三、夢の終り
アレスは目を覚ました。ごたごた続きで睡眠不足なのに、眠りが浅かった。窓から外を見た。まだ朝日は上っていないものの、東の空は桔梗色に染まっていた。ふう、と何を考えるのでも無しに一息ついた。扉がこんこんと叩かれた。
「アレス、アレス、……起きているの? アレス……」
ナレスの声だった。アレスは何事かと不安に急きたてられながら扉を開けた。
「ナレス、こんな時間にどうしたっていうんだ。」
見ると、ナレスの顔は青白く、酷く悪い。びっくりして咄嗟に肩を抱いた。
「ナレス、駄目だ。起きてちゃ駄目だ。かなり調子が悪そうだよ。直ぐに寝ておいで、ね。一緒に行くから。今すぐお医者様も呼んで来る」
「アレス、駄目よ、アレス。終わってしまう。全部終わってしまう……」
ナレスの目にはいっぱい涙がたまっている。更に驚愕するアレス。
「どうしたっていうんだ。どこか痛むのかい? とにかく、何が何でも寝ていなきゃ駄目だ」
ナレスはしかし、その言葉を聞いていないかのように、アレスにしがみついて、涙をとめどなく落とし続けた。
「終わってしまうわ。何もかも。夢も現も、全部。終わってしまうの、あなたも私も……」
「終わってしまうって、どうしたっていうんだ。終わりはしない、何も終わりはしないよ。いいから、ね。寝ておいで、お願いだから」
どうしたらいいか分からず、とにかく子供をなだめるように言い聞かせたが、どうもナレスの耳には届いていないらしい。うわ言のように『終わってしまう』と言い続けている。
「アレス、教会よ、教会に行って」
「教会……?」
アレスを襲う胸騒ぎ。……まさか、――
「分かった、教会へ行く。直ぐに行くから。ナレス、いいから、部屋で寝ておいで、ね。僕に任せて」
「終わってしまう。本当に、全部終わってしまう」
ナレスは床に崩れ落ちた。
「ん、待て、そこの者止まれ。こんな時間に何用だ」
教会前の兵士は此方に向かって来る一人の男を呼び止めた。しかしその男は足を止める気配が無い。
「止まれ。……ん? またお前か。いいから止まれ。おい、待てと……!?」
兵士は戦慄した。その男の目は黄金に輝き、禍々しい黒紫の光が身体を包んでいる。
「どいてもらおう。通さぬと言うのならば、力ずくにでも通らせてもらう」
「丸腰で、その様な戯言を。……いいから止まれと」
男は、兵士の鎧の上から腹に拳を叩きつけた。すると、いとも簡単に、男の腕は兵士の身体を突き破ってしまった。
「が、……は、……」
「……はは、なんだ。凄いなコレ。思った以上だ」
男は他人事のように感心している。兵士を後ろにぽんと放り投げた。重たい鎧を装備した兵士は、容易く宙に浮かび、地面にがしゃんと叩きつけられた。兵士は息絶えている。
その光景を見ていた他の兵士がひるむ。その者たちに向かって、その男は声高に、
「お前らはこの中に何があるか知らない。どうせ雇われだろう。止めておけ。僕を素直に通せ」
「こ奴め、賊か、『いかれ』か分からぬが、覚悟せい!」
別の兵士が剣を抜き男に襲いかかった。男はひらりとかわした。そして手の甲で兵士の頭を払った。すると途端に兵士の頭は兜ごと吹き飛んだ。剣がからんからんと地面に落ちた。
「はは。……うーん、ごめんね。殺すつもりはないんだけどな。制御できそうにないや」
男はにっこりと笑った。他の兵士達は一斉に騒ぎ立てた。
「うろたえるな!」
その中の、他より派手な鎧を具した兵士が叫んだ。
「出会え出会え! 全ての兵を起こせ! 槍を持て! 世に轟く帝都ロマティが兵の、丸腰の賊に怯んだとなれば末代までの恥辱となるべしや、鋭鋒なる矛を敵に穿ち突き刺せ!」
四人の兵士が今度は槍を持って男に襲いかかった。
「そっか、そうだね。丸腰に殺されたとなったら都合が悪いか」
