わらう、声
ヴァルが病院を出てすぐに、フリューの姿は見つかった。
先程二人で話した場所で、一人町を見下ろしている後ろ姿がある。
「……フリュー?」
「ヴァル、お医者様の話は終わったの?」
名前を呼べば、少女は振り返ってヴァルに笑いかけてきた。
その表情は先程見た時と変わらない。どこか寂しげに見える笑みを浮かべていた。
「…………大丈夫?」
思わず、そんな問いがヴァルの口をついて出る。
フリューは目を丸くして、だが、すぐにいつもと変わらない笑顔に切り替わってしまった。
「ええ、大丈夫。なんとなくね、わかっていたことだから」
「……フリュー」
「でも、いいの」
そんな筈ないだろうと言いかけた少年が言葉を口にするよりも先に、少女はただそう告げる。
思わず黙ってしまったヴァルがフリューを見つめた。彼女は、静かに笑っている。
「だって、忘れたのならまた覚えればいいんだもの」
そして彼女は、戸惑って何も言えないでいるヴァルの左手を握った。
フリューの手はやわらかで、あたたかい。残念なことに、ヴァルの左手ではその温もりは全く分からなかったのだが。
「ね、ヴァル。私、この町をもっと見てみたいわ」
「え?」
「あなたに、案内してほしいの」
軽やかに走り出すフリューにつられるように、ヴァルもまた走り出した。
繋いだ手は離れることなく、楽しそうに道を駆ける少女の後ろ姿に彼はそっと息を吐く。
フリューの笑顔はあまりに眩しくて、まともに目を合わせられなかったのだ。
***
「大きなお肉ね。これは一体何のお肉なの?」
市場に吊るされている薄桃色をした肉の塊を見上げて、フリューが感嘆した声で呟いた。
その肉を売っている男がにこにこと笑いながら、彼女に話しかけてくる。
「なんだと思う、お嬢さん?」
「……うーん……? 何かしら?」
「答えは、竜さ!」
男の言葉に、フリューは目を丸くした。
この世界ではまともに家畜を育てられる環境は殆ど無い。農業を主な産業とする都市でもなければ、牛や豚、鳥の肉など食べられない。
代わりに重用するのが、『竜狩り』が狩る竜の肉だ。体内に毒を持つ竜など、例外は存在するがその殆どはちゃんと食べられるものであり、市場に並ぶのはもっぱら竜の肉であった。
「……ちなみに、僕が作ったスープに入ってたのも、竜の肉だから」
「そうだったの?」
「うん」
フリューが納得したように頷いて、ふと何かを思い出したのか首を傾げる。
「じゃあ、あの竜は? ヴァルがさっき倒してた竜」
「ん? ヴァル坊何か狩ってたのか?」
「灰蜥蜴と牙竜」
「あー、ありゃ駄目だ」
肉屋の男がうんざりとした様子で首を横に振る。
答えを求めるように此方に顔を向けたフリューに、ヴァルは彼女が望む言葉を返した。
「灰蜥蜴は単純に美味しくない。鱗も牙も爪も役に立たないしね。牙竜は……まあ、牙がそこそこ売れるくらいかな。まあ、あれも強さが最低だから、肉も微妙。砂竜とか、稀少種の角付きだったら、そこそこ美味しいし貴重なんだけど」
「そうなの……難しいのね、竜を食べるのも」
「うん? まあ、そう……だね?」
彼女にとっては、竜の強さよりも美味しい肉を食べる方が重要らしい。
その時、微かな音がヴァルの耳に届いた。
振り返ると、フリューが腹を押さえて首を傾げている姿が視界に飛び込んでくる。
「…………あら?」
「フリュー、お腹空いたの?」
考えてみれば、些か早過ぎる朝食を食べてから大分時間が過ぎている。小腹も空くのは当然だろう。
「なんだい、お前ら。腹ヘってんのか」
「食べたのが早かったから……おじさん、そこの串焼き二本下さい」
「毎度!」
