失われたモノ
***注意***
この話は人の死などの残酷な描写がございます。
そのようなものが苦手な方はこの話を読まないことをお勧めします。
地上からは水と緑と光が消えた。
とはいえ、地下からそれらが消えたかと問われれば、皆違うと答えるだろう。
地上からは失われた水、だが、地下には数多の水脈があった。
人々は地下水脈の近隣に町を作り、暮らしている。
生きる為に植物を育て、人工太陽を建造した。
人工太陽が輝く【朝】の時間と、人工太陽の稼働が停止し暗くなる【夜】の時間で一日を区別し、人々は地下で暮らし続けている。
それは、地上に暮らしていた時代と一見変わりない生活のように見えた。
だが、同じではない。
だって、地下世界には。
―――空が、無い。
***
「ああもう……っ!」
頬どころか耳まで赤く染まった少年が、ある部屋で服を物色していた。
服を物色とはいうが、それは男物ではない。女物である。
勿論のこと、ヴァルの物でもない。育て親のものだ。
「……ドナの服が合えばいいんだけど……」
少女が着ていた服は元の色がわからないくらいに変色していた。
服が襤褸切れに変わってしまう程、地上でさまよい歩いていたのだろうか。人にも会わず、まともな食べ物も食べられず、ひたすら、歩き続けていたのだろうか。
出会ったばかりのヴァルが生きていただけで、涙を流すくらいには。
「…………っと、考えてる場合じゃないか」
未使用の純白のワンピースを手に取り、その他肌着を適当に取ってそれを脱衣所にバスタオルと一緒に置いておいた。
「どうしたの?」
湯煙で曇った硝子戸の奥に、少女が立ち上がった気配がする。
そのまま扉に手をかけそうな雰囲気だったので、ヴァルは慌てて彼女に声をかけた。
「ま、まだ出て来ないで! お願いだから!」
「? わかったわ」
ひとまず少女が頷いたので、彼はホッと息を吐く。
だが、これ以上長居していても、少女が顔を出してしまうことは明白だった。なので、ヴァルはさっさと用を済ますことにした。
「……えっと、その…………体を拭くタオルと新しい服を用意しておいたから、置いておくね」
「ありがとう、嬉しいわ」
「え…………あ……うん、それじゃ……」
あまりにも素直に感謝を口にする少女に居た堪れなくなって、ヴァルはそそくさとその場を後にした。
***
暫くして。
キッチンで作業をしていたヴァルは、背後からの物音に振り向いた。
「あぁ、上がったん―――」
そして、硬直。
少女の方は突然固まった彼の姿に、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、えーと……」
照明の光を浴びてきらきらと輝く銀色の髪。瞳の色は鮮やかでありながらどこか艶のある真紅。
肌は滑らかで、白のワンピースよりも尚際立っていた。
絵になるような光景だ。そう、とても。
ただ―――少女に見惚れていた。
こうして改めて見て、わかる。自分と変わらない年頃だろうこの少女は、とても美しいと。
「……あ、う……えっと、」
「?」
少女に穴があきそうなほど見つめられ、段々と彼の頬に熱が集まっていく。
林檎のように赤く熟れた頬を隠すように、ヴァルは視線を少女から逸らした。
「そ、そこ座って待ってて」
しどろもどろにそんな言葉を口にしてから、彼は鍋を熱する火を消して鍋の蓋を開ける。
ふわりと漂い始める匂いに、少女がぴくりと反応したのがわかった。
「あの……」
「心配しなくても、君の分もあるよ」
お玉で中身をよそい、深めの皿によそっていく。
ヴァルが家に残っていた野菜の切れ端と肉団子を使って作った、簡単なスープだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……!」
スプーンを渡した瞬間、少女は素早い所作でスープを掬って一口目を味わい始めていた。
本当に一瞬のことだったので、ヴァルは目を丸くする。
「……おいしい!」
少女がスプーンを片手に笑った。本当に幸せそうに彼女は笑い、再びスープに口を付けていく。
「本当に、本当においしいわ! こんなに美味しいもの、私初めて食べた……!」
「余り物で作った奴だけどね」
「そんなことは関係ないと思うの。だって、おいしいと感じることに良いも悪いもないじゃない」
苦し紛れのヴァルの言葉でも、少女は幸せそうな顔を崩さなかった。にこにこと笑いながらスプーンを口に運び続けている。
料理を作った当人としては、こんな料理でも喜んでくれるのが嬉しいと思う反面、有り合わせの物で作ったものを振るまってしまい申し訳ないと思うやらで、非常に複雑だ。
そんな気持ちを隠すように、ヴァルは鍋を掲げた。
「……おかわり、あるよ?」
「いただきます」
