二、夢
ストラーデは宿でまた夢を見た。そこにはどういうことか、例の老人も出て来た。
現実の通りに口元だけでにたにたと笑っている。ストラーデは夢の中で、それが夢だとすぐさま確信できた。そんなストラーデに対し、しゃがれた声で老人が話しかける。
「ほれ、この先じゃ」
夢の舞台は例の教会。老人はまた、例の棚を指さした。ストラーデは何も言わずその方へ歩いた。棚の裏を見ると、言った通りに階段があった。
「ほれ、降りるのじゃ。ほれ、ほれ」
老人に促され階段を下りた。その地下とやらはあまり深く無く、十歩程行くと既に階段は尽きた。暗かったが、歩みを進めるたびに灯が自然と点った。其れを然程気にせず平然とストラーデは進んだ。ゆっくりと進んだ。やがて道も尽きた。そこには、少し広い空間があり、暗くて良く分からなかったが、床に赤い線で大きな法陣が描かれていることは分かった。
「ほれ、秘密とはこれのことじゃ。ほほほ」
そう言って老人が手をかざすと、その空間の灯が一斉に点いた。急な強い光に一瞬ひるむストラーデであったが、しかし、ストラーデはその光の中に、何かを見た。
確かに見た。この街の秘密を、確かに見たのだ。
ストラーデは目覚めた。嫌な寝汗がびっしょりと体に張り付いている。既に陽は天辺にまで昇っていた。
何とも不気味な夢だ。本当に、何なんだ。あの教会の地下に……何があったのだっけ?
思い出せない。不快感が込み上げる。吐き気さえも催す。あの地下に、何があったと言うのだ。――いや、そんな事はどうでもいい。あれは、ただの夢だ。
気分転換にと、街の様子見も兼ねて散歩に出かけた。本当に何もかも、目を見張るばかりである。特産品は、麦、トマト、芋その他種々の野菜、ガラス細工、鉄工芸、楽器に至るまで様々。炭鉱までもあり、最近では金までも採掘できるとの事。こうまで恵まれた地に、目眩さえした。自分のいた街と比べ、何が交易に成りうるか考えた。無い物を探す方が難しい。香辛料、綿……そうこう雑多なことを考えているうちに、街の中心あたりに来た。
噴水があり、更に活気が増している。ストラーデはその傍らのベンチに寝そべる男の顔に、見覚えがあった。近寄ってよく見ると、――
「あ、あなた様は……」
「ん、誰だ」
男は面倒臭げに体を起こし、金髪をさらさらと揺らし、ストラーデを睨んだ。
「……ああ、お前は、確か昨日教会にいたな」
「あなた様は、確かにウエル様でございますね。これは、一体どうなさいましたのでしょうか」
男は、具足を解き、平易な格好をした、将軍の代理で来たと言う、その子息ウエルである。
恭しく頭を下げたストラーデを、ウエルは心底邪険に取り扱った。
「いい。今はそういうことをするな。目立つ。折角こうして自由を味わっているというのに、いい迷惑だ」
「は、はあ」
ウエルはじっとストラーデを窺った。そうしてまた口を開いた。
「見慣れぬ顔だが、昨日の会談は初めてか?」
「はい。と言うより、先日この地に足を運んだばかりの旅人でございます」
「……旅人? 旅人が出席していたとはなァ。こちらも随分見くびられたものだ」
そう言って鼻で笑った。ストラーデは取り繕うように、
「いえ、そんなことは御座いましょうか。ウエル様と言えば武功高き名臣と伺っております」
「世辞はいい。……見ろ、周りを」
ウエルの言う通り周りを見た。人々は忙しなく動いて、二人の様子を気にする者などいない。
「昨日は、帝都の外にその御名をとか何とかほざいていたが、派手な鎧を脱いだ途端に、どうだ、このザマだ。街の人間は誰も彼も我を見止めもしない。そんなものだ。万物夢の如しだ。……まあ、俺としては気楽で、帝都の視線にさらされるよりは良いが」
やや自嘲的に鼻で笑い、また視線をストラーデに戻した。
「で、お前は何か目的があって旅でもしているのか。それともただの放蕩か。恰好からして、布教などと言うわけでもあるまい」
「はい、私は通商の為に各地を回っております、ストラーデと申すものでございます」
「成程。と言うことは他にもいろいろ回っておろう。此処より他に優れた街があるか?」
「いいえ、御座いません。ここまで恵まれた街など、どこにも御座いません」
「そうであろう。物品の産出だけなら帝都にも勝る。こちらが勝るのは人の数と兵力ばかりだ。厄介なものだ」
「……まるで、神の御心に救われているようです」
「……神?」
ウエルは眉をひそめた。しかしストラーデはそれに気付いていない。
「はい。しかし、この街は神をぞんざいに扱っていますのが気にかかります。今でもああやって、神を幽閉か何かするように」
ストラーデは直ぐ近くの教会を指差した。依然兵士によって囲まれている。
「何? では、ぞんざいに扱えば神が悪さするとでもいうのか」
ウエルの試すような物言いに、ストラーデは目を見開いた。
「いえ、そんな筈はありません!! 神の御心は、この大地よりも広いのでございます!!」
「ふん、会ったことがあるように言うのだな」
「この目に映じたことはありませんが、いつも神は我々の心に御光を差しておいでです!!」
「つまらぬ」
「ウエル様は御神の御心が解せませぬか!! どうか、信心なさいませ。御神を拠り所となさいませ。御神に背を向けるは、どう着飾ろうと、蛮族と変わりありません」
「随分と好き勝手に言ってくれるな」