男は先ほどの兵士が持っていた剣を拾った。繰り出される槍に向かってさっと剣を振った。
すると槍はいとも簡単に切断された。
兵士は驚くも、槍を捨て、いち早く腰の剣を抜き構えた。しかし既に一人の兵士は首と身体とが離れていた。兵士は男を見た。その手に持つ剣までもが、禍々しい光に覆われている。
「クッ、おのれ!」
三人に減った兵士が同時に男に剣を振りかざす。後ろに飛びのきながら剣を下から振り上げる。すると、剣の間合いよりも離れている筈なのに、一人の兵は腰から肩まで鎧ごと真っ二つに切られた。切られた側も、他の兵士も何をされたか理解できない。
「あは、本当にすごいや。何でも出来ちゃう」
と切った側も驚きながら、笑っている。がくがくと震える二人の兵士。
構わず男は剣をすっと軽く横一線に薙ぎ払った。二人の兵士は、同時に鎧ごと腹を真っ二つにされた。どさりと地に落ちる。
「ああ、別に切る必要はなかったかな。まあ、いっか。」
構わず男は教会に向かった。外には先ほど威勢よく鬨の声をあげた兵士しか残っていない。
「おのれ悪魔め!」
最後の一人となった兵士は、剣を抜いた。
「悪魔? 僕が? ……そっか、悪魔か」
男は累々の死体を見た。
「そうだな、これは。確かに悪魔の所業でしか無いや」
兵士は男が言い終わるや否や剣を構え躍りかかった。しかし、二、三歩行った所で、頭から足まで真っ二つに割れた。既に男の剣は振り下ろされていた。
「なんともな。つい先日まで神だ何だと言っていた僕が、このザマさ。嘘みたいだ」
男は教会の内へ入った。
「スウバ、君を、助けに来たよ」
「すと、……らあで?」
その男、ストラーデは、少女の前まで来た。ストラーデは法陣へ足を踏み入れた。少女は不安げにストラーデの姿を見た。ストラーデの拳は、持っている剣は、血に赤々と染まっている。
「怖がらないで。僕は君を助けに来たんだ」
ストラーデはにっこりと微笑みながら、少女を拘束する鎖に剣を突き刺した。巻きついている輪っかも力ずくで壊した。
「嫌だったろう、苦しかったろう」
ストラーデは少女の足を、先ほどまで鉄に支配されていた足をさすった。そして夢と同じように、両の膝を地に付き、足先に口付けた。
「ストラーデ様! ……あなたは、あなたって人はッ!!」
アレスが、兵士を引き連れて降りて来た。ストラーデは立ち上がり、アレスを見下した。
「アレスさん、どうか引いてくれ。僕はあなただけは殺したくない」
「どうして、……どうしてこんなことを!」
ストラーデは少女を見た。少女は戸惑いながらも、自分の足を不思議そうにさすっている。
「良かったね。でも、もう少し待ってね」
ストラーデは少女の頭を撫で、そしてまたアレスに対峙した。
「スウバを助けたい。それだけだ」
「その御方が。……その御方が居なくなったらどうなるか、分かっているでしょう!」
「アレスさん、この街は大丈夫だよ。あなた達はやっていける。生きる方法など、いくらでもある。やっていけるさ」
「そんな、そんなこと……」
「やっていくしかないんだよ。そうだろう。こんな少女を犠牲にした繁栄なんて、間違っているさ。そう思うだろう。アレスさん、あなただって、この街の伝承なんか信じちゃいないだろう。この子はね、捕えられたんだよ。ヨンドルとかいう魔術師に」
「そんな、そんなこと、……そうだとしても、それでも妻は、……その子がいなければ妻は生きて行けない……!!」
「それでも、生きて行くしか無いさ。……生きて行けなきゃ、運命だと思って諦めるんだな」
「ストラーデ……ストラーデ、貴様!」
かっと目を見開き、ストラーデを見た。アレスの視線が、はっきりと敵意に変じた。対してストラーデは、寂しげにアレスをただじっと見つめ返している。