ヴァルは男に銅貨を差し出して、串焼きにされた肉を受け取った。瞬間、強い視線を感じる。
フリューだった。真紅の目は煌めき、じっと肉を見つめている。
ヴァルは苦笑しながら、彼女にその肉を差し出した。
「はい、フリュー」
「……いいの?」
「気にしないで。丁度、僕も食べたかったから」
「…………ありがとう、ヴァル」
フリューが差し出された肉を受け取り、一口かじり付く。
一拍置いて、彼女の瞳が輝いた。もぐもぐと口の中の肉を食べて、フリューが笑顔で言う。
「とってもおいしいわ!」
「ウチの家内が作ってるんだが、絶品だろう?」
「ええ、本当に。外はすごくパリパリしてるのに、中はしっとりしてて……!」
嬉しそうにそんな事を話すフリューと男の横で、ヴァルも肉を一口かじった。
フリューの言う通り、外の皮はパリッと焼き上がっていながら中の肉はしっとりとして柔らかい。美味だった。
「……ん、確かに美味しい」
話に夢中になる二人の横で、ヴァルはひたすら肉を食べていた。
***
「おーい、お二人さん!」
肉を平らげた二人が再び通りを歩き始めた時、声をかけてくる者があった。
フリューが目ざとくその人物を発見し、口元を綻ばせる。
「あら、さっき髪を切ってくれた人だわ」
にこにこと女性に手を振り返すフリューに対し、ヴァルは首を傾げた。
ちゃんと代金は払った筈だが、一体何の用なのだろうか。
「探したよー、二人とも」
「すいません、代金足りませんでしたか?」
「違う違う」
女性が指差したのは、フリューが着ている白のワンピースだった。
顔を見合わせるヴァルとフリューに、女性がにこやかな声で言う。
「それ、ドナのでしょう?」
「…………よくご存知ですね」
「それあげたのあたしだから。いやあ、てっきり八つ裂きにされたと思ってたんだけたどねぇ……と、それよりも」
ぽいっと投げるように渡された物を受け取ってみれば、それはさらさらとした肌触りの良い布で作られた服であるとわかった。
布を広げると、あきらかに女物とわかるコートだった。
「これは……?」
「そのワンピースだけだと色々と不便でしょう? だから、あげるわ」
ヴァルくんじゃあ、そういう甲斐性なさそうだし。
ついで笑い混じりに言われた言葉に、ヴァルはムッと眉を顰めた。
「もらっていいの?」
「うん、あげる。あたしの趣味に合わないしねー」
フリューの顔が喜色に染まる。
見るからに嬉しそうな少女に受け取ったコートを差し出すと、満面の笑顔で彼女はコートを胸に抱き締めた。
「……ね、ヴァルくん」
「…………今度はなんですか」
女性が、ヴァルの耳元で囁いてくる。フリューと同じように満面の笑顔を浮かべているというのに、先に嫌な予感しかしないのは一体どういうことだろうか。
うんざりとした調子のヴァルに構わず、女性は楽しそうに笑って告げた。
「やっぱりデートなら可愛くしてあげないとね!」
「…………は!?」
「それじゃあ楽しみなよー!」
そんな言葉を捨て台詞に離れていく女性を、ヴァルは茫然と見送ることしかできなかった。
「…………でぇと?」
言葉を反芻してみる。
デート。仲陸まじい男女が二人だけで出掛けること、だったはずだ。
だが、しかし。一体誰と誰がデートをしているのか。
「ヴァル、でーとってなに?」
フリューの無邪気な声に、どこかに行っていた意識が戻ってくる。
ヴァルはフリューに視線を戻すと、問いに答えようと口を開いた。
「えっと、仲の良い男女が二人だけで出かける……こ、と」
そこまで告げた唇が、不意に硬直する。
男女が、二人だけで。
自身の言葉が脳裏に過ぎり、ヴァルはフリューを見た。
「そう。なら、私とヴァルは今、デートをしているのね」