ウエルはストラーデを睨んだ。対しストラーデは恭しく頭を下げた。
「どうかお赦しくださいませ。しかし御神の教えに背くは必ず不幸への路と相違いありません」
「ふん、馬鹿らしい。それならば結局は神が悪さするのと変わらぬではないか」
「悪さなどではございません。罰であります」
「不快だ。まあ、いい。今日は静かに過ごしたいのだ。もう説教は止せ。……いや、ストラーデとか言ったな。この他に多くの地を回ったと申したな。他の地はどうだ。勝る街が無いとはいえ、では逆に不幸な街がどれほどあったか。」
ウエルはにやりと口元に小馬鹿にするような笑みを浮かべた。ストラーデは思い出を探った。
「幾つもございます。街は荒れ、農地は枯れ、貧窮により人の心は荒むばかりの土地が幾つもありました」
「それも、神の仕業か」
「滅相もございません。人の力が及ぶには限度がございます。到らぬ結果でありましょう。しかし、どんな困窮の中でも、神の御心の中できっと幸せに生きることができます。そして、どんな困難であってもそれはつまりは試練なのです」
「ふん、試練であろうが何であろうが、死んだらどうにもならん」
「しかし……」
「しかしも何もないわ。お前は先ほどこの豊かさを神の仕業と言ったな。何故この街ばかり幸せにするのだ。人は、神の前では平等であろう。神父はいつもそう言っている。だが、現実はこの有様だ。結局、神は救える人間を分けているのだ。……何か言いたげだな。まあ、聞け。その方が道理であろう。俺には、人の命が平等とは思えぬ。聞け。俺には腹違いの兄弟が何人もいた。俺の母は平民の出故に、粗末に、ぞんざいに扱われたものさ。俺は、母が死んだ時三日三晩泣きはらした。その後兄弟がことごとく死んだ時、ざまあみろと笑ってやったさ。……俺にはな、粗末に扱われた時でも俺を想ってくれた者たちの命と、俺と母を邪険にした連中の命とを、同じに見ることは出来ん。……どうだ?」
「それでも……神は……我々人知を超えた神の前では、平等なのです……」
「ふん、そうかい。まあ、神の御心なんぞ、人が測り知れるものではない。話が振り出しに戻った。……もっとも俺が神であるならば、人の命と畜生の命を分けることなんざしないがな」
そう言ってウエルはまたベンチに寝転んだ。
ストラーデは何をどう言い返せばいいのか分からず途方に暮れ、ただじっと立ち尽くした。そして、重々しく警備された教会を見た。老人の言葉を、夢を思い出した。
「……何だ、まだあるのか」
「……ウエル様。あの教会の地下のことを、御存じでいらっしゃいますか。」
「地下? 何のことだ」
「……いいえ」
「……分からん奴だ」
ウエルと別れ、何の気なしに歩いていたら、もう日が暮れかかっていた。あれやこれやといろいろなことを考えていたが、今日はもう宿へ帰って寝てしまおうと思った。
その帰り道、昨日の老人が道端に座っている姿があった。
早速ストラーデは老人へ近付いたはいいが、どういった言葉を続ければいいかわからず、どもってしまった。流石に、夢に出て来たなどと言い難い。その老人もストラーデを見た。依然としてフードをかぶって目は見せない。また例の通り、口だけでにたっと笑った。
「ほほほ、どうじゃ、この街は、気にいったかのう」
「あなたは……あなたはこの街の人間なのでございましょうか」
「ほほほ、どうじゃろうなあ。……で、どうじゃ。この街の秘密に興味を持って下さったかな?」
「しかし……そうは言っても、確かめようがございません」
「ほほほ、そうじゃのう、兵士が囲んでいるものなあ。だがそれが、それこそが、確かに何かが在るという証拠じゃろうて」
「確かに、確かに変ではありますが。それでも……」
「ほほほ、問い質してみればよかろう。案外、すぐに聞けるかも知れん」
誰に?――勿論、そんな人間は一人である。
ストラーデは、躊躇しながらも、アレスの家の戸を叩いた。直ぐにアレスが出た。
「あの、こんな夕方に申し訳ありませんが、一つ尋ねたいことがありまして」
「そうですか。では中に……」
「いえ、いいのです。直ぐに終わりますから。……教会の地下に、何がありましょうか」
アレスは表情を強張らせた。当然、ストラーデはそれを察した。
「ストラーデ様、それを誰からお聞きになりました。」
「いえ、街の人かどうかわかりませんが、そう聞いたものですから。……どうか、お教え願いませんか」
アレスはじっと考えた。アレスには、目の前のストラーデが何をどういうふうに考えているのかまったく分からなかった。
「では……それでは、明日、教会の前にいらっしゃってくださいませんか」
「教えて下さるのですか」
「それは」
アレスはまた答えに窮した。
「どうか……どうかお教え下さい」
「それは、また明日。どうか、また明日いらっしゃってください」
「宜しくお願い申しあげます」
ストラーデはそう言って頭を深々と下げ、宿へと帰って行った。
アレスは考えながら中へ入った。家の中には、街の者が幾人かいて、二人の会話に耳をそばだてていた。その中の一人がアレスを見た。
「あの野郎、一体どこから嗅ぎつけやがった」
「コルズさん、あまり声を荒げないでください」
「そうは言ってもだ、アレス。あれを見つかったら何をしでかすか分かったもんじゃねえぞ。なあ、殺そう。それしかない」
「そうだ、殺そう!」
