読書/馬場あき子 『鬼の研究』 ノート20160816
以前の覚書は、皆様に読んで戴くにはまことに厄介なので、読みやすくなるように手を加え、随筆風に記事を書き改めました。
古来より病は悪魔=鬼がもたらすものとされてきた。コロナ禍のためか、「鬼」をモチーフにした物語をよくみかける。春に、アニメ映画『鬼滅の刃 無限列車編』を観た。SL列車で鬼とゴースト・バスターズ「鬼滅隊」が戦う。全編を通しての主人公は炭次郎だが、ここではリーダー「柱」の一人、煉獄が主人公になっている。
鬼といえば、民俗学者・馬場あき子氏の著書に『鬼の研究』(三一書房1971)というのがある。もともとは、中国で死霊を意味するもので、6世紀後半に、日本固有の祖霊・地霊「オニ」を表す漢字にあてられた。
氏は著書で、「鬼」を、①民俗学上の鬼で祖霊や地霊。②天狗などの山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、③邪鬼、夜叉、羅刹などの仏教系の鬼、④盗賊や凶悪な無用者などの人鬼系の鬼、⑤怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼、といった5種類に分類している(wiki)。
余談。
第1章第1節「鬼と女とは人にみえぬぞよき」の第1項「『虫めづる姫君』の慨嘆――著書の導入部(P13 .l8-P14.l6)だ。
「虫めづる姫君」とは、平安末期の短編小説集『堤中納言物語』に収められた同名短編作品で、彼の姫君は、按察使大納言の娘で、合理主義者にして変わり者として描かれているヒロインだ。
姫君はあるとき、――「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と「案じ給」うた――つまるところ、平安時代の才媛が言いました。「私も女だけど、鬼と女はわけがわからん、非合理的な存在だなあ」と呟いた。逸話に対する著者の見解は次のようになる。
「そこにあるものは美意識の洞察以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿であり。人々から嫌悪されてる毛虫や蛇のうごめきに、あまねきものの真率にしてくるしげないのちのさまをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能性の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を甘受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。世の良俗美醜に随順することを拒んだ美意識、反世間的、反道徳的世界に憎まれつつ育つ美の概念、少なくとも『虫めづる姫君』の意図しているところは、そういう心によって描かれた短編といえる。」
この「虫めづる君」に関する見解には次のようなものがある。
現代社会なら自然愛好家ですむ話だが、栗ばかり食べる姫を変人扱いして嫁にもださなかった、制約の多い平安時代では、「虫めづる姫」はさぞ息苦しかったろうと、(原作漫画の添付記事だったと思う)、宮崎駿監督が、『風の谷のナウシカ』に関する対談でそう述べている。
恐らくは馬場氏の記事に対するコメントでもあるのだろう。ちょっと面白い。
ノート20210815
覚書
馬場あき子『鬼の研究』三一書房1971
Wikiでは以下、本書の序章に示された要点五項目(P9)を引用してまとめている。
文芸評論家の馬場あき子は5種類に分類している。
1. 民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2. 山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3. 仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4. 人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5. 怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える。
第1章第1節「鬼と女とは人にみえぬぞよき」P13
第1項「虫めづる姫君」の慨嘆
〈虫めづる姫君〉とは、按察使大納言の娘。合理主義者で変わり者、宮崎駿が対談で『風の谷のナウシカ』のモデルとしている才媛。平安末期『堤中納言物語』の作中に登場する。
「〈蝶めづる姫君〉の隣に住む按察使大納言の娘は、みにくい毛虫が蝶になる過程を楽しみ、蛇の胴のつやめく優雅さに、命ある色の美しさをみつめる。姫君は、人間社会のひずみに生まれたゆがんだ意識や、先入観が作りなす不自然な習俗に、さげすみのまなざしを送りつつ暮らしているが、さすがに当時の女のならいにまったく背きはてることもできず、したがって親たちとも、面とむかって応答をするという大胆な方法などはとらず、例の、抒情的にしていささか不愉快な垂れ布や几帳のかげに身を置いて物案じをするのであった。その合理的進歩性においてやや常識をはみ出し、世間からの変人扱いにたいしても激しく拮抗せざるを得なかったこの姫君が、ある日しみじみと、「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と「案じ給」うた、その思いとは、いったいどのようなものであったろう。/『堤中納言物語』の作者は、なお不詳というべきであるが、この『虫めづる姫君』という短編をみるとき、そこにあるものは美意識の洞察以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿であり。人々から嫌悪されてる毛虫や蛇のうごめきに、あまねきものの真率にしてくるしげないのちのさまをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能性の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を甘受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。世の良俗美醜に随順することを拒んだ美意識、反世間的、反道徳的世界に憎まれつつ育つ美の概念、少なくとも「虫めづる姫君」の意図しているところは、そういう心によって描かれた短編といえる。」(P13 .l8-P14.l6)
ノート20160816




