふらと自分よりはるかに大きな銀狼に近づいたのだ。
そして――。
ガバッ
その狼の鼻面に勢いよく飛びついたのは、された本人さえ予想だにしなかった。
『なっ!?』
驚きで思わず身体を反射的に引く狼に構わず、リシールは鼻面に抱き着きながらその銀毛を堪能していた。
「えへへ、モフモフ~」
狼の長毛に顔を埋めるリシールは心細い思いをしている五歳児とは到底思えない。
と、いうより聖魔獣と謳われいまだに色褪せぬ伝説の魔獣に対する反応ではない。
『こっ、小娘!放さぬか!』
「断る!」
この至福の感触を手放してなるものかと言ったようにより一層力強くくっつくリシール。その顔はゆるみきっているが、狼に抱き着く力は幼女の力にしては強すぎる。
やっばい、なにこの毛並み。モフモフでふわふわでさらさらなんて、いったいどんなシャンプー使ってるんだろう。ああ、でも獣ならただの水浴び程度で済ましてるのかな。なんてもったいない。これに椿油を塗り込んだらさらにつやつやになるってこと!?でももしかしたら毛質との相性もあるし取りあえず今はこの至福のひと時をしっかり堪能しなくては。
「……」
彼女の脳内を狼特有の交感能力で感じ取った聖魔獣。何も言えなかった。
『小娘、貴様なぜ此処にいる?』
どう足掻いても放す気がないリシールに狼は彼女を放置することに決めた。
「自分で来たわけじゃないから、でも、私を殺すためだと思うよ」
リシールの言葉に銀狼は鼻面にしがみつく少女を風の精霊魔法で背に乗せてやる。
「さっきよりモフモフ!」
……現金な娘である。
銀狼の豊かな毛に半ば埋もれながらリシールはその感触を心行くまで堪能した。