即答だった。どうやら相当に腹を空かせているらしい。
少女の皿にスープをよそい、自分の分の皿にも少しよそって、彼女の向い側に座る。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
暫く、沈黙が続いた。片や、まともな食事を口にせず地上を放浪し、片や、三日三晩飲まず食わず寝ずに竜狩りである。お互いに腹を空かせていたのだ。
お互い黙々と食べ続けること数分、鍋の中に並々と満たされていたスープは空になってしまった。
そういえば、誰かと食事を共にするのは久しぶりだと、満腹感に浸りながらヴァルはそんなことを思う。一体いつから、一人で食事をすることに慣れたのだろう。
そんな感傷から現実に意識を引き戻したのは、少女の声だった。
「……ごちそうさまでした、すごくおいしかったわ。ありがとう……ええと、」
少女がスプーンを置いて、ヴァルを見つめて小首を傾げる。
困ったように視線を彷徨わせる彼女が何を言わんとするかを察し、ヴァルは口を開いた。
「僕はヴァールハイト」
「ヴァールハイト……ヴァルでいい?」
「いいよ。みんなもそう呼んでるから」
ヴァールハイト=ゲデヒトニス。とてつもなく長い名前なので、よほど親しい人間か記憶力がいい人間にしか覚えてもらえないという残念な名前である。故に殆どの者が皆、彼のことを「ヴァル」と呼んでいるのだ。
「ふふ、それなら私と同じだわ」
「……同じ?」
「私の名前、フリューリング=D=フリューゲルっていうのよ。ね、覚えにくいでしょう?」
確かに。頷きそうになり、ヴァルは慌てて曖昧な笑みを浮かべる。
フリューは彼の様子に気付かずにこにこと笑いながら、良い事を思いついたと言わんばかりに両手を合わせた。
「私のことは、フリューって呼んでちょうだい。その方が呼びやすいものね」
「……わかったよ、フリュー」
ヴァルが名前を呼ぶと、彼女はとても嬉しそうに笑う。
本当に幸せそうに、笑った。まるで、初めて誰かに名前を呼ばれたかのような、表情で。
「……君は、どこからきたの?」
思わず、そんな問いが唇から発せられる。
フリューは静かに首を横に振った。
「わからないわ」
一言だけの答えを告げて、彼女は真紅の目を伏せる。
たったそれだけの動作だというに、フリューがひどく悲しんでいるように思えた。
「私ね、記憶がないの。目が覚めたら……ひとりで。ずっと、ずっと、ずっと、歩き続けてた」
「ずっと?」
「そう、ずっと。歩かないと、見つかっちゃうから」
地上は竜の巣窟だ。
身を隠す場所など微々たるものだ。そんな場所で歩き続けるほどの苦労がどれだけのものか、ヴァルには想像もつかない。
「ずっと、ずぅっと、歩き続けて。気が遠くなるくらい、歩き続けて……」
目を伏せたまま語っていたフリューが、ふと視線を上げた。
真紅の瞳が華やぎ、薄い桃色の唇が三日月を形作る。ひどく、やわらかな笑みを浮かべていた。
「やっと……ヴァルに会えた」
とても真摯な声で、彼女は告げる。
失くしてしまった物をやっと取り戻した時のような、そんな深い思いがこもった声。
「…………そう、なんだ」
ヴァルはただ、そう呟くことしかできなかった。
じわり、じわり。広がり始める左手の疼きに、顔を俯かせながら。
同じように、ヴァルの胸の奥から滲むように広がっていく、『何か』の感情。
「…………」
―――僕はもうすぐ、死んでしまうかもしれないのに。
そんな思いを口にすることは、出来なかった。
***
「―――対象消失ォ」
「……そうか」
闇の中。響く声がする。
片や陽気に、片や密やかに。言葉を交わし合う。
「どうするのさァ。たしか、あの人の命令って……」
「……どうせ地上には隠れられる場所も無いんだ。捜しようはいくらでもある」
「えェ!? まぁたしらみつぶしに探すの? 竜殺しながらァ? 面倒くさいんだけど……」
片や少年。片や男の声。
面倒くさそうに呟く少年と、ただ淡々とした言葉を連ねる男。
どちらの姿も、暗い闇夜に隠されて見えなかった。
「とりあえず、補給に入ろう。確か、この近くにも町があった筈だ」
「はぁい」
疲れたように声を返す少年に、男が微かに苦笑を滲ませる。
がしゃんと、何かの音。
「あの方々にも、連絡をしなければいけないからね」
最後の一言だけが、やけに大きく闇の中に響いたのだった。
***
アインスの町は【朝】を迎えていた。
人工太陽が輝き、人々もまた活気溢れる様子で活動を始めている。
「すごく、賑やかね」
フリューが楽しそうに笑い、ヴァルの左手を引いて軽やかなステップで通りを歩いていた。
その都度、長すぎるほど長い髪が通りの煉瓦をぎりぎりで掠めて、美しい白銀の髪の毛先を僅かに汚している。もったいないなとヴァルが周囲を見回すと、丁度ある店が目に止まった。