その場の何人かが同調した。アレスは困り果てながら、
「どうか、あまり大きな声を出さないでください。妻の体に障りますから。……あまり乱暴なことはしたくありません。それに、ウエル様とも顔を合わせていますし、もしものことがあります。急にそんなことになれば不審に思われることでしょう。下手なことは出来ません」
「じゃあ、一体どうするって言うんだ。」
「……明日、教会で、しっかりとストラーデ様に見てもらいましょう」
「本気か。それで、どうするってんだ?」
「なんとしても説得してみます。この街の事情を話せばきっと分かってもらえるはずです」
「分かってもらえなかったらどうする」
「その時は……」
部屋は沈黙に包まれた。
教会の前には既にアレスと、数名の街の者がいた。ストラーデを見ると、真っ先にアレスが頭を下げた。
「おはようございます、ストラーデ様。……どうか約束して下さい。どうかここで見たことは他言なさらないで下さい。」
「アレスさん……ここのことは皆さんご存じなのでしょうか?」
「知らぬ者も、いるにはいるでしょう。しかし街の外には出したくないのです」
「そうですか……」
ストラーデは他の人間を見た。アレスの他は皆不審と敵意をない交ぜにしたような視線を投げかけている。対して教会を囲む兵士はと言うと、ただ機械的に人を選別しているだけのようである。ウエルは、帝都が勝るのは兵力だと言った。もしかしたら兵士は単に帝都から雇われているだけなのであろうか。
「ストラーデ様、こちらです。」
アレスは早速ストラーデを導いた。
まさか殺されやしないかと言う不安が頭を掠めたが、既に教会の扉は開かれた。もう引き返そうもない。覚悟を決める。なに、考えれば楽なものだ。単に街の仕掛けを見せて貰うというだけである。ともすれば、自分の居た街も同様に栄えることができるのかもしれない。そう考えれば足取りも幾らか軽くなった。
「ほれ、この先じゃ」
急に、ひしゃげた老人の声がした。びくっとして立ち止る。夢にまで出て来た、あの老人の声である。周りを見る。しかしその老人の姿は何処にも無い。
「如何しましたか?」
「いえ……」
アレスの質問に不明瞭に答えた。一同の視線が注がれる。それも気に留め得ない程に、ストラーデの心は狼狽していた。表情に出すまいと努めたが、或いは無駄だったかもしれない。
そうして夢を思い出す。私はあの時確かに見たのだ。途端、一歩一歩進むごとに足元がぐにゃりと沈んだ。そこから先は全て夢のようだった。棚の裏を見る。夢の通りの階段がある。階段を下りる。夢の通りに、あまり深さは無い。
中は既に明かりが点されている、周りには人が居る、アレスが居る。そういう夢とは違う点が、少しだけだがストラーデの心を安心させた。
「如何しましたか。」
アレスの問いに、気の無い返事しか出来なかった。自然アレスも黙った。一同、黙々と地下を歩く。ストラーデの心臓の鼓動がみるみる速くなる。もうそろそろだ。夢の通りだとすれば道が尽きる。やがて道が尽きた。夢の通りでは少し広い空間に大きな法陣が描いてある。夢の通りだった。夢の通りだとすると、その法陣の中心にこの街の秘密の正体が有る。アレスが、それを見せるように横に退く。ストラーデはその中心を見る。
「これが、街の秘密です」
その法陣の中心にいたのは、――少女であった。
ただの少女であった。この地方では少し珍しい、褐色の肌をした少女であった。
少女は、ストラーデに不思議そうな、きょとんとした無垢な視線を投げかけ、首を傾げた。
別段、平気な表情をしている。拍子抜けしてしまった。こんなものが街の秘密なのだろうか?
恐らくこの地に伝わる、何かの儀式であろう。隠さなければならない重大な秘密などあるのだろうか?――しかし、すぐさまその見立てが間違いであることに気付く。
「これは……何で……何でこんなことを……!!」
先ず目に入ったのは、その少女の脚に括りつけられた太い鎖である。そして、よく見ると、真っ白な法衣は、ぼろぼろに破れている。切れ目から痩せ細った身体が垣間見える。表情だけは他の子供と何も変わらない。何も分かっていないような、取りとめもないことを考えているような、そんな顔で、見慣れぬストラーデをただじっと見ている。
「これが街の秘密です」
「……アレスさん。あなた達はなんてことを」
ストラーデはアレスを睨んだ。アレスはじっとストラーデを見る。街の他の者が身構える。それを察し、ストラーデは気圧されるが、アレスは、「待って」と街の者を制する。
「ストラーデ様。これが街の秘密、三十年前からの、街の繁栄の秘密です」
「三十年だと……?」
何かの冗談だろう? 少女を見た。どう多く見立てた所で十を過ぎたばかりにしか見えない。少女はまた不思議そうに首を傾げた。
「本当でございます。私が『この御方』を初めて拝見いたしましたのは十年ばかり前でございましょうか。……この街の者は、ある年齢になると、この御方のお目通りの儀式に参加するのです。その時この目に映じた御姿と、この目の前にある御姿とは殆ど変りありません」
「そんな馬鹿な、そんな人間が……」
「人なんぞではございません。御神の御使いでございます。」
「アレスさん、あなたは間違っている。子供をこんなふうに扱うなんて、神はお赦しになりません」