フリューが笑いながら何の他意も無く呟いたその言葉。
その言葉に、じわりじわりと恥ずかしさが滲みだしてくる。そっと周囲を見回せば、通り過ぎていく人々は此方に向けて微笑ましげな笑みを浮かべながら歩いていて、ヴァルの顔が朱に染まった。
「……ヴァル? どうかしたの?」
「あ、や、えーと……」
「ふふ、変なヴァル。ね、私もっと町を、見て…………」
透明な声が、止まる。
そのまま黙りこんでしまったフリューを訝しげに思い、ヴァルがちらりとフリューの顔を見て、驚愕に息を呑んだ。
「…………」
フリューは、通りの奥を見つめていた。
その顔は青を通り越して白く染まり、それに反して鮮やかな真紅の瞳は極限まで見開かれている。
「…………フリュー?」
「―――っ!!」
ヴァルが声をかけた瞬間、びくりと大きく体を震わせた彼女はそのまま長い銀色の髪を翻し、元来た道を一直線に駆けて行ってしまう。
一瞬見えた瞳には、先程まで疑問や喜びや好奇心を映していた筈なのに―――純粋な『恐怖』のみしか宿っていなかった。
「フリュー!?」
一体、何があそこまでフリューを怯えさせたのか。
ヴァルはフリューを追いかけながら、見ていただろう方向へ振り返った。
道を行き交う人々がいるだけの大通り―――否、誰かの視線を感じる。
「……っ」
背筋に冷たい何かが触れたような、ぞわりとした悪寒が広がった。
ただ、誰かに見られているだけだというのに、値踏みをされているような、蛇に睨まれているような、そんな気味の悪いおぞましさが足元から這い上がってくる。
「待って、フリュー!」
そんなおぞましさを振り払うように、ヴァルは足に力を込めて地を蹴った。
***
「見ィーつけたァ」
少年がくすくすと笑う。
行き交う人の中。走ってゆく少年と少女の姿を見送って、楽しそうに、本当に愉しそうに、嗤う。
その声を聞いたのか、前を歩いていた男が振り返った。
「…………どうかしたのかい?」
「なんでもないよォ、ちょっと面白そうな奴を見つけただけェ」
少年の含み笑いに嫌なものを感じたか、男が片眉を吊り上げる。
ああ、面倒なことになりそうと、少年はそんな事を思う。恐らくは、男の方も同じことを考えているのだろうが。
「……わかっていると思うけど」
「『秘密厳守』でしょォ? わかってるよ、そんなの」
男の忠告に対し、適当にそんな言葉を返すと、少年はひらひらと右手を振った。
人工太陽の光に照らされ、赤銅色の手が金属質な光を放つ。
「でもさァ、僕地下嫌いなんだよねェ。どいつもこいつも弱くて脆くてつまらない」
「…………暴れないでくれよ?」
「暴れないよォ―――此処ではね!!」
言うなり、少年は駆けだした。
慌てたような男の声が背後から聞こえるが、そんなの知ったことではない。
ただひたすらに、大通りを一直線に駆け抜ける。
「心配しなくてもさァ! ちゃーんと地上で遊んでくるよォ!!」
だって、見つけたのだ。
やっと、やっと、やっと、やっと、やっと、やっと、やっと、やっと、やっと!!
「アレは、僕の獲物だ……誰にも、渡さない……!! くく………っ、あははははははははははははは!!」
少年は高く、哄笑を響かせた。
探していたものが、目前にある。追っていたものが、手を伸ばせば届く距離にある。
「斬って、抉って、貫いて、殴って、嬲って、壊して、壊して、壊しつくしてあげるよォ!!」
愉しそうに、狂ったように。少年は嗤う。
早く逃げ惑う獲物の喉笛を噛み千切りたいと、唇を三日月に歪めて嗤う。
未だ年若い少年が浮かべるには、ひどく醜い笑み。
地底の都市に哄笑を響かせながら、少年は走っていった。