「ちょっといい?」
「なぁに、ヴァル?」
ヴァルはフリューを連れて、その店に足を踏み入れる。
からんからんとベルが鳴った瞬間香る、花のような芳香。同時に、一人の女性が爽やかな笑みを浮かべながら、此方に歩み寄って来た。腰に着けた大量のポーチがどことなく印象的である。
「いらっしゃい……って、あれ? ヴァルくんじゃん。どうしたの?」
「この子……フリューの髪を整えてほしいんだ」
「私の?」
「ふぅん……これは、すごいね。一体いつから伸ばしていたの?」
女性の問いに、フリューは少しばかり首を傾げる。
そして考え考え、答えを口にした。
「ん、と……気が付いた時、から……かしら?」
「気が付いた時? いつよそれ?」
「…………すごい長い間って考えた方がいいと思う」
「……なるほど。それは凄そう」
代わりに応えたヴァルの言葉に、女性は呆れながらも面白そうな笑みを浮かべる。
彼女はポーチの一つからとても自然な動作で一本の鋏を抜き出すと、一度くるりと鋏を回した。
空いた片手は、既にフリューの腰に回っている。
「ま、あたしに任せてよ。腕によりをかけて、この綺麗な髪を仕上げてあげる」
「……ありがとう」
「うんうん、お姉さんにまかせなさい! ……ところでさぁ」
女性がフリューから離れると、ヴァルの耳元に唇を寄せた。
不思議そうに耳をそばだてる彼に対し、女性はひどく面白がっているような声音で尋ねてくる。
「この子、ヴァルくんの彼女?」
「な……ッ!?」
かぁっと頬を朱に染めた少年を見て、からからと楽しそうに彼女は笑った。
「―――あは、なーんてね! じゃ、ちょっと待ってて!」
フリューと彼女の手を引いて奥へと消えていく女性を見送って、ヴァルは深々と溜息を吐く。
何故だろうか、酷く疲れた気分だった。ヴァルが傍らの椅子に座った時、からんと扉に付いたベルが鳴る。
「ヴァールハイト」
名を呼ばれ、ヴァルは顔を上げた。美容室に似つかわしくない強面の男が一人、扉の前に立っている。
黒で統一された礼服を窮屈そうに着ていた彼は、気難しげな表情でヴァルに話しかけてきた。
「あー…………隣、いいか?」
「……どうぞ」
ヴァルの横に座った彼は、暫く黙り込んで何も話そうとしなかった。いや、話そうとはしているが、何から話せばいいかわからない、というのが正しいか。
奥の部屋から花のような香りと、女性達が楽しそうに話す声が聞こえてくる。そんな会話を聞きながら、無言で続きを待つこと数分。男は漸く、口を開いた。
「トーマス=ノートン。知ってるよな」
「……トムのこと、ですか?」
男が頷いたのを見て、ヴァルの胸の奥がざわりとさざめく。
何か、嫌な予感がした。これ以上この男の言葉を聞いてはいけないような、そんな、嫌な予感が。
「―――死んだよ」
男の声は乾いていて、その癖ひどく重々しい響きだった。
「…………いつ?」
「昨日。バルシュミーデのおやっさんの話だと薬を……な、飲み忘れていたらしい。運悪く、そん時に『発作』が起きたんだ。あいつ、【機病】の侵食で大分体が弱ってたからよ……それで逝っちまいやがった」
悪い夢を見ているような、気分だった。
病院の前で話をした彼の姿は、あんなにも元気だったのに。
薬を一度飲み忘れたという、些細なミスで、そんなちっぽけなことで―――彼は死んだのか。
「それで……だ。これ、あいつから預かってる」
「……え?」
少年の手に乗せられたのは、黒い革の手袋だった。見るからに新品の、しかも高級な物だとわかる。
「これ……」
「お前、あいつと同じ病気なんだろ?」
「………………はい」
「あいつもさ、【機病】にかかった直後は普段の明るさが嘘みたいに沈み込んでたよ」
男は胸元のポケットに手をやり煙草を取り出した。だが、今居る場所を思い出したのか、諦めて箱をしまいこむ。
「でも、いつからか……また笑ってた。けど、前みたいにへらへらしてアホみたいに笑ってるわけじゃねえ。何かの……覚悟を決めた顔だった」
いつ死んでも後悔が無いように生きていると、あの時彼が言っていたことをヴァルは思い出した。
だが、思い出した所で、あの青年は帰ってこない。
「そのことを、お前だけは……忘れないでやってくれ」
その言葉を最後に男は椅子から立ち上がると、そのまま美容室から出て行った。
残されたのは、黒い手袋を握り締めたヴァルだけ。
「…………どうしろって言うんだ……」
彼は掠れた声で呟いた。
答えは、返ってこない。
「ッ!!」
ヴァルは美容室から飛び出した。
理由なんて、無い。ただ、胸の中で暴れ続ける感情を、どうにかしたいだけだった。
「―――ヴァル!?」
背後で、誰かの声がする。
透明なその声から逃げるように、ヴァルは走り続けた。