「ストラーデ様。この御方は人の子などではありません。この御方は正真正銘、御神の御使いでございます。その証左に、この御方は年を取らぬばかりか、食料を必要としません。三十年、一度として食べ物を口にしたことが無いのです」
「そんな、そんな馬鹿なことが……」
「あるのです、ここに。ストラーデ様、このヨンドルの街は、三十年以上前から存在しました。いえ、元は街と言うよりは小さな集落でした。そしてこの地は元来荒れ果てた土地でありました。麦も作物も育たぬ痩せ細った土地でありました。しかし、この御方が舞い降りたのです」
二人は少女を見た。少女は雰囲気を察したのか、何となく居心地が悪そうに膝を抱えている。
「するとどうでしょう。辺りには種々様々な果実が実り、緑豊かになり、土を掘れば清らかな水が出て、鉄や、金銀さえも数多に掘り出されました」
「そんな……」
アレスは、ストラーデの力無い言葉を無視して続ける。
「そしてこの御方は仰せになりました。『この地に血で以って陣を描き、我を鎮座し鎖で繋げ。さすればこの地は未来永劫安泰なる繁栄を約束されるであろう』と」
「嘘じゃ!!」
ひしゃげた老人の声。突然。あまりに突然。アレスの言葉を遮るように、ストラーデの脳内に響いた。――
同時に体が大きく揺さぶられ、膝から地に着いた。頭の中がくらくらする。
「ストラーデ様?」
アレスが心配そうに二三歩足を進める。しかし、
「るべす!」
と言う少女の声が響いて、足を止めた。その場にいた全員がその可愛らしい声の主を見た。
法陣の中心に座っている、其の少女を。――
先程までとは一変、満面の笑みを浮かべ、目を輝かせストラーデに視線を注いでいる。
「るべす、るべす!」
少女の変容に、街の者は皆唖然とし、息をするのを忘れる程驚いていた。
ストラーデは一人くらくらする頭を抱えながら立ち上がり、法陣の中へ入った。
「ストラーデ様、一体何を!」
アレスの声は、ストラーデには届いていない。仕方なく、強引にストラーデの体を止める。すると、アレスの体はバリバリと稲妻が体中を走ったように痺れた。
「ストラーデ様……どうか……お待ちください……!」
ストラーデには届かない。
ストラーデは、法陣の中を一歩一歩進む度、全身を刺すような痺れが走った。が、それを物ともせず、法陣の中を中心へ向かってひたすらに進んだ。一歩一歩歩みを進めるごとに体の揺れが激しくなる、足元が覚束なくなる、頭の中のくらくらが激しくなる、視界もどんどん狭くなる。
「ほれ、この先じゃ」しゃがれた老人の声。
「うるさい。」
邪険に呟いた。しかし、自分の意思で歩いている感じがしない。それなのに、不気味とか恐怖とかそういう感情は全くなかった。ただひたすら、少女を目指していた。
「ほれ、進むのじゃ、ほれほれ」
少女との距離は、僅か。視界には少女の姿しかない。頭の中には老人のほほほという笑い声が煩わしく響く。アレスの叫びは一向にストラーデには聞こえない。もう、自分が何を考えているかも分からない。少女が笑う。
「るべす、るべす!」
「……ルベス? 僕の名前は、ストラーデだ」
夢うつつの状態で、ストラーデは自分を指差した。少女はきょとんと首をかしげた。
「ストラーデだよ。言ってごらん。ストラーデ」
少女は真っ直ぐにストラーデを見ている。
「すとらあで?」
がん! と頭の中に衝撃が走った。鈍痛が頭に、次第に全身に伝搬する。立っていられない程の衝撃であるのに、何故か倒れない。倒れることができない。身体が銅像のように硬直している。大酒に酔ったように意識がぐにゃぐにゃになりながら、ただストラーデの眼は少女を捉えている。
「すとらあで、すとらあで!」
少女は楽しそうにストラーデを指さした。すると少女は、今度は自分を指さした。
「すうば!」
「ス・ウ・バ?」
「すうば、すうば!」
それこそが、少女の名であろうか。しかしストラーデは何も考えられない。
ストラーデは何とか少女に触れようと試みた。何故そうしたのかは分からない。自分の意思ではない気がする。しかし、しようとしたのである。満足に動かない身体で必死に手を前に伸ばした。少しずつ少しずつ、手が、身体が少女に近づく。
「ス・ウ・バ……」
もう一度、声に出した。手が、少女の、スウバの頬に触れる。途端にストラーデの身体が宙に浮く。ストラーデは何も考えていない、考えることができない。ただゆっくりと、ぼうっと浮いている。ゆっくりゆっくり自分が飛んでいるらしいということだけを感じている。――
そして地面にたたきつけられる。瞬時にその痛みが全身を走る。
「ストラーデ様!」
アレスが叫んだ。ストラーデは法陣の外で、意識を失ってぐったりと倒れこんでいる。
目を覚ました時、ストラーデは宿のベッドに横たわっていた。見廻すと、傍らに子供がちょこんと座っていた。宿の子供である。真ん丸な目でストラーデをじっと窺っている。
「あ、君」
これは一体どうしたのか、と聞いたが、子供は椅子からぴょんと跳んで立ち、既にドアから外へ出て行ってしまった。お母さん、起きたよ。との叫び声が聞こえた。
ストラーデは起き上がろうとしたが、体中が痛んだ。どうやら所々包帯で包まれ添え木で固定されている。起き上がることは諦めた。ドアが開いた。先ほどの子供がドアを開け入り、後ろにこの宿の女将であろう中年の女性がスープを盆に乗せ入ってきた。
「あ、えっと」