「アレス、あんたは妻を助けたい。そして僕はこの子を、スウバを助けたい。そういうことだ。どうやら僕とあんたは同じなんだ。そして何より、二人同時には助けられない。……でも、力は僕にある。助かるのは、スウバだ」
ストラーデは剣を投げ捨てた。そして、拳を天にかざし、歯を食いしばり、めいっぱい握り締め、地面に、法陣をめがけて思いっきり叩きつけた。
地面が割れた。閃光を放って、法陣が崩れた。……すると、地面が突如隆起しだした。天井が割れた。何人かの兵がその下敷きになった。アレスは怒りに震えている。
「皆ども、かかれ!」
アレスは目を見開き力いっぱい叫んだ。兵士らが、隆起する地面に、落ちて迫りくる天井に構わず、熱り立ってストラーデに向かった。ストラーデは少女を胸に抱いた。ストラーデは落ちてくる天井に拳をつき立てながら、剣を拾い向かって来る兵士を撫で切りにした。
「ストラーデ!」
アレスは叫びながら剣を振りかざた。ストラーデはその腹に、さっくりと剣をつき立てた。
「く……どうして……!! こんな……こんな事が……!! ナレス……ああ、ナレス……」
アレスの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「……さよなら、アレス」
ストラーデは剣を引きぬいた。どさっとアレスの身体は地に落ちた。
同時に地面の隆起はおさまった。どうやら元の高さまで戻ったようだ。ストラーデはアレスの顔を見た。悔しそうな、恨めしそうな死に顔を晒している。
「アレス、こうするしか無かったんだ。こうするべきだったんだ」
教会の外でぱちぱちと手を叩く音がした。老人がこちらを見て口元だけで笑っていた。
「どうやら首尾よくいったようでございますね!! おめでとうございます!!」
老人の声が、以前より明らかに若くなっていた。明瞭で快活な声だった。
不図、助け出した少女がストラーデから離れ立ち上がった。少女は来ていた服をするすると脱いで床に落とし、白い翼を背中から出した。
すると辺りに一陣の風が起こり、教会が吹き飛んでしまった。
少女は空に昇った。
翼は朝日を吸い紅く染まり、褐色の肌は光を受け、てらてらと輝いていた。この世のものと思えぬほど、美しかった。
少女が手を天にかざした。
ストラーデは天を仰ぎ見た。空に、幾つも星のような小さな光が現れた。次の瞬間無数の大きな色々の光の柱が街の至る所に落ちて来た。柱に叩きつけられる家々、何事かと街中が大混乱になる。人が、建物が、その下敷きになった。騒ぐ声がする、泣く声がする。
「こ、これは一体……」
その光の柱が一斉に、更に虹色に光り輝き出した。するとどうであろうか、街全体の景色が変じて、ことごとく灰に染まった。灰に染まったというより、色を抜かれたようであった。
美しかった風景も、装飾も、人も宝石も水も、一斉に同様の灰になった。
その中でストラーデは唖然と一人立ち尽くした。
街の景色を飲みつくすと、次第に光の柱は消えてなくなった。
老人の方を見た。しかしそこに老人の姿は無かった。突如、ストラーデの上半身は、竜に噛み砕かれた。途端に、身体は粉々の砂となった。辺りに飛び散った血も直ぐに砂に変じた。
竜は飛翔し、スウバに近づいた。
「……スウバ様。雷に打たれ我が背に乗せし貴方様を落とし、この三十年の間、助け出す事、能ず……。どうかなんなりと御処罰ください」
「ルベス、ストラーデは殺してしまったの?」
「はい。力の有る者故、生かしておいては後々厄介でございますが故。……ならなかったで御座いましょうか?」
「ううん。ちょっと、かわいそうかなって、思っちゃって。それだけ」
スウバは教会のあった場所を見下ろし、次いで天を仰いだ。
「行こう」
少女と竜は天に昇り、壊滅した街を後にした。




