随筆/幸福な王子の古墳 ノート20140713
幸福な王子の古墳
.
いろいろなタイプの遺跡調査に参加したが、古墳調査に関わった経験は少なく、お手伝いが多かった。数少ない担当経験は、情報価値が低い、古墳を取り巻く溝・周溝(周濠)の発掘ばかりで、第二次世界大戦後の圃場整備のため墳丘を吹っ飛ばされたものばかりだった。
墳丘が残ったものの調査は、現状を等高線で描いて平面図を描き、うず高く盛り上げられた土の堆積状況の断面図を描き、それから玄室を捜して内部を測量してゆくわけだ。そういう作業もやるにはやったが、一連の調査を一つの古墳でやり遂げたことはなかった。
ここで古墳の系譜をたどることにしよう。
紀元前三世紀から紀元三世紀とされる弥生時代に周溝墓というスタイルの墳墓が登場する。文字通り、墓の周りに溝を穿つのだ。墳丘は中国・陰陽思想でいうところの天を示す円形と、地を示す方形とがある。頂きに竪穴を穿って柩を収める。古墳同様に、大きいのもあれば小さいのもある。だいたいは集落の外れにつくる。これが発展して古墳になってゆくのだ。
紀元三世紀をグレイゾーンとして、四世紀から七世紀とされる古墳時代になると、集落からはまったく離れた、目立つ、丘みたいなところに造るようになる。最大の特徴は、それまでの円形周溝墓・方形周溝墓に加えて、大和朝廷という統一王権ができたことで、天を示す円と、地を示す方を連結した前方後円墳という特異なスタイルが発明されたことだ。天の長は帝、地の長は皇。二つを束ねて天皇としたわけで、皇帝と同義だ。このスタイルの古墳が存在するところは、朝廷の臣下であるということを示す。
墳丘の表面には礫石を綺麗に敷いたり、化粧砂で仕上げたりした。墳丘にはお供えものを入れる土器を並べていたのだが、間もなく、それが発展して埴輪になった。
また、最初は周溝墓同様に竪穴を穿って納棺するものだったが、六世紀から横穴式の墓室を穿つようになる。
方形周溝墓が発展したのが方墳だ。ステータス的には、前方後円墳より落ちるのだが、円墳よりはレアだ。
また話を本筋に戻す。
そういう方墳の調査をしろという社命があって、霞ヶ浦を見下ろす高台で調査を行った。実際の作業はこちらがやるのだが、書類の上では、地元の学芸員が指揮して、本にするという契約だった。
方墳とはいっても、何パーツかに分けて調査がなされていた。墳丘は第二次大戦後の圃場整備で、ろくな調査もなく壊され、その基部と周溝だけが残っていた。私が関わったのは北側で、もっとも価値の高い玄室調査は数十年前になされ既に終わっていた。
調査スタイルには、大学・博物館といった学術機関がやる学術調査と、道路やビルなどの建設で遺跡が壊れるからデータをとる緊急調査とがある。
私が関わっている調査の大半は緊急調査だ。ゆえにある対象を調べている、というのではなくて、建設範囲にかかる遺構すべてを発掘するのが目的だ。
――そこは農家の豚糞集積所の真下だった。
えらい悪臭がする土を重機・ユンボでどけて、地山・関東ローム層の表面を人力で綺麗に削り取って、浮き出たシミ状のラインを識別。往時の形状に詰まった土・覆土を払いのけてやる。それで、旧状に復した状態を写真や図面で記録してゆくというわけだ。
そのときの調査で、新規にみつけた、一基分の古墳というのは墳丘部分が五メートルに満たない可愛らしい方墳だ。時代は埴輪を造る風習が廃れ、前方後円墳も朝廷の意向で禁止されている時期・七世紀代のものだ。全国的には横穴式石室が主流だったが、この地方では古い墓制が残っていた。
埴輪こそ並べてはいないが、竪穴の底に板状に切りだした石で、箱のような柩・箱式石棺をつくる、というのも特徴的だ。
また、ふつうは、同じ古墳に家族の遺体を追葬するものだが、その可愛いらしい古墳は、柩が一つだけであることから、被葬者が一人だけのためにつくられものと判った。
貴人の遺骸はまっすぐ仰向けにして寝かせられる。すると石棺のサイズから被葬者は一メートルくらいの身長だと推定できるわけだ。
小さいながらもここは、家族墓ではなく、十歳そこらの、子供一人だけのために造られた、なんとも贅沢な墓だったのだ。
恐らくは数メートルの高さがあったであろう墳丘は、明治から昭和にかけての耕作で削平され、基部に残った石室も、畑の用水路を造ったとき、蓋のところが偶然にあたっていた。そこから柩の内部をごっそりと抜き取り、盗掘した跡があった。残念なことだ。
しかしだ、古墳からは率直にこう感じることができた。
――なんて愛されていたんだ、この子は!
霞ヶ浦の一角にあった小王国の幼い骸をまつった小さな小さな墓だった。
END