「ああ、いいよ。無理しなくて」
ストラーデが無理にでも身体を起こそうとするのを女将が制した。女将は布団を丸めストラーデの背中に置き、そうして手慣れたようにストラーデの身体をゆっくりと痛みなく起こした。
「ほら、大丈夫かい? どこか痛むかい?」
見事な手際に感心しながらも、ストラーデには疑問があった。
「いえ、平気ですけど。……あの、私はどうして此処に?」
「ああ、アレスさんが運んできてくれたんだよ。どうか頼みますって。さっきまで心配して、ここに居たんだけどね。お医者さんから特に大事は無いって聞いて、安心して自分の家に帰って行ったよ。なんせ、奥さんがああだからね。お礼言っときなよ」
「は、はあ」
女将はストラーデににっこりと笑みを向けたが、寝ぼけ眼のストラーデの心には届かなかった。ただ生返事を返し、俯いた。そんな彼の様子を特に気に留める事無く、女将は話を続ける。
「アレスさんはね、困っている人はほっとけない性分なのさ。若いけどあれで偉いもんだよ。皆の意見を聞いて、この街を一つにまとめて。街のもんは多少気が荒いところがあるけどね、それをよくなだめて冷静に事を進めている。家のもんにも見習ってほしいね」
「そうですか……信頼されているのですね」
「ああ、そうさ。でも気苦労は絶えないだろうね。街のもんもそうだけど、奥さんも気にかけなきゃいけないからね。知ってるかい?」
「ああ、はい。御家人がどうも具合が良くないようで。詳しくは知りませんが。」
女将は芝居がかったように大きく頷いた。
「そうなんだよ。最近ではどうやら御祖父さんの方も悪いみたいでねえ。…本当にあの分からず屋の御祖父さん相手に、よくやってるよ」
「分からず屋? 御長老がですか」
女将はしまったというような表情を見せた。
「うーん、いろいろあってねえ。アレスさんの奥さんのナレスさんだけど、実は従姉でね、元々御祖父さんが決めた許嫁だったんだよ。まあ、財産を他の家にやりたくないって魂胆だろうね。お互いも元々仲が良かったから、問題は無かったんだけどね。でもナレスさんが身体をこわして、子供が期待できないと知ったら今度は別れさせて他の嫁を迎えようとしたわけだよ」
「そんなことが……」
「そうさ、酷いもんだろう。アレスさんは、いつもはああいう穏便な人なのに、それに対してはひどく怒ってね。絶対にナレスを離さない! ナレスが家を出て行くようなことになれば自分も出て行く! って、すごい剣幕でまくし立てたようだよ。それには流石の御祖父さんも引くしかなかったようだねえ。すると、しばらくして今度は御祖父さんが身体を壊してね。アレスさんは、そんなことがあっても自分の血の繋がった家族だからって、かいがいしく世話をしてんのさ」
「そうだったのですか……」
しかしストラーデは、そのアレスの言動と、地下に居る少女のことを思って複雑な気持ちになった。俯く彼に、女将はスプーンでスープをすくってストラーデの前に出した。
「さあ、話は取り敢えず置いといて、飲みな。ほら、あーん」
「い、いえ、そんな」
「いいからいいから遠慮しないで」
遠慮じゃなくって恥ずかしいからなのだが。そうは思ったが取り敢えず言うことを聞いて口を開けスープを飲んだ。鳥のスープに、よく煮こんだ玉ねぎと人参が溶け込んでいた。美味しくて直ぐに飲み込んだ。スープは減って行った。――不図、疑問がストラーデの頭を擡げた。
「あの、女将さんは教会の地下のことを御存じですか?」
「ああ、あの地下に居らっしゃる守り神様の事かい。教えてもらったんだねえ。街のもんなら知っているさ。外には秘密らしいけどね」
女将は平然と笑った。ストラーデはその笑みにぞっと背筋が凍った。どうしてそんな風に平気でいられるんだ。少なくともアレスは良心の呵責に苦しんでいるように見えたのだが、……
「あんなこと、人間にしていいことではないと思うのです」
「そうは言っても、人間ではないからねえ」
女将はさも不思議そうに、首を傾げた。
「それは、それでも……あんな風に鎖に繋いで、閉じ込めて……」
「でも……そうやれって守り神様が御自分で仰ったことだろう?」
「嘘じゃ!!」
急に、ひしゃげた老人の声が頭に強く響いた。
ストラーデは飲んでいたスープを全部吐き出した。――
その晩、ストラーデは夢を見た。直ぐに夢と分かった。強い霧の中に居た。
「ここは……」
荒れ果てた大地に佇んでいた。傍らには例の老人がいた。それを何ら不思議と思わなかった。老人は顔を向けた。いつもの通りに目は隠れたままであった。
「ほほほほ、あれを見よ」
老人は指を差した。指を指し示した方には数人の人だかりがあった。その中には真っ白な法衣を着て、杖を持った神官らしき人間がいた。よく観察すると、他の人間はその神官の従者のように、指示を仰いで動いていた。
「あれがヨンドルじゃ」
「あれが……?」
「ああそうじゃ。こんな痩せ細った大地に、何十人ばかりかの集落を作っておる。集落と言ってもな、もはや盗人たちのたまり場じゃがのう」
「でも、どうしてこんな所に」
「帝都を追い出されたのじゃよ。何やら怪しげな禁術に手を出したとかでのう。信者と共に逃げ出したわけじゃ」
「禁じゅ――」
