随筆/白水郷・異界境の桜ノ園にて ノート20140415
風水の考え方に竜穴というのがある。地下を流れるエナジーが、ときたま地表に顔をだすところで、例えていうなら武蔵野の山々に発した龍脈が、東京の皇居で顔をだして竜穴となるというものだ。
そういう龍脈を川としてとらえる発想もある。源流を遡ってゆくと、浄土・桃源郷に至るという考えが、奈良・平安時代あたりにあるだろうという思想もあったようだ。
新しい生命を産するところ女陰をもって桃とみたてるとしよう。その神聖果実を死期に近い翁・姥夫妻がみつけて、流れてきた源流に遡る旅にでたとする。発見した人里から、川づたいに、西にある山奥をめざしてゆく。すると夫妻は、入山、奥山という煉獄を経て、西方浄土・桃源郷というパラダイスに至るのだ。
さて、わが故郷の福島県のイワキというところは、古代を石城、中世を岩城、近世から磐城と書いて、支配者の系統を区別していた。このうち中世の岩城氏というのは、古代末に東北一帯を支配した平泉政権・奥州藤原氏の一門だった。初代岩城国主・則道公は、現在のいわき市の中心市街地をなしている平地区・松ヶ丘公園あたりに御所を定めたといい、代々子孫は、近辺を根城とした。
則道公の奥方は徳姫といい、源義家の異母妹となり、後に藤原清衡の養女となり、一門である公の後妻となり、御亭主が亡くなると白水寺というものを建てた。その白水寺というのが、願成寺であり、平泉の毛越寺庭園と同じ浄土庭園に、中尊寺金色堂を模した阿弥陀堂を配置したものだ。
最終的な竜穴を御所である平に置き、桃太郎の桃が流れてくるべきエナジーの源泉をもとめて・新川なる川をさかのぼっていった、竜穴が一度噴き出すところに白水寺を置く。そこから一キロもゆかぬ、白水地区内・入山からは、人里ではない西方浄土・神仏の領域となる。つまりそのあたりが人界と異界の境目と考えたのではなかろうか。結界が白水阿弥陀堂だ。
この白水は泉という文字を上下に割ったものだという説がある。さらにいえば、イワキ地方の、平と白水という地名は、本家筋である奥州藤原氏の都城・平泉を分解したというわけだ。西方浄土を唱える奈良・平安時代の風水思想に重ねると、けっこうこの説はいい感じだ。
このため古代の人の墓は、西方浄土の方角である里の西側に設けられ、貴賤を問わず火葬として、山の斜面に穴を穿って遺骨を埋め、墓標がわりに桜を植えたものだという。往時の都人たる時の関白・藤原道長公とて例外ではなく墓所が不明とされるのはそのためだ。また、少し前の世代である歌人・在原業平卿も、同じく桜を墓標がわりとしたようだ。風流人たる彼の場合は、特に、死して桜の精となり、「花翁」と呼ばれることになる。
さて、近世は幕末になると、入山・弥勒沢で石炭が発見され、近現代の同地区の地下は地盤沈下・落盤を起こすほどに掘削され、石炭を抜いた礫石を周辺山林に捨てて巨大な集積場・ズリ山を造ることになる。
私は古老たちからきいた。白水寺が願成寺と呼ばれるようになり、そこの中心にある伽藍・阿弥陀堂の地下が内緒で炭坑の坑道が掘られ、火災を起こした際、近現代の炭坑夫たちが通気口があったという阿弥陀堂裏のとこで、断末魔の声をあげていたということを。また、戦後の国策で植樹された杉林が安価な外材に押されて価値を失ってから自然林となり、鳥が種を運んで桜樹としているあたりに、坑夫たちを火葬した墓場があったということを。
北を中心にコの字に窪んだところに阿弥陀堂を建て、南に川を配した、白水寺・のちの願成寺の周辺は、炭坑閉山から半世紀を隔ててのち、杉・檜を押しのけて、自然樹林が勢いを盛り返し、春となるたびに、桜花が里を少しずつ圧迫してゆくのだ。
花冷えする丑三つ時、月亮に照らされた桜林の里にある、あばら屋・硝子窓のむこうで、静寂を破り、花翁能舞いのごとく、パソコン打ち込む音をたてる、われ・奄美の影があった。
いよおっ。ポンポンポン。……うぎゃあ~っ。(←ギャグでひっくり返すんじゃない!)
END
いまから福島のハズレから新潟に旅行するというのに、ガサゴソ寝床から這いだし、なにを書いているのだろう。疲れているいる、いや、憑かれている。祟りじゃあぁぁぁ。PC依存症の祟りじゃあぁぁぁ……。