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もう一度妻をおとすレシピ 第4冊  作者: 奄美剣星
Ⅳ 資料
83/100

資料(読書)/平山三郎 『実歴阿呆列車先生』 ノート20160519

 阿呆列車先生というのは明治生まれの文豪・内田百閒うちだひゃっけんをさしている。岡山県出身で上京すると夏目漱石に師事し芥川龍之介に慕われた兄弟子となる。デビュー作でのペンネームが内田雪隠。随筆では百鬼園と名乗っている。大概の作家は墓場にゆくとき自作とともに煙と消えるというのだが、この人は鉄っちゃん作家として、その筋ではいまもカルト的な人気を誇る。

 平山三郎は内田百閒の愛弟子で、内田文学研究の第一人者だ。JRグループが国鉄と呼ばれていたころ、機関紙『大和』の編集に携わっていた。師匠にどれほど可愛がられていたかといえば、内田が教授を務めていた法政大学の学生になることを勧められ、学費全額をだしてもらったほどだ。

 内田には持病があるらしく一人旅はしがたい。欧米での従者というのは秘書と同じクラスで主人の外出時に随行するのだが、平山はまさしく内田の従者のようなもので、師匠と一緒に日本中を列車で巡った。平山はヒマラヤ山系君というお共役で登場。その模様を描いた内田の作品が『一号阿呆列車』から『三号阿呆列車』という題でまとめられた書籍三巻だ。随筆のような文体だが、内田は随筆のときは百鬼園という筆名をつかうので、内田百閒のペンネームだから私小説になるのだろう。

 内田百閒は1971年に没するわけだが、平山の手になる本書は師が亡くなってから12年を経て出版された回顧録だ。いくつかの面白いエピソドといえば、平山いわく、先生は我儘だ。ただ一本筋の通ったところがある。――といった明治人臭さがある。

 鉄っちゃんらしいエピソドといえば、昭和の初め辺りまで鉄道列車は専ら輸入に頼っていた。百閒は鉄道職員だった平山を前に、カッコイイ機関車をみかけると、ドイツ製の××という車両はスマートで、国産ものだとそうはいかん、というようなマニアックな話をする。職業柄一応知識としてはいるのだがそこまで突っ込んだことをいわれると困惑してしまう。列車に乗るときはステッキをついて機関車から客座車両の隅から隅までを歩いてチェックした。さらに東海道線米原駅のマス鮨弁当を好んだとか枚挙にいとまもない。

 その他、内田は大の鳥好きという一面もあった。内田が(たぶん月給40円のころ)、生活費二円五十銭しか残っていないとき小鳥屋で可愛いミミズクをみかけると迷わずその値で買った。嬉々として部屋に持ち帰ると、他の小鳥たちが怯え、ウグイスなんぞは春になっても鳴かなくなったといい、笑える。

 この人は戦前、東京小石川白山御殿山に家を構え、最大五十羽の小鳥を飼っていたという。しかしその家は1945年5月25日の東京大空襲により焼かれてしまった。大半の鳥もそこで焼け死んだらしい。ただメジロ一羽は小籠に入れられて主と一緒に防空壕に避難したので、その後二年生きた。内田は執筆を放り投げて鳥たちの世話をしたという。

 ――内田の師匠、夏目漱石の掌編『文鳥』を読むと、そっちは飼うとすぐに家人に世話を押し付け、忙しさからつい世話をするのを忘れ死なせてしまうに至り、ヒステリックに罵りまくる筆致だ。その点えらい違いである。

     了

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引用参考文献

平山三郎『実歴阿呆列車先生』旺文社1983年 本文9-296頁、うち表題作9-214頁

ノート20160519



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