随筆/日本刀誕生! ノート20140715
日本刀誕生!
比較的レアだといわれる遺跡に製鉄遺跡がある。あまり興味をもっていたわけではなかったのだが、なぜだか、その手の遺跡ばかりに当たったものだった。平たくいえば宮崎駿のアニメ『もののけ姫』にでてくる、高殿と呼ばれる工房で、シーソーみたいな送風装置・フイゴ座をつかい、そこから吐き出す、風を、炉体で炭をくべ砂鉄を加えて、ドロドロに溶かすのだ。
炉体は、平面形が長方形になった箱型炉と、円形になったポット型炉(竪型炉)が存在する
溶けて赤くなった砂鉄を冷やし、炉を壊して取りだす。すると、当然、炉の形になってでてくる。黒光りしたものだ。これをハンマーで砕くと、銀色に輝く、金属がでてくる。それを称して玉鋼という。
できた玉鋼を集めて、また炉にくべて、さらに大きな塊をつくる。それを鉄丁という。その鉄丁を、刀工が鍛えて刀剣ができるというわけだ。日本の初期の鉱山は鉄穴と呼ばれる鉱石の路頭掘りが主体だったが、やがて、砂鉄による製鉄に替わる。
ここで鉄の起源について触れておこう。
古代中国の青銅剣は、銅に錫を混ぜた塊りをハンマーで叩きながら成形してゆくわけだが、初期の鉄剣も製法は同じで、純度が高い隕石系の鉄塊・隕鉄を拾ってきて、炭素を加えながら成形してゆくのだ。だいたい中国東周・春秋時代の終わりごろだ。
鉄の需要が増大してゆく戦国時代になると、日本のたたら製鉄の源流をなす、製鉄炉が発明された。炉体を、粘土に砂を混ぜた層、植物繊維を混ぜた層といった多重構造にすることで高温焼成・大量生産を可能たらしめたというわけだ。
そこで、携帯武器である刀剣にも変化が起った。両刃で先が尖った剣は廃れだし、片刃である直刀が造られるようになってくる。漢代になるとすっかり直刀が主流になってしまう。鉄丁を母胎にした軟鉄の芯に、鋼の被膜を何枚も重ねてゆくという、錬鉄技法もこのころに一応の完成をみるようになった。
中国漢代は日本の弥生時代とほぼ重なる。
紀元三世紀までの弥生時代は、もっぱら、朝鮮半島から青銅と一緒に壊れた鉄製品を輸入・再加工していた。やがて古墳時代になると、だんだんと自前で鉄を生産するようになってきた。その痕跡は五世紀くらいに遡る。そのころ造られた刀剣は直刀だ。
日本で造られる剣というのは、祭祀関連のものばかりで実用品はない。弥生時代・青銅器に多いのもそのためだ。
鉄の量産化に成功した大和朝廷は、古墳時代から平安時代初頭にかけて、全国統一にまい進しだす。最後まで抵抗したのは僻地である東国だった。馬の飼育や鉄生産を敵である大和朝廷から学び、八、九世紀あたりになると、けっこう奮闘して、ちょっとした独立王国を東北地方に造るまでになる。
古墳時代から平安初期の、一般兵士がつかっていた直刀というのは、蕨手刀だ。騎馬民族化した東北の民も、初めは同じものをつかっていたのだが、直刀だとよく折れた。そこで自然と、弓形に彎曲したフォルムに形状が移行していったというわけだ。彎曲した蕨手刀は、だんだん長くなって太刀となり、日本刀になった。……ここの記述は、国立歴史民俗博物館・紀要の論文にあったものをかいつまんだものだ。
平安時代と重なる中国宋朝には輸出までされるようになる。明代では倭刀と呼ばれ、このスタイルの刀が制式軍刀にまでなる。かなり後である近世ヨーロッパのハンガリー騎兵が採用するサーベルなんかは、案外と、中国経由で彼の地に伝播した、日本刀のフォルムだったのかもしれない。
その後、中世末に鉄砲が伝来し、その威力をもって再統一された日本の近世・江戸時代になると、武士たちは鉄砲もつかわず馬にも乗らなくなってくる。ステータスとして刀は腰にさしているため、果し合いや辻斬りに備えた護身用として刀を使うようになる。太刀は廃れて、それまで中刀と呼ばれていたものを大刀とし、小刀・脇差と一緒に携帯するようになる。
侍たちが馬から降りると、直刀に近いほうが、彎曲フォルムの刀よりも、素早く相手を斬り倒すことに気が付いた。……そういうわけで近世・江戸時代の刀は先祖返りをして、まっすぐに近いフォルムとなってゆくのだ。
END