大神の山 壱
更新は割とゆっくりかもしれません。連作短編形式なのでエタることはないです。舞台は日本ですが、架空の時代です。
拙作ですがお付き合いいただければ幸いです。
昔、人々は今よりたくさんの生きものと暮らしていた。
生きものたちは人に崇められ、そして畏れられていた。
生きものたちは人を襲うこともあれば、助けることもあった。
そして彼らと関わる人間がいた。
そんな時代の話である。
◯
『東から、更に東へ向かった時のことだ。その年の夏の終わり、私はふと思いついて、師である慮庵先生のもとへと向かっていた。道中、小さな村へ立ち寄った後、私は深い山を越えることにした。記憶が間違いでなければ、山さえ越えれば無事に先生のいる村に着くはずである。』
◯
山の鴉が鳴いている。しかし太陽の出る気配は無く、感じられるのは辺りの冷たい空気と虫の声だけだ。どれだけ歩いたか知れないが、夜は一向に明けない。夜風に交じって流れてくる、蟋蟀の声が耳につく。こういった風情のある音も、疲れた体には少々鬱陶しい。
しばらく宿を目指して舗装のされていない山道を、木々に手をつきながらなんとか下っていると、ふと空気が少しばかり冷たくなったような気がした。するとどこからか獣の呻き声のような、それにしては異様に甲高い音が聞こえてきた。それは空気を雑巾のように捻り締め上げるような、とても苦しげな声で、聞く私の心を焦燥と不安に掻き立てた。
「はて……このあたりに獣なんていたのだったかな」
先日世話になった村の村長の言では、近辺の山に出るのは狸か、さもなくば盗賊くらいのものだという話だったのだが……。狸の鳴き声というものはもっとか細いものだ。まして盗賊などということはないだろう。
「そうなるとやはり、アレかね。また厄介を抱え込んでしまったものだ」
そういえばここいらは犬神信仰の土地だったか。すると面倒なことになるかもしれない。
「しかし、麓の村にゃあ先生がいらっしゃるんだ。大層なことにはなっていないだろ」
などと思案していると、それを遮るように突如、背後から唸り声が聞こえた。先の声と同じやつだ。金物を擦った様な、非常に不快な声である。どうやら今度は相当近くにいるようで、音量もひどく大きかった。
夜は彼らの居場所だ。可及的速やかに、山を下りねばならない……。私は足を踏み出し地面をぐいと踏みつけた。
しばらく歩を進めると、勾配がなだらかになってきた。もう丸一日は歩き続けているのだ。直に山も抜けられるだろう。そう思った私は、傍にあった木の根に腰掛けた。
後から考えれば愚かしい行為ではあったが、そのとき、私はとにかく疲れていたのだ。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。しかし周りの余りの明るさに目が覚めた。私は慌てて飛び起きようとして、自らの体が動かないことに気が付いた。
……どうやら周りの明るさは日の出の所為ではないらしい。私の眼前には、燦然と輝く、一匹の狼があった。
◯
――狼、大神、犬神、真神。
神と呼ばれるだけあり、古来から狼は神聖な動物とされ、様々な名で呼ばれてきた。それだけ、人間と関わりを多く持ってきたということだ。つまりは狼なんぞ特段珍しくもないのだが、こいつの変わっているのは白いことである。全身が白い毛に覆われているのだ。白いだけでなくその狼は、まるで月が目の前にあるかのように自ら光っており、全身を覆う棘のような白い毛が一本一本光を反射し煌いている。純白というよりは、銀に近いかもしれない。触れるものなら怪我をする、そんな風に思ってしまうほど近寄りがたく、それでいて美しかった。
(こいつはきれいだ。いいものを見た。)私は心のうちで一人ひそかに高揚していた。
しかし、狼はそんな私の想いなどに構わず、間を詰めてくる。近くに来ると、その異様な大きさが手に取れた。何しろ私の目の前に顔があるのだ。これでは熊より大きい。私の顔と狼の顔の間は、五寸程にも満たないだろう。狼の吐息が私の顔にかかる。あまりの獣臭さに私は顔をしかめる。なんだって獣というものはこれほど臭いのだろう。やはり歯を磨かないせいか。
狼は、徐に口を開いた。「がぶり。」とやられるのかと身構えたが、そうではなかった。
「出て行け」
狼は鼻を鳴らすと静かにそう言った。その声は低いにもかかわらず、耳には甲高い音を聞いた後のような残響を残す不思議な声だった。狼の両の眼は私をまっすぐに睨みつけている。私と狼の間には一見、とても静謐な空間が流れていたが、その実狼の全身は悪意に満ちており、殺伐としていた。辺りには蟋蟀の声だけが響いていたが、先程私を苛立たせたこの声は今は不思議と嫌ではなかった。そうしている間に、動けない動けないと思っていた体の拘束が解けていることに気が付いた。
「なんだい、お前話せるのか。まあ、そういった類のものだろうとは思っていたがね……」
私が努めて冷静にそう答えると、狼は鼻面に皺を寄せ歯の間から音を立てた。威嚇しているのだ。
「出て行け」
狼はもう一度言うと、俄に殺気立った。今にも飛びかからんばかりである。私は慌てて傍に置いてあった自分の支那鞄をひっつかみ、狼に背を向けて走り出した。
要するに逃げたのである。狼は追っては来なかった。
私は、そのときはただ、(綺麗な狼だったな。美しい。もう一度この目で見てみたいものだ)などと呑気に考えていた。狼の気配もなくなり、そのまま暫く歩き下山すると、漸く村が見えてきた。田畑の多い、山に囲まれた平和な村であった。一本道のあぜ道を少し歩くと、一軒の家が見えてきた。庭では娘が手入れをしていた。
「おういそこの娘さん」
「はい? なんで御座いましょう」
私が呼ぶと、娘は手入れを中断して近寄ってきた。
「この辺りに慮庵先生という方はおられぬか」
と、私が慮庵先生の名を出した途端、娘は顔を曇らせた。娘は自らの汚れた手に目を落とした。
「慮庵先生はおられません」
娘はポツリ、と呟くように言った。
「おや? 引っ越したとは聞いていないが」
娘はしばし沈黙した後、顔を上げた。その眼は少し潤んでいたように思う。
「慮庵先生は亡くなったのです。丁度ひと月ほど前に」