急に、どさっと大きな音を立てて上から何かが落ちて来た。何かと思ってその方向を見ると、それは紛れもなく、裸の、地下に居た褐色の肌をした少女・スウバであった。音の大きさからして少女はかなりの高さから落ちて来たようだったのだが、平然と「いててて」という仕草をするのみで傷一つない様子である。
そこに、ヨンドルと他数名が近付いてきた。少女は不審がる様子もなくただ不思議そうに首を傾げた。――すると、突如として、少女の体の傍らから急に大きな美しい花が咲き出した。
この痩せ細った大地からである。
それを見て、ヨンドルの口角が上がった。ヨンドルは少女に更に近づいた。すると、上空から竜が、轟音をあげて舞い降りて来た。ヨンドルの他はそれに恐れ慄いて逃げ出した。
しかしヨンドルは一人、平然と立っている。そして持っていた杖を掲げてぼそぼそと何やら呪文らしい言葉を呟いた。竜が口をいっぱいに開け、牙をむき出しにしてヨンドルめがけて襲いかかった。しかしヨンドルが気合を込めて「ハッ!!」と息を吐き出すと、竜はガン! とヨンドルを覆う透明な壁にぶつかった。竜は一瞬怯み、離れたが、上空を飛翔し旋回しながら隙を窺っている。ヨンドルは嘲笑うように鼻で笑い、呪文をぶつぶつと唱えた。
すると飛翔する竜の周りに、槍を携えた、真っ黒な、泥人形の様な兵士が幾つも現れ、その兵士たちが次々と竜に襲いかかった。竜はその襲って来る兵士を一つ一つ難なく噛みつぶした。
しかし数が多い。捉え損ねた兵士たちが次々と竜の身体に槍を立てる。途端に竜は血だらけになって、力が落ちたのか、高度もだんだんと低くなる。それでも兵士達は攻撃の手を緩めない。ヨンドルは勝ちを確信したように竜から視線を外し、少女を見た。
少女はそんな竜の姿を見て慌てふためいて、ばさっと真っ白な翼を背中から出した。そうして飛ぼうと試みるも、既にヨンドルの術中にあったのだろう、身体が突然蝋の様に固まって、地面にどさりと倒れた。
翼も身体の中に戻ってしまった。竜はその少女を見て「があ!!」と猛りを上げ、助けに行こうとした。が、その隙を突かれた。
喉元に槍がぐさりと突き刺さる。竜は力なく地に落ちた。少女は涙を流し、動けぬまま叫んだ。ヨンドルはその一連に気を留めること無く、従者の一人を呼んだ。
呼んだ者をヨンドルは、腰の剣で首を落とした。辺りに血が吹き飛ぶ。ヨンドルはまたぶつぶつと呪文を唱えた。するとその血が地を這い、少女を中心に法陣が形作られた。
「これは……」
ストラーデには見覚えがあった。街がいなく、あの、教会の地下にあった法陣である。
切り殺された従者の死体は灰になって消えた。ヨンドルは法陣の外に出て、落ちた竜に近づいた。竜には未だ息があり、ヨンドルを懸命に睨みつけて威圧している。ヨンドルはそれを嘲笑で以って受け、呪文を唱えると、竜は天高く、山の向こうにまで吹き飛ばされてしまった。
少女は法陣の中心で気を失っている。ヨンドルが呪文を唱えると、法陣ごと、人の背丈ほど大地に沈んだ。するとどうであろうか、先ほどまでの荒れた大地は、忽ち大きな木がにょきにょきと育ち、花が咲き誇り、水が清流を形作った。――
傍らの老人が口を開いた。
「どうじゃ、これがこの街ヨンドルの起こりじゃ。街に流布する伝承はこれを覆い隠す嘘じゃ」
「これを……これを私に見せつけてどうするつもりですか!!」
「ほほ、どうじゃろうなあ。おぬしは、どうする積りじゃろうなあ。分からぬのう。ほほほほ」
辺り一面に老人の笑い声が響いた。
ストラーデは目を覚ました。――
ストラーデは歩きまわった。羨望の眼差しで眺めていた気色が、遠く彼方へ消え去った。街の喧騒も、豪華な装飾も、全て夢に思えた。美しい宝石も色とりどり豊かな作物も味気ない石ころにしか見えなくなった。
ストラーデは歩いた。途中、この僅かな間でも懇意になった人が幾人かいた。その皆が、ストラーデが倒れたと聞いて心配してくれた。そして親切にしてくれた。その親切に対しどう反応すればよいのかが分からなかった。
ストラーデの足は、自然とアレスの元へと進んだ。
行ってどうするのか。夢のことを話すのか。
この街に伝わる伝説は嘘だと言ってみようか。いや、言った所で、気がふれたと罵られるだけだろう。……待てよ、夢に見たことが本当だとは限らない。よくよく考えてみればそうだ。
どうして夜な夜な勝手に見た夢こそが真実だと、そんな馬鹿なことが言えるのか。……
しかし、どうしても自分の見た夢を嘘だと断じることが出来なかった。
夢こそが本当である。そう考える方が自然に思えた。
ストラーデは、アレスの元へ急いだ。何を話すかなど決めていないのに。
アレスは寝不足だった。ストラーデを宿に運び、医者に診てもらい、家に帰ると今度は妻の容体が急変していた。急いでストラーデの元から帰ったばかりの医者を呼び、薬を貰い、ずっと傍らに座っていた。やがて夜が明けるころには安定してきた。
今ではすやすやと穏やかな寝息を立てている。この顔を見られるだけで、アレスは幸せだった。他に何もいらないと思えた。……そこへ、侍女が戸を叩いた。
「若旦那様、ストラーデ様がおいでです。お礼を仰りたいそうです。居間に御通ししております」
「そうか、分かった。今行く。……ああ、入って、代わりに妻を見ていてくれ」
「畏まりました」
侍女が戸を開け入ってきた。アレスは妻の額に接吻し、寝室を後ろにした。――
居間に入るとストラーデが座っていた。彼はアレスを見止めると立ち上がり、一礼した。
