読書(詩集)/お気に入りの『ハイネ詩集』2/3 ノート20160823
訳本・著作権切れにつき
P137
樹々は皆
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樹々はみな鳴って
巣はみな歌う――
みどりの森の管弦楽の
指揮者は誰ぞ?
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仰山らしくうなずきやめぬ、饒舌的で灰色の
あのなべきれいがそれなのか?
それとも絶えず調子をとってる
衒学的な、あのかっこうか?
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勿体ぶって指揮者きどりの
あの鵠づるがほんとうにそれか?
みんなが楽器を鳴らしてるとき
ひょろなが脚をがたがた鳴らす。
いや、俺自身の心の中に
森の指揮者は鎮座まします。
いつでもそれがタクトを取ってる、
その名はたぶん「恋の神さま」
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P138
ああ、わが心あこがる
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ああ、わが心あこがる
哀しく天き恋のなみだに。
われはおそる、このあこがれの
遂にただあこがれに終わらざるを。
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ああ、恋の楽しき悩み
その苦き楽しさの、またしても
神々しく強き苦しさもて入り来る、
癒えかけしこの胸に。
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P139
碧き春のまなざし
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碧き春のまなざしあまた
草の中よりのぞく。
そはあら屍鬼すみれ、
われは摘みて、花束としぬ。
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菫摘み、われもの思う。
わが胸に
嘆く思いをすべて
声高に告ぐるうぐいす。
うぐいすの声音も高く
わが胸の想い告ぐれば、
隠したる心の思い
この森に知れわたり足り。
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P141
君わがかたえを
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君わがかたえを追い抜きて進むとき
その裾のわずかにわれに触れたれば
わが心はときめきて
美しき君が足跡を急ぎて追いぬ。
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やがて君ふりむきて
そのつぶら眼のつよくわれをみつめたれば
わが心、居すくみ
君があと追い行きも得ず。
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P140
姿たおやかなる睡蓮
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姿たおやかなる睡蓮の花
夢見ここ理に池の中より空を仰げば
月は空より明るき恋の愁わしさもて
花に会釈す。
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羞らいて花は再び
首を波間にたれしきときに、
その足もとに憐れなる侶の
蒼ざめし面わを認めたり。
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P168
安らかに眠りいたれど恐ろしき
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安らかに眠りいたれど恐ろしき
夢に心葉乱れたり。
夢に訪い来りしは
世に美わしき乙女なり。
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大理石の像のごとくに蒼ざめて
奇しき力、持ちいたり。
真珠のまなこ輝きて
髪のうねりもただならず。
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おもむろにそのふるまいの静かさにて
乙女の顔の青白さ、
石の姿のその乙女
わがかたわらに臥しにけり。
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わが心ふるえ波立ち哀しみと
幸いゆえに燃え立ちぬ。
乙女の心波立たず
氷に似たる冷やかさ!
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「わが心波立ち搏たじ、そは常に
氷のごとく冴え徹る。
しかはあれどもわれ識れり
恋の力の大いさを。
わが頬にわがくちびえるに紅の
色花咲かず、血脈に
血汐流れず、されど君心安かれ
わが思い君を親しみいつくしむ」
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さらに烈しくわれをまく
乙女の故にわが胸はほとほと覚ゆ苦しさを。
そのとき鶏のときつくる
響きに夢は消え失せぬ。
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P170
これは古い伝説の森
(『歌の本』第三版序詩)
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これは古い伝説の森。
菩提樹の花は馨り
ふしぎな月のかがやきは
わが心を魅了する。
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私は跣足で歩いた。行くにつれて
私の死の眼前の打開けた
大きな城があった。
その破風は高く聳えていた。
君が墓辺に着きしとき
月神もしずしず空ゆ降り来て
君のための弔詞をいえば人々は
こらえ兼ねつつ啜り泣き、鐘の音遠く響き来ぬ。
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P185
逝く夏
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黄色い樹の葉がふるえる。
木の根が降っている。
やさしいもの、なつかしいものが残らず
枯れて、沈む、墓の中へ。
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森の梢の周りに、いたましげに
日没の光がふるえている。
これは、別れを告げてゆく夏の光の
最後のくちづけかも知れない。
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心の底から
泣かずにはいられない気持ちがする。
今この有様がわたくしに
恋の別れをまたしても思い出させる。
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お前と別れるさだめだった。
まもなくお前の死ぬことが判っていた。
私は、去ってゆく夏であり、
おまえは枯れてゆく森だった。
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P187
沈む日
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沈む日の光は麗し。
されど更にうるわしきは、君が眼のかがやき。
夕映えの紅らみと君が眼と
そは愁わしきわが心に照り入る。
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夕映えの告ぐるは、別れの思い、
はた、心の闇と心の嘆き。
わが心と君が眼とを遠くへだてて
大海の潮ながるる日は早や近し。
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P188
異郷を
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異郷を旅ゆく夜の道に
心わびしく身は疲れた、
このとき無言の恵み似て
月よみの月の光が流れて来る。
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和やかな月よ、おんみはその輝きで
まがつみの黒い闇を退かせる。
さればこの心の憂さも散って
眼に溜まる涙の露。
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P189
いずこに?
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さまよい疲れし者の
いやはての憩いの木蔭か?
はたラインの岸の菩提樹のもとか?
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砂漠の砂に、見知らざる人の手の
われを埋むることもあらんか?
はたまた、とある海岸のほとりに
ついの眠りを砂にゆだぬることもありや?
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とまれ、いずこなりとも神のみそらは
わが憩いをば取り巻かん、
またみそらの星ら奥津城(※古墓)のランプとなりて
夜ごとわが上に懸り手て照らん。
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P191
それが消える
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幕は降り、芝居は終わった、
紳士淑女方は家路を辿る。
芝居はどうやら好評らしい。
確かに拍手の音がきこえた。
尊敬すべき観衆は
感謝して拍手を作者におくったのだ。
しかし今、劇場は静まり返り
楽しさも明りも消えた。
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おや! 音がする、嫌な音だな。
たしか、ひっそりかんとした舞台の近くで鳴った。
たぶん糸が一本、はじけて切れたのだな、梃の古堤琴の糸が。
平土間で鼠どもが
何匹もごそごそ走り回っていまいましいな。
何もかも、脂肪の匂いがくっついているな。
さて灯が消えるぞ。
あれが俺の魂か。
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ハイネ 『ハイネ詩集』片山敏彦・訳 新潮社1948年
ノート20160823




