見知らぬ少女
***注意***
この話は死ぬ、流血などの残酷な描写がございます。
また、グロテスクな描写が多々ありますので、そのようなものが苦手な方はこの話を読まないことをお勧めします。
懐かしい夢を、見ていたような気がした。
どんな夢かは思い出せない。
ただ、ひどく懐かしくて、どこか切ない、そんな夢を。
見ていたような気がした。
ぱしゃり。水の音が聞こえる。
何故だろう、この地上に水なんてない。全て枯れ果ててしまっている筈なのに。
ぱしゃり、ぱしゃり。頬に当たる、冷たいのにどこか熱く感じる何か。これは一体、なんなのだろう。
重たい瞼を持ち上げる。
答えはきっと、目を開いた先にあると思うから。
「ん……」
ヴァルはゆっくりと目を開けた。
視界に広がったのは、漆黒の夜空でもなく、かといって赤く荒れた大地でもない。
見知らぬ少女の、泣き濡れた顔だった。
「…………っ……」
少女はただ言葉無く鮮やかな赤い瞳からはらはらと涙の粒を零しながら、ヴァルを見下ろしている。涙は少女の頬を伝うことなく、落下してヴァルの頬を伝った。
あたたかいような、冷たいような、不思議な感覚。
「…………どうして、泣いてるの」
ヴァルは泣く少女に問いかける。思ったよりも声は掠れていて、どこか冷たい響きになってしまった。
怯えてしまうだろうかと彼は少女を見やるが、彼女は全く気にした素振りを見せずに、問いかけの答えを口にする。
「あなたが死んでしまうのは、いやだったから」
「…………どうして?」
この少女と自分は初対面の筈だ。
それなのに何故、彼女はそんなことを言うのだろう。
「だって、私がここまで来る中で、初めて出会った人なのに。何も話せずに死んでしまったら、哀しいわ」
「哀しい……?」
不思議なことを言う少女だと、ヴァルは思った。
不思議といえば、身なりも奇妙だ。ヴァルと変わらない年頃だろうに、化粧もお洒落も全くしていない上、服は薄汚れたワンピースが一枚という地上を歩くにはかなり危険な格好だというのに、手足や顔には全く傷を負っていない。
夜空の星の微かな光でさえ煌めく白銀の髪はひどく長く、今にも毛先が地面を引きずって傷めてしまいそうだ。
「君は、一体……」
ヴァルの問いかけは、最後まで音にならなかった。
『キアァアアアアア!!』
「―――!」
曖昧だった意識が刹那に覚醒する。
ヴァルは即座に少女の膝の上から起き上がり、周囲を注意深く窺った。
「今の声は何かしら?」
「……竜だ」
「竜?」
少女が不思議そうに首を傾げる。ああ、また疑問が増えた。
何故、地上を歩いていたのに竜を知らない。
「静かにしていて」
だが、今はそれに疑問を挟む余地は無い。
ヴァルは腰に手をやる。漆黒の剣は変わらずそこにあった。
大丈夫だ、戦える。
「君は……どこか、岩場の影に隠れて。僕が竜を倒すまで、絶対に出て来ちゃダメだ」
「…………大丈夫?」
少女の赤い瞳がヴァルを見つめる。そこに不安や怯えの色はない。ただ純粋に、少年の身を案じる思いだけがあるようだった。
そのことが、彼にどこかくすぐったさを感じさせる。
「大丈夫だよ」
ヴァルは少女を安堵させるように、笑みを浮かべた。
少女がこくりと頷きを返し、岩場の陰に身を潜めたのを見るや、ヴァルは剣を引き抜き走り出す。
「―――……っ!」
首にかかっていたゴーグルを引き上げ、同じく首に引っかけていた布を口元まで引き上げる。
前方に見える灰蜥蜴達の死骸。ヴァルが先程殺したものだろう。
それを貪る、竜の影。
「牙竜か……!」
灰蜥蜴よりも遥かに巨大な、赤銅の体躯と口元から覗く剣のように鋭い牙が特徴の竜だ。
死骸を貪っていたせいか、牙は赤く血塗れている。
疾走する黒の影。それに彼方も気付いたか、死骸を踏み潰して咆哮した。
「く………っ!!」
びりびりと鼓膜を震わす強烈な叫び。ヴァルは顔を歪めながらそれに耐え、ただひたすら走り抜ける。
『ガァアァアアアアッ!』
「うるさい……!」
此方に向かってくる竜に悪態を吐き、ヴァルは近くの大きな岩々を蹴って高く跳躍した。
そのまま刃を下にし、竜の体を貫こうとする。
だが。
「……!?」