「宿に運んで下さった上に、御医者様まで呼んで下さったようで」
「いえ、街の責任者として当然のことをしたまでです」
「それでも、ありがとうございました。その、あの、教会の地下の事も……」
「はい」
この話題を出した途端に両者とも言葉が続かなくなった。気不味い沈黙が流れる。アレスは悲愴な表情で俯いている。ストラーデは一旦話題を変えた。
「あまり顔色がよろしくないようですが」
「ああ、昨夜妻の身体が悪くなって、寝ていないのです」
「そうだったのですか。……あの、今は?」
「今ではもうすっかり良くなっています。御医者様にお薬を処方していただきましたから。ご心配、ありがとうございます」
アレスは安心させるように笑いかけた。
自分に気遣いなどしなくていいのに、本当に優しい人だ。とストラーデは思った。この笑顔を曇らせる権利など自分には無い、今すぐにでもこの家を出て行くべきだ。
そうは思ったのだが、……やはり、そういうわけにもいかない。
「……アレスさん、地下の少女の事を、どう思っていらっしゃいますか?」
「どうと言うと?」
「そうですね。……まず、この街の繁栄はあの『少女』のおかげであると思いますか」
「はい。帝都の年長者も、三十年前は荒れ果てた土地だと。記録にも残っています」
「帝都の? 街の年長者は?」
「街の者は、実は三十年前からここに住んでいるものは一人として居ないのです。殆どが帝都出身で、残りの人間も、外からこの地に移り住んだ者です。もと居た人達は離れたようです。ヨンドルは帝都の者に、……その中には私の祖父も居たそうですが、この豊かな大地を譲り渡したそうです。伝承と共に。今はどこへ行ったのか、分かりません。きっとどこかを旅していることでしょう。もしかしたら世直しの様な事をしているのかもしれません。」
それは無い、とストラーデは思った。己の夢を信じているかのように。
「あの『少女』が居なくなったらどうなるとお考えですか?」
アレスの表情は曇った。そうしたくはなかったのだが、仕方ない。ストラーデは続ける。
「いえ、もしも、の事です」
「矢張り……元の荒れた大地に戻るでしょう。皆この街から出て行かざるを得ないでしょう」
「そうですか。……あの、もう一度あの『少女』に会うことは出来ませんか」
突如として、アレスの表情がきつくなった。人でも殺せそうな勢いだ。過去に祖父と対峙した時も、きっとこんな顔をしたのだろう。とストラーデは少し呑気に思った。
「どうか、御遠慮下さい。今回のこと自体、かなり異例の事なのです。それに……それに、あなたが変な気を起こさぬとも言えません」
「変な気、と言うと?」
「あの少女をさらっていく、などという事でございます。」
「御信頼なりませんか」
「すみません。しかし、もしもという事がありますので。私にもこの街の責任者としての責務が御座います」
考えてみれば当然の事だ。それでも謝辞を述べるのだから、やはりアレスは優しいのだ。ストラーデはまたそんな呑気な事を思った。
「それに……それにあの『御方』が居なくなったら、妻の為の薬草が取れなくなるとも考えられます」
「そうですか……そうとは知らず不躾な質問でした。……あの少女、スウバと言いましたね。」
「……ストラーデ様、あの御方は、今まで一度も言葉を発した事が無かったのです。……あの御方に、今までその御名などを我々が伺う事はかないませんでした。ストラーデ様、あの御方と意思を通じたのはあなたが初めてです。それに、法陣内部に入ること自体、我々の誰もが出来る事ではなかったのです」
「そんな……そんなことが」
ここでアレスはきつい表情を崩し、悲痛そうな顔をした。
「ストラーデ様、街の者で、何人かはあなたに不信感を抱いています。不安なのです。今は私がなだめていますが……」
ストラーデは、教会での面々を思い出した。……ストラーデは諦めた。結局ストラーデは商売をしに来たに過ぎない。敵意を向けられたのではこの先不安ばかりが立つ。――そんな事も忠告してくれる。矢張り、どう考えても優しいのである。
「そうですか」
「すみません」
「あなたが謝る事などではございません」
「でも」
「いいえ、いいのです。……信用を失ったとあれば、この街との交易も、諦めなければなりませんね」
「……すみません」
「いいえ、本当に、あなたが謝る事ではございません。全て私の我儘なのです。近いうちに、街を出ようと思います。短い間でしたが、本当に、本当にありがとうございました。……あと、この事は他言致しません」
「……助かります」
「……アレスさん」
「何でございましょうか」
「アレスさんは、この街の伝承を、……スウバが自らの意思で犠牲になったという伝承を、お信じになりますか」
アレスは、ストラーデの言葉に、目を見開いて、戸惑い、困惑し、躊躇い、何も答える事が出来ないでいた。――
「アレスさん、私は、この街を出ます。全て忘れます。今まで、ありがとうございました。」
ストラーデは扉を開いて逃げるように出て行った。
アレスはその後姿をただ黙って見送ることしかできなかった。
ストラーデはまた夢を見た。今度も夢と分かった。もう、嫌だった。
「居るのでしょう。性懲りもなく」
老人が当然の様に居た。
「ほほほ、また随分な物言いだのう」
しゃがれた重く低い声で答えた。