鈍い金属音。ひどく耳障りな音が響き、黒の刃が竜の体に弾かれてしまう。
「ッ……くそ……!」
竜の血を吸い続け、三日間ろくな手入れをしてない刃には牙竜の皮膚を貫くには至らなかったのだ。
自身の愚行に悪態を吐きながら、少年は剣を振り被る。
「はッ!」
ヴァルは剣を竜の頭部に向かって、斬りつけるのではなく、叩きつけた。
斬撃が効かずとも、打撃ならばそれなりに効いたらしい。
竜は痛みに喘ぐよう、体を大きく震わせた。
「っと……!」
地面に着地したヴァルを殺そうと、蹴り上げてくる。
それを辛くも躱すと、彼はコートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは透明な袋に包まれた掌サイズのフラスコである。透明な液体が容器いっぱいに満たされていた。
『ギャォオォオオォオ!!』
「この……っ!」
踏み潰そうとしてくる竜の足をなんとか避けながら、ヴァルはそのフラスコを竜の足めがけて投げつける。
パリンと硝子の割れるような音が、ヴァルの耳に微かに届いた。
―――刹那、フラスコを踏んだ足を中心に氷が広がっていく。
氷はまるで蔦のように体に這い広がっていき、竜の動きを封じた。ヴァルは竜の体にもう一つのフラスコを投げつける。
硝子が割れ、竜の体に広がる氷の蔦。
「よし、これで……!」
あまり時間はかけられないが、動きを封じられた筈だ。
あとは爆薬を口に放り込めばいい。牙竜には一本二本では足りずとも、三本ともなれば流石にダメージは与えられる。
そんな思考を吹き飛ばすように視界の隅に映る、鋭い刃。
「―――っ……!!」
脳裏を過ぎるのは、先を無くしただ血を流し続ける左手首。
そして、赤く輝く鋼鉄の左手。
もし、ここでまた体の部位を失う程の怪我をしたら、どうなるのだろうか―――
「ぁああッ!!!」
ヴァルは悲鳴を上げて、竜から離れようと跳び退る。
爪の先端が、彼の頬をほんの少し掠めると同時、夥しい量の真紅が大地に飛び散った。それでも、ヴァルは生きていた。だが、それだけで竜には充分な時間稼ぎとなったらしい。
竜の喉が輝き始めるが、それはヴァルに向けてではない。
「…………あ」
竜の頭が向いているのは、少女が隠れる岩の方向だった。
フラッシュバック。たしかこの前も、似たような光景が広がっていた。
これは、なんて悪夢だろう。
「……ああ……」
今なら、逃げ出せるのでは?
そんな声が聞こえる。
竜は少女を狙っている。少女のことは自分しか知らない。
見捨てて逃げたって、誰も自分のことを責めないだろう?
「逃げる……」
ヴァルの脳裏に過ぎる、少女の顔。
宝石のように煌めく透明な涙を零し、ヴァルが生きてたことを喜んでいた少女。
大丈夫?と彼の身を案じてくれた少女の声。
ヴァルは少女が隠れる岩に視線を向けた。
風に揺れる白銀が岩の隙間からなびいているのがわかる。
「…………」
少年はゆっくりと、左手を竜に向けた。
掌に埋まっている透明の球体が目映い光を放ち―――竜に向かって一直線に光線が放たれる。
ほんの刹那視界を灼く、強い光。次いで、ごとりと何かが落ちる音。
左手が熱かった。じわり、じわりと広がっていく疼きが、これが現実なのだと実感させる。
体から力が抜けて、赤い大地の上に座り込んだ。
「は……っ、はぁ……」
荒く、息を吐く。
右手で頬の血を拭う。痛い。血が後から後から傷口から零れだし、右手を赤く染めていった。
だが、それでも。ヴァルは―――
「……大丈夫?」
いつの間にやってきたのか、少女がヴァルの目の前に立っていた。
彼女はヴァルと同じように荒野に膝をつき、白い指先で彼の傷ついた頬に触れる。
「怪我してるわ。痛くない?」
「……それは、まあ……痛いよ」
少女はじっと彼の青い目を見つめていた。ほっそりとした指先は傷を癒すかのように優しく頬を撫ぜている。
それがどこか気恥かしくて、ヴァルは話題を変えようと少女に話しかける。
「出てきちゃダメって言ったのに……」
「あなたが竜を倒すまででしょう? もうあの子は動けないと思うから」
その言葉に、彼は顔を上げた。視線の先に映るのは、竜。
首だけでなく胸まで広がる巨大な穴を穿たれ、絶命している竜の姿があった。
***
アインスの町は、暗かった。
どうやら時間的に、【夜】の時間帯であるらしい。
寝静まった地下の町はとても静かで、まるで誰もいないかのような錯覚を抱かせた。
「地下に町があったのね……全然、知らなかった」
感嘆とした呟きを漏らす少女に、ヴァルは呆れた視線を向ける。
「知らないって……まさか、君は地上に住んでいたの?」
「わからないわ」
一言だけの答えを返した後、少女はひたすら興味深そうに闇に包まれた町を見下ろしていた。
おそらく、今は何を言っても無駄だろう。ヴァールハイトは溜め息を吐くと、少女の手を取り歩き出した。
「……? どこにいくの?」
「僕の家だよ。言いにくいけど……君、汚れてるし……髪も伸ばしっぱなしだから、綺麗にしないと。女の子なんだから」
彼がそう言っても少女は全く意に介さず、むしろ不思議そうな顔をして片手で服の裾や髪を摘む姿に、ヴァルは頭を抱えたくなる。
彼女は一体どんな生活を送ってきたのだろうか。
尋ねた所で、きっとわからないとはぐらかされて終わってしまうのだろうと、ヴァルは何度目かの溜め息を吐いてから足を止めた。
「……ここが、あなたの家?」
「そう。ここが僕の家だよ」
ヴァルの家はアインスの町に入ってすぐの所にある。
元々育ての親である兄妹が買った家で、一般の家庭と変わらないくらいの広さだ。今は、ヴァルが一人で暮らしている。
彼が家の鍵をあけ、音を立てないように扉を開けるのを、少女は背後で興味深げに観察していた。
「どうぞ」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
にっこりと笑った少女が扉の奥に消える。ヴァルはゴーグルと口を覆う布を外し、砂まみれになったコートを脱いでから一度大きく振り払い、玄関に足を踏み入れた。
家の中は三日前と変わり映えがない。
質素で物が綺麗に整頓された小奇麗な所。そんな印象を抱かせる居間だった。
「とりあえず」
ぺっとりとインクをスタンプしているような足跡が、居間の床に規則正しく並んでいる。
少女が歩くたびに刻まれる足跡だ。彼女は一体どれだけ汚れているのだろう。
「なぁに?」
ヴァルは振り返った少女の手を掴もうとして咄嗟に左手を伸ばし、その硬質な輝きに動きを止めた。視界に移る自身の手に、尻込みしてしまう。鈍く輝く、醜い金属の手に。
「―――突然黙り込んで、どうしたの?」
その鋼の左手を、少女は躊躇いも無く両の手で握った。
温度を感じない筈のその手に、じんわりと熱さが広がっていくような、奇妙な感覚。
「大丈夫?」
「あ……うん、ごめん。大丈夫。ちょっと、疲れただけだから」
「疲れたなら、眠るべきだと思うわ」
少女がにこりと笑った。
どこか子供のような邪気のない笑顔が印象的で、ヴァルは思わず見惚れてしまう。
「私もね、動けなくなったらちゃんと眠るようにしてるのよ。その方がいいみたいだから」
「……うん、そうだね……―――でも、その前に」
「?」
未だに左手を掴んでいる少女の両手を右手でやんわりとはがしていく。まずは、左手。次いで、右手を。
不思議そうに首を傾げる少女の右手を引いて、ヴァルは歩き出す。
向かう先は、バスルームだ。
「いつから町に下りてないかしらないけど…………君、結構汚れてるから。シャワーでも浴びて、汚れを流せばいいよ」
バスルームを見回している少女に真っ白なバスタオルを押し付けて、ヴァルはそのまま出て行こうとする。
正直自分も汚れている自覚はあるので早くシャワーを浴びたい所だが、そこはレディファーストというやつだ。
「しゃわー? って、なぁに?」
「……え?」
「汚れを落とす道具……なのよね? よく、わからないけれど」
これは、まずい。まずい予感がする。
ヴァルの心臓が早鐘を打っていた。本能が早く逃げろと叫んでいる。勿論、間に合う筈がない。
「もし良かったら、私にこのしゃわーの使い方を教えてほしいの」
いつの世も嫌な予感というものは的中するものだと、ヴァルは思考の隅でそんなことを考えていた。