「もう、私は出てゆきます。もう関係ありません。もう関係したくないのです」
「ほほほ、それは残念だのう。しかしのう、どうじゃ、今日で最後じゃ、会って行かぬか」
場面は、既に教会の地下である。ストラーデは戸惑った。
「しかし、……しかしもうどうしようもできない。何人かを既に敵に回してしまった。アレスさんにも迷惑をかけられない。それに、それにスウバが居なくなれば、もしかすると、……もしかするとナレスさんも生きていられない。それじゃあ、駄目だ。駄目なんだ」
ストラーデは消え入るような声で呟いた。しかし老人は実に楽しそうに笑う。
「ほほほ、なに、会うだけじゃ。会って、別れの挨拶でもするがよい。それでよい」
「……話す事が?」
「さあのう、出来るかもしれぬし、出来ぬやもしれぬ。ほほほ。怒るな怒るな。会うだけじゃ。会ってみるだけじゃ」
ストラーデは、渋々足を進めた。やがて道は尽きた。そして法陣の外に足を止めた。すると少女が、スウバがこちらに気付いて、
「すとらあで!」
無邪気な笑顔を向けた。ストラーデはその姿を、その笑顔を、神とか超自然な何かだと思うことは出来なかった。足元に視線を落とす。先日の事もあり、躊躇する。法陣の内に一歩踏み入る。……何も起こらない。もう一歩足を出す。矢張り何も起こらない。眼前の少女を見据える。無邪気な笑顔でこちらにきらきらした視線を注いでいる。
「すとらあで!」
「スウバ……」
ストラーデはすぐさま駆け寄って、少女を前に片膝をついた。少女は笑顔で見ている。
ストラーデは見た。ぼろぼろに、布切れのように破れた服を。足首に巻き付かれた、錆びれた鉄の鎖を。――ストラーデは少女の足に触れた。触れる事を叶わなかったその体に。
「すとらあで」
少女はくすぐったそうに、また少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。その反応が愛しかった。
「ほほほ、本来ならば誰もこの法陣の内に入る事は叶わぬのじゃが、のう。おぬしは平気のようじゃ。素質はあるようじゃのう。」
老人は法陣の外から二人を見守っている。
「では、この少女は三十年間、外に出た事が無いばかりか誰とも触れ合った事が無いのですか」
「ほほほ。そうじゃ。この三十年の間、ただ一人この地下で街に大地に幸福を与え続けていたのじゃ。ほほほ、まあ、触れられぬ方が良いのかもしれぬがのう。ほほほほ」
頭を撫でると、少女はくすぐったそうに笑った。それから、両の膝を地に付け、両の手で少女の鎖の付いた足に触れた。
「そう。……偉かったんだね、スウバ」
そう言って足先にそっと口付けた。少女は顔を赤らめながら、不思議そうに首をかしげた。
「……言葉は喋れないのですか?」
「ほほほ、言葉は持ってはいるのじゃが、この法陣の、この結界のせいでそれさえも縛られているのじゃ。あのヨンドルとか言う魔術師、なかなか抜かりが無いのう。ほほほほ」
老人は笑っている。ストラーデは、今度は頬に触れた。
「ほほほ、おぬしの名を呼んだりした事を思うと、どうやらこの法陣の力も弱まっているようじゃのう。ほほほほ」
ストラーデは真っ直ぐに少女の顔を見た。少女は真っ直ぐな視線をストラーデに返した。ストラーデは少女の顎に手を置いた。そして最後に、少女を強く抱き締め、そっと口付けをした。
「スウバ……僕が、君を……」
ストラーデは目を覚ました。外は未だ暗かった。起き上がり部屋を見渡した。
「……居るのでしょう?」
「ほほほほ」
老人が部屋の影から、重く低いしゃがれた笑い声を響かせながら姿を現した。老人の目は当然隠れている。口元だけで、笑っていることが分かる。
「……あなたは、何者ですか」
「ほほほ、おぬしの頭で分かるのはな、わしが人の世の理を遥かに超えた存在じゃという事だけじゃ。あの少女も然りじゃ。ほほほ、そしてのう、おぬしもまた、成りうるのじゃが」
「僕が……?」
老人は嬉しそうに笑う。
「そうじゃ。おぬしは、どうしたいのじゃ。言うてみろ。言えば、儂が応えてやろうぞ」
老人がストラーデに近づき、その皺だらけの手をストラーデの頭に乗せた。ストラーデはじっと老人を見つめている。
「あなたが、応えてくれると?」
「ほほほ、応えようぞ。言え、言うのじゃ。どうしたい。あの娘をどうしたいというのじゃ。言うのじゃ。……言え……ストラーデよ」
「僕は……僕は、あの少女を……僕はあの少女を、助け出したい」
老人は顔をあげた。老人の両の眼はストラーデを真ッ直ぐに捉えた。
同時にストラーデは老人の其の両の眼をはっきりと見た。
目は黄金に輝き、蛇のような、黒眼が縦にすっと縦に切れている。
ストラーデはその不思議な目に吸い寄せられた。
いや、老人がストラーデに入り込んだのかもしれない。自我が不安定になり、不安になった。
全身ががくがくと震えた。そしてまた同時に、身体の、心の奥底から力が溢れ出てくるのが分かった。それを意識すると、恐怖はやがて消え去った。
「すごい。……すごい。こんな力が……」
やがてストラーデの身体から黄金の光が溢れだした。力がどんどん増す。
何でも出来る。天を這う事も、海を渡る事も、地を割く裂く事も、あの少女を、今すぐにでも助け出す事も、――
にやりと笑うストラーデの傍らで、老人がさも嬉しそうに笑っている。




